【イングランド国王】スティーブン

【イングランド国王】スティーブンイングランド国王
【イングランド国王】スティーブン

スティーブンの誕生と家系

スティーブンは1096年頃に生まれました。父はブロワ伯エティエンヌ2世で、母はイングランド王ウィリアム1世の娘であるアデラでした。彼はフランスのブロワ伯領に生まれ、裕福で影響力のある家系に属していました。母アデラはウィリアム1世の娘であり、イングランド王家と密接なつながりを持っていたため、スティーブンは幼少期から王族としての地位と権力の感覚を持ちつつ育ちました。

幼少期のスティーブンは、フランスで貴族の子としての教育を受け、武芸や統治に必要な知識を学びました。彼の家系はフランス国内でも有力で、父のエティエンヌ2世は第一回十字軍に参加し、その後もフランス王国の貴族としての地位を維持していましたが、1102年に十字軍遠征で戦死しました。このとき、スティーブンはまだ幼く、母アデラの庇護のもとで育てられました。母は政治的手腕に優れ、夫亡き後もブロワ伯領の統治を維持し、子供たちの未来を慎重に計画しました。

スティーブンは幼い頃から王家の親族として、フランスとイングランドの両方に関心を持つ環境にありました。彼の叔父にはイングランド王ヘンリー1世がいましたが、スティーブンの母アデラは、ヘンリー1世と良好な関係を保ち、息子たちの将来に有利な立場を築こうとしました。結果として、スティーブンはフランスのブロワ伯領で教育を受けつつ、イングランド王室とも深い関わりを持つことになりました。

イングランドへの移住とヘンリー1世との関係

スティーブンは、1110年頃にイングランドへ渡り、叔父のヘンリー1世の宮廷に仕えるようになりました。彼は若くしてイングランドの宮廷生活に慣れ、叔父のもとで政治的な教育を受ける機会を得ました。ヘンリー1世は彼を厚遇し、スティーブンに対して信頼を寄せ、重要な地位を与えました。

1120年には、ヘンリー1世の唯一の嫡男であるウィリアム・アデリンがホワイトシップの遭難で命を落とすという悲劇が起こりました。この事件によって、イングランド王家の継承問題が浮上し、ヘンリー1世は娘のマティルダを後継者とする決定を下しましたが、スティーブンはこの王位継承問題において重要な役割を果たすことになります。

1125年、スティーブンは有力な貴族の娘であるブローニュ女伯マティルダと結婚しました。この結婚により、スティーブンは莫大な領地と影響力を得ることになり、イングランド南部やノルマンディーに広大な土地を所有する立場となりました。彼はすでにヘンリー1世の側近として宮廷内で重きをなしており、王の信頼を勝ち得ていましたが、この結婚によって彼の地位はさらに強化されました。

ヘンリー1世の死と王位継承問題

1135年12月1日、ヘンリー1世が亡くなると、イングランドは再び王位継承問題に直面しました。王の生前の決定では娘のマティルダが王位を継ぐはずでしたが、彼女はフランスにおり、すぐにイングランドに渡ることができませんでした。一方、スティーブンは迅速に行動し、ヘンリー1世の死を知るや否や直ちにイングランドに向かいました。

彼はロンドンに入り、市民や貴族たちの支持を集めるために積極的に働きかけました。当時、イングランドの貴族たちは女性君主に対して懐疑的であり、マティルダが王となることに不安を抱いていました。スティーブンはこの状況を利用し、彼の兄であるウィンチェスター司教ヘンリーの支援を得て、自らの王位を正当化しました。

1135年12月22日、スティーブンはイングランド王として戴冠し、正式に即位しました。彼の即位は一部の貴族たちの支持を得たものでしたが、マティルダの支持者たちはこれに強く反発し、やがてイングランドは内戦状態へと突入することになります。

内戦の勃発と「無政府時代」

スティーブンの即位後、イングランド国内では混乱が続きました。マティルダの支持者たちはスティーブンの王位を認めず、1139年にはマティルダがイングランドに上陸し、自らの王位を主張しました。この結果、スティーブンとマティルダの間で激しい内戦が繰り広げられ、歴史的に「無政府時代」と呼ばれる混乱期が訪れることになりました。

スティーブンは王としての正統性を強調しながらも、国内の反乱勢力との戦いに明け暮れる日々を送りました。彼は当初、貴族たちの支持を得るために寛大な政策をとりましたが、その結果として一部の貴族が独立性を強め、王の権威が揺らぐことになりました。スティーブンの治世は、中央集権的な統治を確立することが困難な状況にありました。

1141年、スティーブンはリンカーンの戦いでマティルダ軍と衝突し、捕虜となるという危機に見舞われました。このとき、彼はブリストルに幽閉され、一時的に王位を失うかに思われましたが、彼の王妃マティルダが果敢に行動し、支持者たちを集めたことで、最終的に解放されました。この出来事によって、内戦はさらに泥沼化し、スティーブンとマティルダの勢力は一進一退を繰り返しました。

内戦の長期化と王位の不安定化

スティーブンは1141年のリンカーンの戦いで捕虜となった後、王妃マティルダの尽力によって解放されましたが、王位の正統性は大きく揺らぎました。彼はマティルダ軍の勢力を削ぐために各地の要塞を奪還し、貴族たちの忠誠を再び確保しようとしましたが、貴族たちはこの内戦を利用して自らの権力を拡大することに躍起になり、王の権威を回復するのは困難でした。

1140年代を通じて、スティーブンとマティルダの対立は続き、両者とも決定的な勝利を得ることができませんでした。スティーブンの統治はますます不安定になり、特にイングランド南西部の領主たちはマティルダを支持し続けました。一方で、ロンドンを中心とする地域ではスティーブンの影響力が強く、彼は王としての地位を何とか維持していました。しかし、この分裂状態は国家の秩序を乱し、経済も疲弊していきました。

ヘンリー・フィッツエンリーの台頭

1147年頃、マティルダの息子であるアンジュー伯ヘンリー(後のヘンリー2世)が軍を率いてイングランドに上陸し、母の権利を主張するようになりました。彼は若き野心家であり、軍事的才能にも恵まれていました。彼の登場によって、スティーブンとマティルダの争いは新たな局面を迎え、スティーブンはこの新たな脅威への対応を迫られました。

ヘンリーは当初、目立った戦果を挙げることができませんでしたが、フランス王ルイ7世やノルマンディーの貴族たちの支援を受けることで徐々に影響力を増していきました。彼の存在は、スティーブンの王位をさらに不安定なものとし、国内の貴族たちの間でスティーブンへの忠誠心が揺らぎ始める原因となりました。

ウォーリングフォードの和平とスティーブンの譲歩

1153年、ヘンリーは大規模な軍を率いて再びイングランドに侵攻し、各地の城を攻略しました。スティーブンはこの脅威に対抗しようとしましたが、長年の戦争で王軍は消耗しており、多くの貴族たちはもはや戦いを続けることに疲弊していました。こうした状況の中、スティーブンはヘンリーとの和平交渉に応じる決断を下します。

1153年11月、スティーブンとヘンリーはウォーリングフォード条約を締結し、内戦の終結を図りました。この条約により、スティーブンは自らの死後にヘンリーが王位を継承することを認める代わりに、ヘンリーは即座の王位奪取を断念することとなりました。この合意は、国内の貴族たちの支持を得ており、長年続いた混乱を収束させる重要な一歩となりました。

晩年と死去

ウォーリングフォード条約の締結後、スティーブンの統治は比較的穏やかなものとなりました。しかし、彼は長年の戦争による疲労と老齢によって、健康を損なっていきました。和平が成立した翌年の1154年10月25日、スティーブンはドーバー城で亡くなりました。享年57歳でした。

彼の死後、ウォーリングフォード条約の取り決め通り、ヘンリーがイングランド王ヘンリー2世として即位し、新たな王朝であるプランタジネット朝が始まりました。スティーブンの治世は混乱に満ちたものでしたが、彼の死によってイングランドの内戦は終息し、次代の王による新たな統治が始まることとなりました。

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