【イングランド国王】ヘンリー1世

【イングランド国王】ヘンリー1世イングランド国王
【イングランド国王】ヘンリー1世

幼少期と王家の血筋

ヘンリー1世は1068年頃にノルマンディー公ウィリアム1世(後のイングランド王ウィリアム征服王)とその妃マティルダ・オブ・フランダースの間に生まれました。正確な誕生日は不明ですが、彼はウィリアム征服王の末息子として、ノルマンディー公国の貴族社会に囲まれて育ちました。彼の兄たちにはロベール・クルトーズ、ウィリアム2世(ウィリアム・ルーファス)がおり、いずれも彼に先んじて権力を握る立場にありました。

父ウィリアム征服王は、1066年のノルマン・コンクエストによりイングランド王位を獲得し、ノルマン朝を打ち立てました。そのため、ヘンリーもまた、幼い頃からノルマン文化とイングランドの統治機構に深く関与する環境で育ちました。彼は優れた教育を受け、特にラテン語や神学、法律に精通していたと伝えられています。その博識さから「碩学王(Beauclerc)」と称されることになります。

父王の死と兄たちの確執

1087年、父ウィリアム征服王が死去すると、王国は三人の息子に分割されることになりました。長男ロベール・クルトーズはノルマンディー公国を、次男ウィリアム・ルーファスはイングランド王位を継承しました。しかし、ヘンリーには領地が与えられず、代わりに金貨5000ポンドが与えられただけでした。この扱いにより、彼は独自の立場を築くことを余儀なくされ、以後の彼の政治的行動に大きな影響を与えることになります。

兄たちの関係は決して良好とは言えず、ロベールとウィリアム2世の間ではイングランドとノルマンディーの支配をめぐる確執が絶えませんでした。この混乱の中、ヘンリーは巧みに動き、時には兄ウィリアム2世に接近し、また時にはノルマンディー公ロベールと手を結びながら自らの立場を強化していきました。

兄ウィリアム2世の治世とヘンリーの動向

ウィリアム2世が即位すると、ヘンリーはイングランド宮廷で一定の影響力を持つようになり、軍事や行政に関与する機会を得ました。しかし、彼は兄ウィリアム2世と完全に良好な関係を築いたわけではなく、むしろ警戒しながら行動していました。彼は財産を蓄え、支持者を増やし、独自の権力基盤を確立しようと努めました。

一方で、ノルマンディー公ロベールは第一回十字軍(1096年)に参加するため、彼の公国を抵当に入れてイングランド王ウィリアム2世から資金を借りるという形で一時的に領土を離れました。この状況はヘンリーにとって有利に働きました。兄ウィリアム2世がイングランドで権力を維持する一方、ノルマンディーは事実上不在となったロベールの影響力が弱まり、ヘンリーはこの機を利用して勢力を拡大しようとしました。

ウィリアム2世の死とヘンリーの即位

1100年8月2日、ウィリアム2世はニューフォレストでの狩猟中に謎の死を遂げました。彼は友人であるウォルター・ティレルによって矢で射られたとされていますが、事故であったのか、それとも計画的な暗殺であったのかについては現在でも議論が続いています。いずれにせよ、この事件はヘンリーにとって絶好の機会となりました。

ウィリアム2世の死が公表されると、ヘンリーは迅速に行動し、ウィンチェスターへ向かいました。そこにはイングランド王家の財宝が保管されており、彼は即座にそれを確保しました。そして、8月5日にはウェストミンスター寺院で戴冠式を行い、正式にイングランド王ヘンリー1世として即位しました。

ヘンリーの即位は決して安泰ではなく、兄ロベール・クルトーズはノルマンディーから王位を主張してイングランドへ侵攻する可能性を示唆していました。そのため、ヘンリーは国内の貴族たちの支持を確保するために「自由憲章(Charter of Liberties)」を発布し、ウィリアム2世の強権的な統治に不満を抱いていた人々の支持を取り付けることに成功しました。

結婚と王家の安定

即位後、ヘンリー1世は王国の安定を図るために戦略的な結婚を選択しました。彼は1100年11月、スコットランド王マルカム3世の娘であるマティルダ(エディス)と結婚しました。マティルダはアングロサクソン王家の血を引いており、この結婚によってヘンリー1世はアングロサクソン系の人々の支持を得ることができました。これにより、ノルマン王家とアングロサクソン貴族の間に一定の融和が図られ、イングランド国内の統治基盤が強化されることとなりました。

彼女との間にはウィリアム・アデリンとマティルダ(のちの神聖ローマ皇后)が生まれ、王家の継承問題にも一時的に安定がもたらされました。しかし、後にウィリアム・アデリンが事故死することで、この継承問題は深刻な問題へと発展することになります。

兄ロベールとの戦い

一方、1101年には兄ロベール・クルトーズがイングランドへ侵攻し、ヘンリー1世の王位を脅かしました。この対立は「アンスラムの和議(Treaty of Alton)」として知られる和平協定によって収束し、ロベールはヘンリー1世の王位を認める代わりに一定の保証を得ることとなりました。しかし、この和議は長続きせず、最終的にヘンリー1世は1106年のタンシュブレーの戦いで兄ロベールを打ち破り、彼を捕虜としました。ロベールはその後、一生を獄中で過ごすこととなり、ヘンリー1世はノルマンディーを完全に掌握しました。

ノルマンディー統治と王国の安定

1106年、タンシュブレーの戦いに勝利したヘンリー1世は、兄ロベール・クルトーズを捕虜としてイングランドへ連行し、以後彼を生涯幽閉しました。これにより、ノルマンディー公国は完全にヘンリー1世の支配下に置かれました。以後、ヘンリー1世はノルマンディーとイングランドの両方を統治することになり、ノルマン王朝の支配を強固なものとしました。

しかし、ノルマンディーの統治は決して平穏ではありませんでした。ロベールの息子であるウィリアム・クリトが継承権を主張し、フランス王ルイ6世やフランドル伯といった強力な封建領主たちの支援を受けて幾度となく反乱を起こしました。ヘンリー1世はこれに対し、堅実な軍事行動と政治的駆け引きを駆使し、反乱を抑え込んでいきました。特に、1124年にはフランス軍を破り、ノルマンディーの防衛を成功させたことで、彼の支配は確固たるものとなりました。

王国の統治と法制度の改革

ヘンリー1世は、王国内の統治にも積極的に取り組みました。彼は中央集権化を進め、国王の権威を強化するために行政や司法制度の改革を行いました。その代表的なものが、巡回裁判官制度の導入です。これは、国王の裁判官が各地を巡回し、法の公平な適用を確保するというものでした。

また、財政制度にも改革を加え、「王室会計帳簿(Exchequer)」の制度を確立しました。これにより、王国の収入や支出を管理する仕組みが整備され、王権の財政基盤が強化されました。この制度は、後のイングランドの財政制度の基礎となり、長く機能し続けることになります。

王位継承の危機とマティルダへの期待

ヘンリー1世にとって最大の悲劇の一つが、息子ウィリアム・アデリンの死でした。1120年、ホワイトシップの遭難事故により、ウィリアムを含む多くの王族や貴族が命を落としました。この事件は王位継承に大きな影響を与え、ヘンリー1世は新たな後継者を確保する必要に迫られました。

そこで彼は娘マティルダを後継者とする決断を下しました。マティルダは神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の皇后となっていましたが、彼の死後、イングランドに戻り、ヘンリー1世は彼女に王位継承権を確約させました。しかし、当時の封建社会において女性が王位を継承することは異例であり、多くの貴族たちはこの決定に反発しました。

晩年と死

ヘンリー1世の晩年は、主にマティルダの王位継承を確実にするための政治工作に費やされました。彼は貴族たちにマティルダへの忠誠を誓わせる一方で、彼女とアンジュー伯ジョフロワ・プランタジュネットとの結婚を手配し、王家の安定を図りました。しかし、この結婚もまた貴族たちの反発を招き、ヘンリー1世の後継問題は解決には至りませんでした。

1135年12月1日、ヘンリー1世はノルマンディーで突然の病に倒れ、亡くなりました。伝えられるところによると、彼は好物のランプラン(ウナギ)を食べすぎたことが原因で体調を崩したとも言われていますが、詳細な死因は不明です。彼の死後、王位継承問題は混乱を極め、マティルダではなく甥のスティーブンが王位を主張し、長い内戦「無政府時代(The Anarchy)」へと突入することになりました。

ヘンリー1世の遺産

ヘンリー1世の統治は、法制度の確立や行政の改革によってイングランド王権を強化した点で非常に重要な意味を持ちました。彼の統治がなければ、後のプランタジュネット朝の安定した統治もあり得なかったでしょう。また、ノルマンディーとイングランドの統合を果たしたことは、後世のイングランド王国の発展に大きな影響を与えました。

しかし、彼の後継問題は混乱を招き、最終的には内戦の原因となりました。それでも、彼が築いた統治の枠組みは後のイングランド王たちによって引き継がれ、イングランドの国家としての形を整えていく基盤となりました。

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