【イングランド国王】リチャード1世

【イングランド国王】リチャード1世イングランド国王
【イングランド国王】リチャード1世

はじめに

リチャード1世(Richard I, 1157年9月8日 – 1199年4月6日)は、イングランド王として「獅子心王(リチャード・ザ・ライオンハート)」の異名で知られる中世の英雄的存在です。彼はイングランド王でありながら、人生の大半をフランスや中東での戦争に捧げ、特に第3回十字軍においてその勇敢さを示しました。本稿では、リチャード1世の出生から即位、十字軍遠征の始まりまでを詳細に記述し、彼の激動の生涯の前半部分を紐解いていきます。

幼少期と家系

リチャード1世は1157年9月8日、オックスフォード近郊のボーモント宮殿で、イングランド王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの間に生まれました。父ヘンリー2世はプランタジネット朝を築いた王であり、イングランドのみならず広大なフランス領を支配する強大な王でした。母アリエノール・ダキテーヌはフランス王ルイ7世の元王妃であり、ヨーロッパで最も影響力のある女性の一人でした。このためリチャードは、イングランド王家とフランス貴族の血を引く、由緒ある王族の一員として誕生しました。

リチャードは家族の中で三男にあたりましたが、長兄ウィリアムは早世しており、次兄ヘンリーは父と共に統治を学ぶ立場にありました。リチャード自身は幼少期から母アリエノールのもとで育てられ、特にフランス南西部のアキテーヌ地方との結びつきを強めました。アリエノールの影響で彼はフランス文化に深く馴染み、イングランド王子でありながらフランス語やオック語を母語とし、英語をほとんど話すことがなかったとされています。

若き日のフランスでの教育と騎士道精神の形成

リチャードは幼少の頃から優れた知性を持ち、文学や詩作にも長けていましたが、それ以上に彼の性格を形作ったのは軍事と騎士道でした。彼は10代の頃から騎士としての訓練を受け、フランス南部の貴族文化の影響を受けながら、勇敢で誇り高い性格を育んでいきました。母の領地であるアキテーヌは独立心の強い貴族が多く、常に反乱や紛争が絶えない土地でした。リチャードは早くからこの地の統治を任されることになり、戦場での経験を積むことになりました。

1172年、わずか15歳でアキテーヌ公として正式に戴冠し、この地を統治する責任を担いました。しかし、アキテーヌは反抗的な貴族が多く、彼の支配に対する反発は絶えませんでした。このためリチャードは若くして戦闘経験を重ね、彼の軍事的才能はこの頃からすでに明らかになっていました。彼は騎士としての理想を体現する存在となり、勇猛果敢な戦士としての評判を確立していきました。

父ヘンリー2世との対立と反乱

リチャードの生まれたアンジュー帝国は広大であり、統治が困難でした。ヘンリー2世はこの広大な領土を息子たちに分割して統治させようとしましたが、それが逆に息子たちの間での争いを引き起こすことになりました。1173年、兄ヘンリー(若王)、弟ジョフロワ、リチャードの3人は、母アリエノールの支持を受けて父ヘンリー2世に対して反乱を起こしました。この反乱にはフランス王ルイ7世も関与し、イングランド王家は深刻な内乱状態に陥りました。

この戦いでリチャードは兄ヘンリーのもとで戦いましたが、父ヘンリー2世は戦略的な巧妙さを発揮し、息子たちの反乱を鎮圧しました。1174年、反乱は失敗に終わり、リチャードは父に忠誠を誓うことを余儀なくされましたが、母アリエノールは捕らえられ、以後長年幽閉されることになりました。これによりリチャードは単独でアキテーヌを統治することになります。

アキテーヌ統治と戦闘での活躍

リチャードは反乱の鎮圧後も、アキテーヌの支配を強化するために戦い続けました。1175年から1185年にかけて彼はアキテーヌの諸侯を従わせるため、数々の戦闘を繰り広げました。特に1183年に兄ヘンリーが死去すると、リチャードは次期王位継承者としての地位を固める必要がありましたが、同時に弟ジョフロワやジョンとの対立も激化していきました。

1187年、サラディンがエルサレムを陥落させたという知らせがヨーロッパに届くと、リチャードは即座に十字軍への参加を誓いました。彼は騎士道精神に則り、聖地奪還のために自ら戦うことを決意しましたが、その前に父との確執を解決しなければなりませんでした。

ヘンリー2世の死と王位継承

1189年、リチャードはフランス王フィリップ2世と同盟を結び、父ヘンリー2世に対して再び反旗を翻しました。この時、すでにヘンリー2世は高齢であり、体力的にも衰えていました。リチャードの軍は優勢に立ち、父はついに降伏を余儀なくされました。屈辱の中でヘンリー2世は退位し、まもなく死去しました。これにより、リチャードは1189年7月6日に正式にイングランド王として即位しました。

即位後、リチャードはイングランド国内の統治にはほとんど関心を持たず、フランスの領地と十字軍遠征に全力を注ぎました。彼はイングランドを出国する準備を急ぎ、莫大な資金を集めるために重税を課し、城や要塞を売却するなどの政策をとりました。そして1190年、ついにリチャード1世は第3回十字軍へと旅立ちました。

十字軍遠征への旅立ち

1190年、リチャード1世は第3回十字軍に参加するため、イングランドを発ちました。彼はすでに即位前から十字軍への参加を決意しており、王となるやいなや遠征の準備を本格化させました。軍資金を確保するため、重税を課すだけでなく、王室の土地や官職さえも売却しました。この大胆な政策により、彼はヨーロッパで最も強力な軍を編成することができました。リチャードの軍勢には熟練した騎士や傭兵が多数含まれ、戦闘においては圧倒的な強さを誇っていました。

彼は神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)、フランス王フィリップ2世と共に聖地奪還を目指しましたが、フリードリヒ1世は遠征中に急死し、フィリップ2世とはたびたび対立を繰り返しました。そのため、リチャードは事実上、十字軍の指導者として戦うことになりました。

彼の軍は海路で聖地へ向かいましたが、途中シチリア島に寄港し、現地の政治的混乱に介入することになります。シチリア王が死去した後、リチャードの妹ジョアンが幽閉されていたため、彼は武力をもって彼女を解放し、新たな支配体制を確立しました。この出来事は彼の政治的手腕を示すものであり、また戦略的にもシチリアを補給基地として確保するという意味を持っていました。

キプロス征服と婚姻

シチリアを出発したリチャードは次にキプロス島へ向かいました。この地は当時、ビザンツ帝国の離反者であるアイザック・コムネノスによって統治されており、リチャードの艦隊が嵐で被害を受けた際、島の支配者が友好的な対応を取らなかったため、リチャードは怒りを覚えました。彼は即座に軍を率いてキプロスを攻撃し、わずか数日で島を征服しました。この征服は十字軍にとって重要な補給拠点を確保することを意味し、リチャードの軍事的才能を改めて示すものとなりました。

また、キプロスではリチャードの婚礼が行われました。彼はナバラ王サンチョ6世の娘ベレンガリアと結婚し、これによりナバラ王国との同盟を強化しました。しかし、この結婚は政治的な意味合いが強く、二人の関係は冷淡だったと伝えられています。さらに、リチャードは戦いに明け暮れていたため、ベレンガリアはほとんど彼と共に過ごすことがありませんでした。

第3回十字軍とサラディンとの戦い

キプロスを経由してついに聖地へ到達したリチャードは、すでに戦闘が続いていたアッコン包囲戦に加わりました。彼の到着により十字軍の戦力は大幅に強化され、1191年7月にアッコンは陥落しました。しかし、フランス王フィリップ2世との対立が深まり、フィリップは遠征を放棄してフランスへ帰国してしまいました。こうしてリチャードは単独で十字軍の指揮を執ることになります。

彼の戦闘能力は圧倒的であり、特に1191年9月のアルスーフの戦いでは、サラディンの軍勢を打ち破ることに成功しました。この戦いにより、彼はイスラム勢力に対する優位を確立し、エルサレムへの進軍の道を開きました。しかし、兵站の問題や戦力不足、そして内部の不和により、エルサレム奪還を実現することはできませんでした。

最終的にリチャードとサラディンの間で和平交渉が行われ、1192年に休戦協定が結ばれました。この協定により、エルサレムは引き続きイスラムの支配下に置かれるものの、キリスト教徒の巡礼は自由に行えることになりました。リチャードは本来ならばさらなる戦闘を望んでいましたが、ヨーロッパでの政情不安により帰国を決意しました。

帰国途中の捕囚

十字軍を終えたリチャードはイングランドへの帰還を急ぎましたが、帰路の途中で嵐に遭い、神聖ローマ帝国領内に漂着しました。彼は変装して陸路で移動しましたが、1192年12月、オーストリア公レオポルト5世によって捕えられました。リチャードは以前のアッコン戦でオーストリアの旗を踏みにじるなどの侮辱的な行為を行っており、それが恨みを買っていたのです。

リチャードは神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に引き渡され、莫大な身代金を要求されました。この身代金はイングランド国内で巨額の税として徴収され、ようやく1194年に支払いが完了し、リチャードは解放されました。この間、フランス王フィリップ2世と弟ジョンは彼の不在を利用して権力を掌握しようと画策していました。

帰国とフランスでの戦い

解放されたリチャードはすぐさまイングランドへ帰国し、ジョンの反乱を鎮圧しました。しかし、彼の関心は依然としてフランス領にあり、イングランドを統治するよりも、自らの領地を守るためにフランスへ向かいました。彼はフィリップ2世との戦いを再開し、フランス領内での支配を強化しようとしました。

最期の戦いと死

1199年、リチャードはフランス南部の小さな城、シャルルー城を包囲していました。この戦いの最中、彼は城壁から放たれた矢に当たり、重傷を負いました。彼は一旦陣営へ戻りましたが、傷は悪化し、ついには壊疽を起こしてしまいました。

死の間際、彼は自らを射た弓兵を許し、最期まで騎士道精神を貫いたと言われています。1199年4月6日、リチャード1世は42歳でこの世を去りました。彼の遺体はフランスのフォンテヴロー修道院に埋葬され、心臓はルーアンに安置されました。

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