18世紀の神聖ローマ帝国は、スペイン継承戦争を契機として大きな変革の時代を迎えました。ハプスブルク家の覇権が揺らぎ、プロイセンが台頭する中、帝国内部では絶えず権力の均衡が変動し、帝国の存続をめぐる新たな課題が浮上しました。フリードリヒ2世の軍事改革、ヨーゼフ2世の啓蒙専制政策、フランス革命の波及とナポレオン戦争による政治的再編成は、帝国の歴史を決定づける要素となりました。
本記事では、スペイン継承戦争後から1806年の神聖ローマ帝国の解体に至るまでの流れを詳しく解説していきます。
スペイン継承戦争後の神聖ローマ帝国
スペイン継承戦争が終結し、ユトレヒト条約およびラシュタット条約が締結されたことで、ヨーロッパの国際秩序は大きく変化し、神聖ローマ帝国もその影響を強く受けることとなりました。この戦争を通じてハプスブルク家はスペイン・ハプスブルク家の遺領の大半を失ったものの、代わりにオーストリア領ネーデルラント、ナポリ王国、ミラノ公国、サルデーニャ島などを獲得し、南ドイツおよびイタリア方面での影響力を強めることに成功しました。結果として、神聖ローマ帝国におけるハプスブルク家の覇権は引き続き維持されたものの、その権威は徐々に弱体化し、特にプロイセンやバイエルンなどの有力諸侯が帝国内で自立性を強める契機となりました。
この時代のヨーロッパは、絶対王政が最も繁栄した時期でした。フランスのルイ14世によって確立された中央集権制は、他国の君主たちが見習う模範となりました。その一方で、啓蒙思想が徐々に普及し始め、理性と自由を中心とする新たな思潮が現れてきました。ヴォルテールやルソーなどの思想家たちは、王権が神から与えられたという説に異議を唱え、主権は人民にあるという考え方を広めました。
ハプスブルク家の新たな統治戦略とカール6世の治世
カール6世は、父レオポルト1世や兄ヨーゼフ1世の政策を引き継ぎつつも、新たな課題に直面しました。まず、彼が最も力を注いだのは、自らの家系の安定と領土の統一を保障するための政策であり、それを具現化したのがプラグマティック・サンクションでした。これは、ハプスブルク家の全領土を不可分のものとし、男系が断絶した際には女系相続を認めることで、娘のマリア・テレジアへの継承を確実にするものでした。
この施策をヨーロッパ各国に承認させるため、カール6世は外交的努力を重ねましたが、プロイセン、バイエルン、フランスなどの諸国はハプスブルク家の影響力拡大を警戒し、後のオーストリア継承戦争の遠因となりました。また、カール6世は経済政策として、オーストリア東インド会社の設立を通じて海外貿易を活性化させようとしましたが、商業力の乏しいオーストリアには適応しづらく、イギリスやオランダの商業圏に対抗するには至りませんでした。
欧州の歴史において重要な勅令や法的文書を指します。特に有名なのは、1713年に神聖ローマ皇帝カール6世が発布した「プラグマティック・サンクション」です。
この勅令の主な目的は、ハプスブルク家の相続権を変更し、カール6世に男子相続人がいない場合でも、彼の娘マリア・テレジアが帝国の領土を相続できるようにすることでした。当時の慣習では女性の相続権は制限されていたため、この法令は革新的でした。
プロイセンの台頭とフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の改革
この時期、神聖ローマ帝国のもう一つの重要な動向として、プロイセン王国の台頭が挙げられます。すでにスペイン継承戦争中の1701年に、ブランデンブルク選帝侯国がプロイセン王国へと昇格していましたが、その後も軍事力と行政能力の強化が進められました。特に、1713年に即位したフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、軍国主義的な統治を行い、プロイセン軍をヨーロッパ最強の一角へと成長させました。彼はカドリール戦術を取り入れることで、歩兵の機動性を向上させ、厳格な訓練を課すことで戦闘力を高めました。
また、経済政策としては重商主義を推進し、国内産業の振興を図りながら、国家財政の健全化にも成功しました。こうした諸政策により、プロイセンはハプスブルク家の支配するオーストリアと並ぶドイツ地域の覇権国へと成長し、後のドイツ統一の礎を築くこととなります。
オーストリア継承戦争と七年戦争
カール6世が1740年に没すると、その娘であるマリア・テレジアがハプスブルク家の領土を継承しましたが、プロイセン王フリードリヒ2世はこの機を捉え、ハプスブルク家の領土であるシュレージエンに侵攻しました。これにより、オーストリア継承戦争が勃発し、神聖ローマ帝国内の権力構造はさらに揺らぐことになりました。
この戦争では、オーストリアはイギリス、オランダ、ロシアなどの支援を受けましたが、プロイセンはフランス、バイエルン、スペインと結びつき、戦局は混迷を極めました。最終的に、アーヘンの和約(1748年)により戦争は終結し、シュレージエンはプロイセンの領土として確定しました。この戦争を通じてプロイセンの国際的地位は飛躍的に向上し、今やドイツ世界においてオーストリアと双璧をなす存在となりました。
この後、マリア・テレジアはプロイセンに対抗すべく、かつての宿敵であったフランスと同盟を結びました。これが外交革命と呼ばれる転換点であり、これによりオーストリア・フランス・ロシアの同盟が成立し、対するプロイセンはイギリスと提携しました。この新たな勢力図のもとで、1756年に勃発したのが七年戦争であり、これは神聖ローマ帝国内外の勢力均衡を決定づける戦争となりました。
七年戦争後の神聖ローマ帝国
七年戦争が1763年にフベルトゥスブルク条約によって終結すると、神聖ローマ帝国における勢力図は大きく変化しました。この戦争を通じてプロイセンはシュレージエンの領有を確定させ、フリードリヒ2世のもとでその地位を確立しました。一方で、オーストリアは軍事的敗北を喫したものの、マリア・テレジアの治世下で行政改革と経済政策を推し進め、オーストリアの近代化を促しました。
ヨーゼフ2世の改革と啓蒙専制主義
マリア・テレジアの死後、ヨーゼフ2世が即位すると、彼は徹底した啓蒙専制君主としての政策を展開しました。彼の改革の中でも特に重要なのが農奴解放令であり、これは帝国内の農民の生活を改善し、封建的束縛を取り除くことを目的としていました。また、宗教寛容令を発布し、プロテスタントやユダヤ教徒に対する信仰の自由を認めるなど、従来のカトリック至上主義からの脱却を試みました。
しかし、彼の急進的な改革は貴族層の強い反発を招き、最終的に多くの政策は実施されないままとなりました。加えて、彼の対外政策も成功とは言えず、バイエルン継承戦争(1778-1779年)ではプロイセンとの対立が続き、オーストリアの支配力は伸び悩みました。
18世紀ヨーロッパで現れた統治形態で、絶対的な権力を持つ君主が啓蒙思想の原則や理念を取り入れて統治を行ったものを指します。
この統治形態の特徴は以下の通りです。
- 君主は絶対的な権力を保持していますが、その権力を「啓蒙」された方法で行使しました
- 合理的で効率的な官僚制度の確立
- 法の整備や法典編纂
- 教育の普及と文化の発展への支援
- 宗教的寛容の促進(ある程度まで)
- 経済的近代化や産業発展の奨励
代表的な啓蒙専制君主としては以下が挙げられます。
- プロイセンのフリードリヒ2世(フリードリヒ大王)
- ロシアのエカチェリーナ2世(女帝エカテリーナ)
- オーストリアのヨーゼフ2世
- スペインのカルロス3世
フランス革命と神聖ローマ帝国への影響
1789年にフランス革命が勃発すると、神聖ローマ帝国もその波に巻き込まれることとなりました。フランス革命の影響を最も強く受けたのが、ハプスブルク家と深い関係を持つオーストリアでした。マリア・テレジアの娘であり、フランス王妃となったマリー・アントワネットが革命の渦中で処刑されたことは、オーストリアにとって大きな衝撃でした。
その後、オーストリアとプロイセンは革命勢力に対抗するため、フランス革命戦争(1792-1802年)に参戦しました。しかし、フランスの国民軍の力は想像以上に強大であり、特にナポレオン・ボナパルトの登場によって戦局はフランス有利に傾きました。
ナポレオン戦争と神聖ローマ帝国の終焉
フランス革命戦争の延長として、1803年に帝国代表者会議主要決議が発布され、帝国内の多数の小国が廃止・統合されることとなりました。これにより、神聖ローマ帝国内の地図は大きく書き換えられ、ナポレオンの影響力が拡大しました。
1805年、アウステルリッツの戦いにおいてナポレオンがオーストリア・ロシア連合軍を撃破したことで、帝国内でのハプスブルク家の権威は決定的に揺らぎました。そして1806年、ナポレオンがライン同盟を結成し、これに参加した多くの諸侯が神聖ローマ帝国からの独立を表明すると、最後の皇帝であったフランツ2世は帝位を返上し、神聖ローマ帝国は事実上消滅しました。
神聖ローマ帝国解体後のドイツ世界
神聖ローマ帝国の崩壊後、ドイツ地域ではナポレオンによる支配が進みましたが、1813年のライプツィヒの戦い(諸国民戦争)を契機に、ナポレオンの影響力は縮小し、最終的に1815年のウィーン会議によって新たな国際秩序が確立されました。この会議の結果、神聖ローマ帝国の後継組織としてドイツ連邦が成立し、プロイセンとオーストリアが主導権を巡って対立を深めていくことになります。
こうして、1000年以上にわたる神聖ローマ帝国の歴史は幕を閉じ、ドイツ世界は新たな時代へと進むこととなりました。