【イングランド国王】エドマンド2世

【イングランド国王】エドマンド2世イングランド国王
【イングランド国王】エドマンド2世

幼少期と背景

エドマンド2世は、978年頃にイングランド王エゼルレッド2世と王妃エルフギフの間に生まれました。この時代のイングランドはヴァイキングによる侵略に脅かされており、国の政治は混乱していました。父エゼルレッド2世は、しばしば「無策王(エルンレディ)」と呼ばれるほど、効果的な統治ができず、デーン人(ヴァイキング)の侵入に対して高額な賠償金を支払うことで一時的に和睦を得ようとしました。しかし、これは国の財政を圧迫し、貴族や民衆の間に不満を生む結果となります。

エドマンドは、王子としての教育を受け、戦士としての訓練も施されました。イングランドの王族は当時、戦場で直接軍を率いることが求められる立場にあったため、幼い頃から剣術や騎乗、軍略などを学びました。特にエドマンドは若い頃から勇猛で、父王の優柔不断さとは異なり、強硬な態度を持つ人物として成長していきます。

ヴァイキングの脅威と父王の苦悩

エドマンドの少年時代、ヴァイキングの侵略はさらに激化し、スヴェン1世率いるデーン人の軍勢がイングランドを襲撃するようになります。1002年にはエゼルレッド2世が「聖ブリスの虐殺」として知られるデーン人虐殺を命じましたが、これが逆にヴァイキングの怒りを買い、侵略を加速させる結果を招きました。1013年にはスヴェン1世がイングランド全土を征服し、エゼルレッド2世とその家族はノルマンディーへ亡命を余儀なくされます。この時、エドマンドも父と共に亡命するか、イングランド国内に残るかの選択を迫られましたが、彼はイングランドに留まることを決意し、一部の貴族と共に抵抗を試みます。

1014年にスヴェン1世が突然死すると、イングランドの支配は一時的に混乱し、エゼルレッド2世は再び王位に返り咲くことができました。この時点でエドマンドはすでに成人しており、王国の防衛において父を支える重要な役割を果たしました。しかし、父の統治能力は依然として低く、国内の貴族たちはエゼルレッド2世の指導力に疑問を抱いていました。

イングランド内戦と王位継承の混乱

1015年、スヴェン1世の息子クヌート(カヌート)が再びイングランド侵攻を開始しました。この時期、イングランド内部では貴族同士の対立が激化し、国はまとまりを欠いていました。特にマーシア伯エドリック・ストレオナは、時にエゼルレッド2世に忠誠を誓いながらも、時にデーン人と通じるなど、国を混乱させる存在となっていました。

エドマンドはこの内乱の中で独自の立場を築き、父王が病に倒れると、彼は積極的に軍を率いてデーン人との戦いを続けました。1016年にエゼルレッド2世が死去すると、エドマンドは王位を主張し、ロンドンの貴族たちに支持されて国王として即位しました。しかし、同じく王位を狙うクヌートとの戦争は避けられない状況となります。

クヌートとの戦いと「鉄の脇腹」

エドマンド2世は即位後すぐに、クヌート率いるデーン人軍と戦うことになりました。彼は短期間で軍を再編し、勇猛果敢な戦いぶりを見せたことから「鉄の脇腹(アイアン・サイド)」という異名を得ます。1016年の春から秋にかけて、両軍は何度も衝突し、エドマンドはロンドンを中心に各地で果敢に抵抗しました。

特に1016年10月のアッサンダンの戦いは、この戦争の決定的な戦闘となります。エドマンドの軍は一時的に優勢に立ちましたが、エドリック・ストレオナの裏切りによって敗北を喫し、彼の軍勢は大きな損害を受けました。この敗戦により、エドマンドはクヌートとの和平交渉を余儀なくされます。

和平協定と王国の分割

アッサンダンの戦いで敗北を喫したエドマンド2世は、もはやクヌートとの戦争を続けるだけの兵力を維持することが困難となりました。戦いによる消耗が激しく、加えて王国内の貴族たちの支持も二分されていたため、彼はクヌートとの和平交渉を受け入れることになります。1016年の終わり頃、両者はオルダムの和平協定を結び、イングランドを二分することが決定されました。エドマンド2世はウェセックスを含む南部を統治し、クヌートはノーサンブリアやマーシアを含む北部を支配することとなりました。

この和平協定は、一見すると妥協的な解決策に思えましたが、エドマンドにとっては時間を稼ぎ、再び軍を立て直す機会を得ることを意味していました。しかし、運命は彼に味方しませんでした。

エドマンド2世の急死

和平協定が結ばれてからわずか数週間後の1016年11月30日、エドマンド2世は急死しました。その死因については明確な記録が残っていませんが、歴史家の間では暗殺説が有力視されています。当時、クヌート派の勢力が増していたこと、またエドマンド2世の強い抵抗精神が彼を排除すべき存在とみなされた可能性が高いことから、彼が毒殺あるいは刺殺されたのではないかという説が根強く残っています。特にエドリック・ストレオナが関与していた可能性が高く、彼がクヌートのために密かにエドマンドを殺害したのではないかとも考えられています。

彼の死後、クヌートはすぐに王国全体の支配を宣言し、エドマンドの子供たちは国外へ逃れるか、修道院に追放されることになりました。これにより、イングランドはデーン人の完全な支配下に置かれることとなりました。

エドマンド2世の遺産

エドマンド2世の統治はわずか1年にも満たないものでしたが、彼の勇猛さと戦士としての気概は後世に語り継がれました。彼の異名「鉄の脇腹」は、彼が最後まで勇敢に戦い抜いたことを示しており、特にイングランドの国民にとっては誇り高い英雄として記憶されています。

また、彼の死後、イングランドはしばらくの間デーン人の支配下にありましたが、1042年にはエドワード懺悔王が即位し、再びイングランド王家が復権することとなります。この意味で、エドマンド2世の戦いと犠牲は無駄ではなかったといえるでしょう。

エドマンド2世の墓はグラストンベリー修道院にあるとされていますが、彼の遺体の正確な所在については長らく謎とされており、後世の歴史家たちの研究対象となり続けています。彼の生涯は短くとも、イングランドの歴史において大きな影響を残した人物であり、彼の勇敢な抵抗は今なお語り継がれています。

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