幼少期と家系
ヘンリー2世は1133年3月5日にフランスのル・マンで生まれました。彼はアンジュー伯ジョフロワ4世(ジョフロワ・プランタジネット)と、イングランド王ヘンリー1世の娘であるマティルダの間に生まれました。母のマティルダはイングランド王位の正当な継承者でしたが、ヘンリー1世の死後、従兄であるスティーブンが王位を簒奪し、イングランドは内戦状態に陥りました。この内戦は「無政府時代」と呼ばれ、長きにわたる混乱を生み出しました。ヘンリー2世の幼少期はこうした状況の中で過ごされ、彼は早くから政治的な駆け引きや軍事的な問題に触れることとなりました。
幼いヘンリーはフランスで教育を受け、特にラテン語や法学に関して優れた知識を身につけました。また、彼の父ジョフロワはフランス北西部に広大な領地を持っており、ヘンリーも若くして統治の手法を学びながら成長しました。父ジョフロワは息子に自らのアンジュー伯領やノルマンディー公領の管理を手伝わせることもあり、ヘンリーは王族でありながらも実際に統治の経験を積んでいきました。
イングランド王位への挑戦
ヘンリー2世がイングランド王位を強く意識するようになったのは、母マティルダがスティーブン王に対抗して王位を主張し続けたことが大きな要因でした。母の支援を受けながらも、彼は自ら軍を率いてイングランドへ進出することを決意しました。
1147年、14歳になったヘンリーは初めてイングランドに上陸し、スティーブン王の支配に抵抗する勢力と合流しようとしました。しかし、彼の軍は十分な戦力を持たず、遠征は失敗に終わりました。それでも彼は諦めず、フランスに戻って再び力を蓄えることを選びました。この間に、父ジョフロワの後を継いでアンジュー伯、ノルマンディー公となり、さらにはアキテーヌ公領を支配することでフランス内での勢力を拡大していきました。
1153年、ヘンリーは再びイングランドに進軍し、スティーブン王と戦いました。このときの彼はすでに熟練した戦略家であり、スティーブン王との交渉にも巧みな手腕を発揮しました。その結果、翌年の1154年、スティーブン王はヘンリーを自身の後継者と認める「ウォーリングフォード協定」を締結しました。この協定が結ばれたわずか数カ月後、スティーブン王は病死し、ヘンリーは21歳でイングランド王ヘンリー2世として即位することとなったのです。
ヘンリー2世の戴冠と統治の始まり
1154年、ヘンリー2世は正式にイングランド王として即位しました。即位当初、王国は長年の内戦によって荒廃し、貴族たちは王権を軽視し独立性を強めていました。ヘンリーはこの混乱を収拾し、王権を強化するために迅速に行動を開始しました。
まず彼はスティーブン王の時代に乱立した私設城塞を破壊し、貴族たちの軍事力を削減しました。これにより王国の治安は大幅に改善され、中央集権体制が確立される基盤が整えられました。また、彼は財政の再建にも取り組み、効率的な税制を整備することで国庫を充実させました。
さらにヘンリー2世は司法制度の改革にも着手しました。彼の統治下で「巡回裁判官制度」が導入され、全国各地の裁判が統一された基準で行われるようになりました。これにより、法の公正さが向上し、王権の影響力が全国に行き渡るようになりました。また、彼はコモン・ロー(普通法)の発展にも貢献し、イングランドの法制度の基盤を築くこととなりました。
フランスにおける領土拡大と権力の増大
ヘンリー2世の権力はイングランド国内にとどまらず、フランスにも及んでいました。彼はイングランド王であると同時に、フランス国内の広大な領地を統治する封建領主でもありました。彼が統治していた地域には、ノルマンディー、アンジュー、メーヌ、アキテーヌなどが含まれており、これらの領土はフランス国王の支配下にありながらも、事実上ヘンリーの独立した領地となっていました。
特にアキテーヌ公領は、彼の妻であるアリエノール・ダキテーヌとの結婚によって得られた領地であり、これによりヘンリーはフランス王国の半分近くを支配することになりました。アリエノールはかつてフランス王ルイ7世の妃でしたが、結婚生活が破綻し離婚した後、1152年にヘンリーと結婚しました。この結婚はヨーロッパの勢力図を大きく変えるものであり、ヘンリー2世はフランス国内においても最も強大な封建領主となったのです。
この状況はフランス王ルイ7世にとって大きな脅威となり、両者の関係は常に緊張状態にありました。ヘンリー2世は自らの領土を守るため、フランス国内での戦略を練り、時には武力で領土を防衛し、時には外交交渉を通じて勢力を維持し続けました。このようにして、彼は広大な領土を支配することに成功し、「アンジュー帝国」とも称される支配圏を築き上げました。
ヘンリー2世とトマス・ベケットの対立
ヘンリー2世の治世において最も有名な事件の一つが、カンタベリー大司教トマス・ベケットとの対立です。ベケットはもともとヘンリーの側近であり、忠実な協力者でしたが、1162年にカンタベリー大司教に任命されると次第にヘンリーと対立するようになりました。彼は聖職者の独立を主張し、国王の影響力を抑えようとしたため、ヘンリーはこれに強く反発しました。
特に、聖職者が世俗の法廷で裁かれることを認めるか否かを巡って激しい対立が生じました。ヘンリー2世は「クラレンドン憲章」を1164年に発布し、聖職者の犯罪も国王の裁判権に属することを求めましたが、ベケットはこれを拒否しました。これにより両者の関係は決定的に悪化し、ベケットは国外へ亡命を余儀なくされました。
しかし、1170年に彼はイングランドに戻り、再び国王と対立しました。そしてついに同年12月29日、ヘンリーの部下であった4人の騎士がカンタベリー大聖堂でベケットを殺害するという事件が発生しました。この事件はヨーロッパ中に衝撃を与え、ヘンリーは激しい非難を浴びました。後に彼はベケットの墓を訪れ、赦しを乞う姿勢を見せましたが、教会と王権の関係はこの事件を契機に大きく変化しました。
家族との対立とアンジュー帝国の危機
ヘンリー2世の治世後半は、彼の息子たちとの対立に彩られています。彼の支配する「アンジュー帝国」は広大でしたが、息子たちはそれぞれ自分の領土を求め、父に対して反乱を起こしました。
1173年、長男ヘンリー若王がフランス王ルイ7世の支援を受けて父に対して反乱を起こしました。この反乱には、次男リチャードや三男ジョフロワも加わり、母アリエノール・ダキテーヌまでもが息子たちを支援しました。ヘンリー2世は辛うじて反乱を鎮圧しましたが、家族間の亀裂は決定的なものとなりました。
その後も息子たちの野心は収まらず、特にリチャードは父の死を待たずして王位を手に入れようとしました。フランス王フィリップ2世と結託したリチャードは、1189年に再び父に対する戦争を開始し、ついにヘンリー2世は敗北を認めざるを得なくなりました。
最期の日々と死
1189年7月6日、ヘンリー2世はフランスのシノン城で没しました。彼は最愛の息子たちの裏切りに失望しながら亡くなったと伝えられています。彼の死後、王位は次男のリチャード1世(獅子心王)が継承し、アンジュー帝国の支配は新たな時代を迎えることになりました。
ヘンリー2世の治世は、イングランドにおける法制度の基盤を築き、またフランスにおいても広大な領土を支配するなど、多大な影響を残しました。しかし彼の晩年は家族間の争いに翻弄され、栄光と悲劇が交錯するものとなったのです。