幼少期と王位継承
エドワード三世は1312年11月13日、ウィンザー城にて、父エドワード二世と母イザベラ・オブ・フランスの間に生を受けました。父はイングランド王であり、母はフランス王フィリップ四世の娘という王家の血統を持つ者として誕生しました。幼少期は宮廷内で育ち、騎士道の教育を受けながら、王族としての立場を学ぶ日々を送りましたが、当時のイングランド王室は不安定な政治状況にあり、特に父エドワード二世の治世は貴族たちとの対立が激化し、混乱の渦中にありました。
1325年、まだ13歳であったエドワードは、母イザベラとともにフランスへ渡り、フランス王フィリップ六世に臣従の誓いを立てました。しかしこの渡仏は単なる外交目的ではなく、イザベラがロジャー・モーティマーと共謀し、夫エドワード二世を廃位する計画の一環でもありました。翌1326年、イザベラとモーティマーは軍を率いてイングランドに上陸し、反乱を起こし、最終的にエドワード二世は幽閉され、1327年には殺害されてしまいました。こうしてエドワード三世は15歳にして国王として即位することになりましたが、実権は母イザベラとその愛人ロジャー・モーティマーに握られており、彼自身が国政を動かせる状況にはありませんでした。
モーティマーの排除と親政の開始
エドワード三世は若年の頃から騎士道精神を重んじ、また王としての自覚を強く持つ人物でしたが、即位当初は実質的な権力を持たない傀儡の王でした。しかし、次第に彼はモーティマーの専横に不満を抱くようになり、反発の機会をうかがうようになります。1329年にはスコットランドとの条約締結を余儀なくされましたが、これによりエドワード一世以来の対スコットランド政策は後退し、多くの貴族が不満を募らせました。
1330年、ついにエドワード三世は反撃に出ます。王自身が企てた宮廷クーデターにより、モーティマーは逮捕され、直ちに処刑されました。母イザベラは処刑こそ免れたものの、以後は宮廷から遠ざけられ、王の意向を直接左右することはなくなりました。こうして18歳のエドワード三世はようやく真の意味で国王としての地位を確立し、親政を開始することとなりました。
フランス王位請求と百年戦争の勃発
エドワード三世の治世において最も重要な出来事の一つが、フランスとの戦争、すなわち百年戦争の勃発です。1337年、フランス王フィリップ六世がイングランド王領ガスコーニュを没収すると、エドワード三世はこれに対抗し、自らがフランス王位の正統な継承者であると主張しました。彼の母イザベラはフィリップ四世の娘であり、その血筋から王位請求権があると考えたのです。
こうしてイングランドとフランスの対立は決定的となり、百年戦争が勃発します。最初のうちは海戦を中心に展開され、1340年のスロイスの海戦ではイングランドが圧勝し、制海権を確保しました。この戦いによりフランス沿岸部への侵攻が容易となり、エドワード三世の軍事的成功が際立つことになりました。
クレシーの戦いと長弓兵の活躍
百年戦争におけるエドワード三世の最も輝かしい勝利の一つが、1346年のクレシーの戦いです。この戦いではイングランド軍がフランス軍を圧倒し、その要因の一つが長弓兵の活躍でした。イングランド軍は戦術的に優れた布陣を敷き、フランス軍の騎士たちを巧みに迎撃しました。
クレシーの戦いでは、エドワード三世の息子であるエドワード黒太子も戦場に立ち、若くしてその軍才を示しました。この勝利によりイングランドの優位性が確立され、翌1347年にはカレーを占領するに至りました。カレーは以後200年以上にわたってイングランドの支配下に置かれ、英仏間の軍事的拠点として重要な役割を果たすことになります。
ペストの流行と国家の危機
しかしエドワード三世の治世において、軍事的成功の裏で国家を揺るがす大災厄が発生しました。それが1347年から1351年にかけてヨーロッパを襲った黒死病、すなわちペストの流行でした。この疫病はヨーロッパ人口の3分の1を奪うほどの猛威を振るい、イングランドも深刻な被害を受けました。
ペストの影響により農村は荒廃し、労働力不足が深刻化、経済が停滞し、社会不安が増大しました。エドワード三世はこれに対応するため、労働者条例を発布し、賃金の上昇を抑えようとしましたが、長期的には労働者の立場が強化され、封建制度の崩壊を促進する要因となりました。こうした状況の中で戦争の遂行は次第に困難となり、イングランド軍の戦略も変更を余儀なくされることとなりました。
ポワティエの戦いとフランス国王の捕縛
1356年、百年戦争の戦局は再びイングランドに有利に傾きました。この年に行われたポワティエの戦いでは、エドワード黒太子率いるイングランド軍が、フランス国王ジャン二世率いるフランス軍を打ち破りました。この戦いでもイングランド軍の長弓兵が大きな役割を果たし、フランス騎士たちは戦術的な劣勢の中で敗北を喫しました。
最も重要な戦果は、フランス国王ジャン二世が捕虜となったことでした。彼はイングランドへ連行され、身代金を支払うまでの間、ロンドン塔に幽閉されました。これはイングランドにとって大きな外交的優位をもたらし、戦争を有利に進めるための交渉材料となりました。1360年、ブレティニー条約が結ばれ、イングランドは広範な領土を獲得し、一時的に戦争は休止しました。
晩年と王権の衰退
エドワード三世の晩年は、初期の輝かしい戦果とは対照的に、衰退と混乱の時代となりました。1369年、フランスは再び反撃を開始し、イングランドが獲得した領土の多くを奪い返しました。これはフランスの軍事的な立て直しだけでなく、エドワード三世自身の老齢による影響も大きかったとされています。
さらに、1370年代に入ると、彼の最も有能な息子であったエドワード黒太子が病に倒れ、1376年に死去しました。このことはエドワード三世にとって大きな打撃となり、彼の治世を支えていた軍事的・政治的な基盤が大きく揺らぐこととなりました。
同時に、国内ではペストの影響による社会不安が続き、経済の停滞や農民の反乱が相次ぎました。王権の権威も次第に低下し、政治は混乱を極めました。彼の晩年はすでに王としての権力を完全に掌握することができず、側近や王子ジョン・オブ・ゴーントらが実質的な政務を担うようになりました。
エドワード三世の死とその遺産
1377年6月21日、エドワード三世はウィンザー城で64歳の生涯を閉じました。彼の死後、王位は孫であるリチャード二世が継承しましたが、彼の即位時はまだ幼く、国内の政治はさらに不安定となっていきました。
エドワード三世の治世は、百年戦争の始まりや騎士道文化の発展、またペストの影響による社会変革など、多くの歴史的な転換点を含んでいました。彼の軍事的な才能と統治の手腕はイングランド王国の勢力を拡大させましたが、晩年には国の疲弊と王権の衰退が顕著となり、その後のイングランドの政治的混乱へと繋がることとなりました。