幼少期と家系の背景
ヘンリー7世は1457年1月28日にウェールズのペンブルック城で生まれました。彼の母はマーガレット・ボーフォートであり、父はエドマンド・テューダーですが、ヘンリーが生まれる数ヶ月前にエドマンドは疫病で亡くなっていました。母のマーガレットはランカスター家の有力な血筋を持っており、父のエドマンドはヘンリー5世の妃キャサリン・オブ・ヴァロワとその後の夫オーウェン・テューダーの間に生まれた息子であり、したがってヘンリーはテューダー王朝の創始者となる家系に生まれた人物でした。彼の血統は直接的に王位を継ぐものではなかったものの、ランカスター家の最後の希望として期待される存在でもありました。
彼の誕生時、イングランドは薔薇戦争のただ中にありました。これはランカスター家とヨーク家の間で続く王位争いの戦乱であり、彼の幼少期は不安定な時代の中で始まったのです。彼は母親がまだ若く、経済的に苦しい状況であったため、幼少期を母と過ごすことができず、ペンブルック伯ジャスパー・テューダーの保護のもとで成長しました。
ヨーク家が優勢となり、エドワード4世が即位した後、ヘンリーの立場は危険なものとなりました。1471年にはランカスター派のエドワード王太子がティュークスベリーの戦いで敗北し、ランカスター家の主要な後継者はほとんど消滅しました。ヘンリーは唯一の生き残りとなり、その後ジャスパーとともにブルターニュに亡命することになります。
亡命生活と王位への野望
ヘンリー7世は14歳でブルターニュへと亡命し、フランス王国の支援を受けながらヨーク朝の支配から逃れる生活を送りました。ブルターニュ公フランソワ2世は彼を庇護しましたが、同時にヘンリーの存在がイングランドとの交渉材料として利用されることもありました。エドワード4世やリチャード3世が彼を引き渡そうと画策しましたが、ブルターニュ公は慎重に対応し、ヘンリーは最終的にフランスへと逃れます。
フランス宮廷に庇護されたヘンリーは、自身の王位請求権を確立するための計画を練り始めました。特にリチャード3世が1483年に即位すると、多くの貴族が彼に反発し、ヘンリーはそれを利用して支持を拡大しようとしました。彼はリチャード3世を打倒し、自らをイングランド王に据えるべく、1485年にフランスの支援を受けて軍を編成し、イングランドへの上陸を決意します。
ボズワースの戦いと即位
1485年8月22日、ヘンリー7世はイングランド中部のボズワースでリチャード3世と決戦を迎えます。彼の軍は比較的小規模でしたが、リチャード3世の軍の中にも裏切りを画策する者が多くいました。特にスタンリー家は戦闘の行方を見極めながら動き、最終的にヘンリー側に味方する形で参戦しました。戦闘の結果、リチャード3世は討ち死にし、ヘンリーは勝利を収め、テューダー王朝が幕を開けることとなります。
ヘンリーは戦場で王冠を受け取り、正式にイングランド王として認められました。彼の即位は戦乱の終結を意味し、新たな時代の到来を告げるものでした。彼は王位を確実なものとするために、ヨーク家のエリザベスと結婚することで両家の和解を図りました。これによって薔薇戦争を終結させ、イングランドの安定を取り戻そうとしたのです。
統治の開始と改革
ヘンリー7世は即位後、王位を盤石なものとするために様々な改革を実施しました。彼は財政の健全化を図り、王権を強化するために貴族の権力を制限する政策を進めました。特に有力貴族による私兵の保有を禁止し、王の権威を直接及ぼすことができるようにしました。これは王権の安定に大きく寄与し、貴族による内戦の再発を防ぐ効果がありました。
また、彼は商業を奨励し、海外貿易を活発化させることで国家の財政基盤を強化しました。イングランドは毛織物産業を中心に発展し、アントワープやブルゴーニュとの交易を通じて経済を活性化させました。これによって王室の財政は安定し、後のエリザベス1世の時代へと続く経済的発展の基盤が築かれました。
法制度の整備にも力を入れ、王権を補強するために「星室庁」を活用し、貴族の反乱や不正行為を厳しく取り締まりました。これによって中央集権的な統治体制を確立し、法の支配を強化することに成功しました。さらに、国内の治安を維持するために治安判事の権限を強化し、地方の統治を安定させる施策も実施しました。
外交面では、ヘンリー7世は慎重かつ戦略的な政策を展開しました。彼は戦争を回避し、王室の婚姻を通じて外交関係を強化する方針を採りました。彼の息子アーサーをスペイン王女キャサリン・オブ・アラゴンと結婚させることでスペインとの関係を強化し、娘のマーガレットをスコットランド王ジェームズ4世と結婚させることでスコットランドとの関係改善を図りました。このような政策は後のイングランドの安定に大きく寄与し、ヘンリー7世の治世を特徴づける要素の一つとなりました。
王国の統治と政策
ヘンリー7世は即位後、イングランドの統治を強化し、国内の安定を確立するために様々な政策を実施しました。彼は戦乱の影響を受けた国内の秩序を回復するため、特に王権の強化を重視しました。貴族たちが私的な軍隊を持つことを制限し、国王の権威を絶対的なものとするための法律を整備しました。これは、それまで貴族たちが自らの軍を持ち、独自の権力を振るっていたことが国内の混乱を招いたためです。
ヘンリー7世の政策の中でも特に重要だったのが、財政改革でした。彼は厳格な財政管理を行い、無駄な支出を削減するとともに、国庫の収入を増やすために新たな税制を導入しました。さらに、交易の促進にも力を入れ、イングランド経済の発展を図りました。特に羊毛産業の成長を支援し、ヨーロッパ市場におけるイングランド製品の競争力を高めるために外交的な取り組みも行いました。
また、法制度の整備にも力を注ぎ、司法の独立性を高めるために特別な裁判機関を設置しました。彼は「星室裁判所」と呼ばれる機関を設立し、不正を行う貴族たちを取り締まることで王権を強化しました。これにより、国内の権力構造は国王を中心としたものへと再編されていきました。
外交政策と王位の安定
ヘンリー7世は内政だけでなく、外交政策においても優れた手腕を発揮しました。彼の外交戦略の基本は、イングランドの国際的な立場を強化し、将来の戦争を回避することでした。そのため、彼はヨーロッパ諸国との同盟関係を構築し、平和的な外交を推進しました。
特に、スペインとの関係強化を目的に、息子アーサー・テューダーとカスティーリャの王女キャサリン・オブ・アラゴンとの婚約を成立させました。この婚姻政策により、イングランドはスペインという強大な国と同盟を結ぶことができました。さらに、スコットランドとの間にも和平条約を結び、敵対関係を緩和しました。
ヘンリー7世はまた、フランスとの関係にも慎重に取り組みました。フランスとの戦争を回避しつつ、貿易協定を結び、イングランド経済の安定に寄与しました。こうした外交政策は、彼の治世を通じて国の安全と繁栄を確保する重要な要素となりました。
晩年と後継者問題
ヘンリー7世の晩年は、王位継承の問題が大きな課題となりました。長男アーサーは、キャサリン・オブ・アラゴンと結婚しましたが、1502年に急逝しました。これにより、次男のヘンリー(後のヘンリー8世)が王位継承者となりました。
ヘンリー7世はこの事態に対応するため、次男ヘンリーのために新たな婚姻計画を立て、キャサリン・オブ・アラゴンを次男と再婚させることを画策しました。この決定は後に大きな問題を引き起こしますが、当時のヘンリー7世にとっては、スペインとの同盟を維持するための重要な手段でした。
また、晩年には彼自身の健康状態も悪化していきました。王位を安定させるための努力を続ける中で、彼は財政的な安定をさらに推し進め、王室の資産を増やすことに成功しましたが、その一方で彼の強権的な統治は一部の貴族や民衆の不満を招くことにもなりました。
死去と遺産
ヘンリー7世は1509年4月21日、リッチモンド宮殿で死去しました。彼の死後、息子のヘンリー8世が王位を継承し、新たな時代が始まります。ヘンリー7世が築いた財政の安定と中央集権化は、後のイングランドの発展に大きな影響を与えました。
彼の統治は、イングランドに平和をもたらし、バラ戦争の終結を象徴するものとなりました。また、彼の外交戦略や財政改革は、後のイングランド王室の基盤を築く重要な要素となり、テューダー朝の繁栄へとつながっていきました。


