真珠湾(パールハーバ一)攻擊 – 世界史用語集

真珠湾(パールハーバー)攻撃とは、1941年12月8日(アメリカ時間では12月7日)に、日本海軍がアメリカ合衆国のハワイ・オアフ島にある真珠湾の米太平洋艦隊基地を奇襲した軍事作戦のことです。航空母艦から発進した攻撃隊によって、戦艦アリゾナなど多くの艦船が大破・撃沈され、基地施設や航空機も大きな損害を受けました。この攻撃をきっかけに、アメリカは正式に対日宣戦布告を行い、第二次世界大戦に本格的に参戦します。日本にとっては対米開戦の幕開けであり、世界にとっても戦争の局面を大きく変える転機となった出来事でした。

真珠湾攻撃は、日本側では「奇襲の大成功」として宣伝されましたが、長期的に見ればアメリカを強く結束させ、日本敗北への道を決定づけた選択だったとも評価されています。アメリカの国民感情は一気に対日敵視へと傾き、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」というスローガンが広まりました。日本側でも、当初は「短期決戦で有利な講和に持ち込む」という期待が語られましたが、実際には長期戦に引き込まれ、国力差が大きくものをいう戦争構造の中で追い詰められていきます。真珠湾攻撃を理解することは、なぜ日米が全面戦争に踏み込んだのか、そしてその選択がどのような帰結をもたらしたのかを考える上で欠かせません。

また、真珠湾攻撃は軍事技術や作戦の面でも重要な意味を持ちます。航空母艦と航空機を中心とした機動部隊による奇襲、長距離航行、雷撃・爆撃用の技術的工夫などは、その後の海戦のあり方を象徴するものでした。一方で、アメリカとの交渉が続いている最中に、宣戦布告の通告が遅れて実質的な「だまし討ち」とみなされた経緯は、戦後の日本の国際的イメージにも深い影を落としました。真珠湾攻撃は、軍事面・外交面・世論面が複雑に絡み合った歴史的事件として、多角的にとらえることが必要です。

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開戦への道と真珠湾攻撃の決定

真珠湾攻撃の背景には、日米関係の悪化と、アジア太平洋地域をめぐる利害対立があります。1930年代、日本は満州事変以降、中国大陸への軍事的拡大を進め、1937年には日中戦争(支那事変)が全面化しました。これに対し、アメリカやイギリスは中国(蒋介石政権)を支援し、日本の行動を「侵略」として批判します。アメリカは徐々に対日経済制裁を強め、航空機用ガソリンや鉄鋼製品の輸出制限を行い、さらに1941年には日本の在米資産を凍結し、対日石油禁輸に踏み切りました。

日本にとって、石油は軍艦や航空機、工業生産の生命線でした。インドネシア(オランダ領東インド)など南方には豊富な石油資源がありましたが、そこへ進出するには、フィリピンをはじめとするアメリカやイギリスの拠点との衝突が避けられません。つまり、日本は「中国大陸から手を引き、アメリカの要求を受け入れて経済制裁解除を求める」か、「南方資源地帯への武力進出とアメリカとの戦争」を選ぶかという厳しい選択に直面していました。

日本政府内では、外交による妥協を模索する動きもありましたが、陸海軍を中心とする強硬派は「屈服は国体を危うくする」として開戦を主張します。1941年夏には南部仏印(フランス領インドシナ南部)への進駐を強行し、アメリカ側をいっそう刺激しました。東条英機内閣成立後、日米交渉は続けられたものの、基本的な対立は埋まらず、アメリカ側のハル=ノートは、日本軍の中国・仏印撤退などを求める内容で、日本側には到底のめない最後通牒のように受け止められました。

こうした状況の中で、日本海軍は「開戦する以上、太平洋の主力である米太平洋艦隊を最初に叩き、主導権を握るべきだ」と考えました。真珠湾にはアメリカの戦艦部隊が集結しており、ここを奇襲によって無力化すれば、南方作戦を進める間にアメリカ艦隊の妨害を受けにくくなる、と判断されたのです。山本五十六連合艦隊司令長官は、対米戦には悲観的でしたが、「戦うと決めたなら、最初に大打撃を与えなければ勝ち目はない」として、真珠湾攻撃計画を強く推しました。

山本らの発想は、従来の戦艦中心の海戦観を超え、航空母艦を主力とする機動部隊による奇襲攻撃を柱とするものでした。当時としては大胆かつ前例の少ない作戦であり、海軍内部にも反対意見がありましたが、最終的に真珠湾攻撃は大本営で承認されます。開戦日も、南方作戦との同時開始を前提に、1941年12月8日(日本時間)と定められました。

作戦準備と攻撃の経過

真珠湾攻撃の成功には、長距離航行と奇襲性の維持、そして湾内に停泊する艦船に対して効果的に打撃を与える技術的工夫が必要でした。日本海軍は、空母6隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍・翔鶴・瑞鶴)を中核とする第一航空艦隊(機動部隊)を編成し、大量の艦上攻撃機・艦上爆撃機・戦闘機を搭載しました。これらの空母が、北太平洋の荒れた海域をレーダー監視や航空偵察を避けつつハワイ近海まで接近し、一気に航空攻撃を仕掛けるという構想です。

技術面では、真珠湾が浅い入り江であることが問題となりました。通常の航空魚雷は、投下後に深く潜り込んでから目標に向かうため、浅瀬では海底に激突してしまう危険が高かったのです。そこで日本海軍は、魚雷に木製の安定板を取り付けて沈み込みを抑える改良を行い、浅い湾内でも使用できる「真珠湾用魚雷」を開発しました。また、水平爆撃による戦艦撃沈をねらった特殊な徹甲爆弾も用意されました。

1941年11月下旬、第一航空艦隊は北方・千島列島の単冠湾(ひとかっぷわん)を秘密裏に出撃し、厳重な無線封鎖のもとで太平洋を東進しました。アメリカ側は日米関係の緊張を認識していたものの、具体的な攻撃地点については、フィリピンや東南アジア方面を想定しており、ハワイへの直接攻撃までは予期していませんでした。一部の情報や暗号解読から警告が出されていたとの指摘もありますが、全体としては真珠湾の警戒は十分とは言えませんでした。

日本時間12月8日未明(ハワイ時間12月7日朝)、第一航空艦隊はハワイ北方約300カイリの位置に達し、第一波攻撃隊が発進します。第一波は雷撃機・急降下爆撃機・戦闘機など約180機で構成され、真珠湾の戦艦群や飛行場を主な目標としました。続いて第二波も同規模の編成で出撃し、飛行場や残存艦艇、施設への攻撃を行いました。

攻撃の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦8隻のうち、アリゾナ・オクラホマなど多くが大破・撃沈し、湾内は炎と黒煙に包まれました。とくにアリゾナは弾薬庫の誘爆により大爆発を起こし、多数の乗組員が一瞬で命を落としました。航空機も多くが地上で破壊され、基地施設にも大きな損害が出ました。日本側は戦艦を中心に大きな打撃を与えたと判断し、「目的は達成された」として第三波以降の攻撃は行いませんでした。

一方、日本側の損害は、撃墜・不時着などで航空機二十数機、人的損害も比較的少数にとどまりました。この点だけを見ると、真珠湾攻撃は「奇襲として成功した」と言えます。しかし、アメリカ側の空母はたまたま真珠湾外に出航中で難を逃れており、油槽施設や修理ドックなど、一部の重要な基地機能は無傷で残されました。後にこれらが、アメリカ海軍の復活と反攻を支えることになります。

アメリカの参戦と戦争の拡大

真珠湾攻撃の報を受けたアメリカ国内では、強い衝撃と怒りが巻き起こりました。それまでアメリカは、第二次世界大戦に対して「ヨーロッパ戦線への関与に慎重な世論」と「反ファシズムの支援を求めるルーズベルト政権」の間で揺れていましたが、真珠湾攻撃によって状況は一変します。多くの国民にとって、日本の奇襲は「卑怯なだまし討ち」と映り、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」という合言葉のもとに、対日戦への強い決意が固まりました。

1941年12月8日、アメリカ議会は圧倒的多数で対日宣戦布告を可決しました。同時期に日本は、マレー半島・フィリピン・香港などで英米蘭の拠点への攻撃を開始しており、太平洋戦争が本格的に始まります。その後、ドイツとイタリアがアメリカに対して宣戦布告を行い、アメリカはヨーロッパ戦線でも連合国側の一員として参戦します。これにより、第二次世界大戦は、アジア太平洋とヨーロッパを結ぶ真の「世界戦争」としての性格をいっそう強めました。

アメリカは、真珠湾で戦艦部隊に打撃を受けたものの、造船能力や工業力では日本をはるかに上回っていました。空母を中心とする新しい海軍力の建設が急ピッチで進められ、レキシントン・ヨークタウン・エンタープライズなど既存の空母に加えて、多数の新鋭空母・護衛空母が続々と就役します。真珠湾で残された修理ドックや油槽施設は、損傷した艦船の修理・再配置に重要な役割を果たしました。

また、アメリカ国内では戦時体制が進み、軍需産業が急速に拡大しました。女性やマイノリティも大量に工場勤務に動員され、「兵器の工場」としてのアメリカの姿が形づくられていきます。真珠湾攻撃は、まさに「眠れる巨人」を目覚めさせてしまったと言われるゆえんです。日本側が期待した「短期決戦での有利な講和」は現実離れしたものとなり、消耗戦の中で国力差がじわじわと効いてくる構図が決定づけられました。

真珠湾攻撃は、国際政治の構図にも影響を与えました。アメリカとイギリス、ソ連などの間では、「枢軸国を打倒するための大連合」がより強固なものとなり、戦後秩序を見据えた協議も進められるようになります。日独伊三国同盟側は、当初こそ勢いを得たかに見えましたが、長期的には圧倒的なアメリカの物量と技術、ソ連の人的資源と大陸勢力を相手にする厳しい戦況へと追い込まれていきました。

評価と歴史的意義:成功か、破滅への一歩か

真珠湾攻撃は、軍事作戦として見れば「奇襲成功」とも言えますが、戦略全体としての評価は大きく分かれます。日本側の一部軍人や当時の世論は、「大戦果」を歓迎し、「これで講和も有利に進む」と期待しました。しかし山本五十六自身は、「最初の半年か一年は暴れ回れるが、その後の保証はできない」と語ったとされ、アメリカの底力を怖れていました。結果として、この懸念は現実となります。

真珠湾攻撃の問題点としてよく指摘されるのは、第一に「アメリカの参戦と国民的結束を決定づけてしまった」ことです。それまでアメリカ国内には、ヨーロッパの戦争に深入りすべきでないという孤立主義的な世論も根強くありました。日本の奇襲は、そのような迷いを一掃し、「正義の戦争」としての対日戦・対独戦を正当化する強力な材料を提供しました。

第二に、攻撃目標の選択にも議論があります。日本側は戦艦撃沈を重視し、多数の戦艦を破壊しましたが、後の太平洋戦争の主役は空母や潜水艦となりました。真珠湾に不在だった空母は無傷であり、油槽施設や修理ドックも存続したため、アメリカ海軍は比較的短期間で戦力を再建できました。もしこれらの基地機能にさらに徹底した打撃を与えていれば、アメリカの反攻はもう少し遅れたかもしれない、とする仮説もあります。しかし同時に、さらなる攻撃は日本側の損害増大と帰路の危険も高めたと考えられ、単純な「やるべきだった」とは言い切れません。

第三に、外交上の問題として、「宣戦布告のタイミング」があります。日本は本来、攻撃開始より前にアメリカ側に対して交渉打ち切りと開戦の意図を通告する予定でしたが、在米日本大使館での暗号解読・文書作成の遅れなどにより、通告は攻撃開始後になってしまいました。そのため、アメリカ側からは「だまし討ち」と受け止められ、国際的にも非難を浴びる結果となりました。このイメージは、戦後長く日本批判の根拠として語られます。

歴史的意義という観点からは、真珠湾攻撃は「航空戦力と空母機動部隊が海戦の主役となる時代」の幕開けを象徴するものでもありました。これ以降、珊瑚海海戦・ミッドウェー海戦など、艦隊同士が直接砲撃を交えるのではなく、遠距離から航空機を飛ばし合って戦う海戦が主流となります。真珠湾攻撃は、その先駆けとして世界の注目を集めました。

同時に、真珠湾攻撃は「資源・経済・外交が絡み合う総力戦の時代」における決断の難しさを示す事例でもあります。日本は資源制約と外交的孤立の中で、短期的には奇襲成功を収めたものの、長期的には圧倒的な国力差を持つアメリカとの消耗戦に敗れました。戦争指導者たちがどこまでこのリスクを認識していたのか、別の選択肢はありえたのか、といった問いは、現在も歴史研究の議論の対象となっています。

真珠湾(パールハーバー)攻撃を学ぶことは、日本の戦争責任や外交選択を考えるだけでなく、現代の国際政治においても、「短期的な軍事的成功」と「長期的な政治・経済的帰結」の関係をどう見極めるかという問題に直結します。華々しい戦果の陰で何が賭けられ、何が失われたのかを見つめ直すことは、同じ過ちを繰り返さないためにも重要だと言えるでしょう。