17世紀末から18世紀初頭にかけて、神聖ローマ帝国は東西で大きな変動を迎えました。東方ではアドリアノープル条約によってオスマン帝国との一時的な停戦が成立し、ウィーンを脅かした危機はひとまず去りましたが、西方ではフランスの膨張政策が続き、帝国は新たな脅威に直面することとなりました。特にルイ14世の野心的な領土拡張と、スペイン・ハプスブルク家の断絶によって発生したスペイン継承戦争は、ヨーロッパ全体を巻き込む大規模な争いへと発展しました。
本稿では、オスマン帝国との戦争終結後に神聖ローマ帝国がどのように国内改革を進め、フランスやその他のヨーロッパ諸国とどのように対峙したのかを詳述し、戦乱の中で帝国がどのような選択を迫られたのかを解説していきます。
アドリアノープル条約後の神聖ローマ帝国とヨーロッパ情勢
1606年のアドリアノープル条約締結後、神聖ローマ帝国は三十年戦争前夜の緊張状態に入りました。オスマン帝国との戦争は一時終結したものの、帝国内ではプロテスタントとカトリックの対立が激化し、特にボヘミアやハンガリーではプロテスタント勢力が皇帝の権威に挑戦していました。
当時の皇帝ルドルフ2世は政治的に弱体化しており、プラハに宮廷を構え芸術や科学に没頭する一方、政治的判断力を欠いていたため諸侯や領邦からの信頼を失っていました。さらに弟マティアスとの権力争いが帝国の統一を脅かしていました。
1609年、ルドルフ2世はボヘミア王としてマジェスタートと呼ばれる宗教的寛容令を発布し、ボヘミアのプロテスタントに信仰の自由を認めました。これは一時的に緊張を緩和したものの、カトリック勢力の反発を招き、後の三十年戦争の原因となる重要な出来事となりました。この寛容令は皇帝の権威をさらに弱め、帝国内の宗教対立を深刻化させました。
1612年、ルドルフ2世の死後、弟マティアスが皇帝に即位しました。マティアスはカトリック勢力との結びつきを強化し、プロテスタントへの圧力を強めたため、帝国内の宗教的緊張が高まり、特にボヘミアやハンガリーではプロテスタント勢力の不満が限界に達していました。
1618年、ボヘミアのプロテスタント貴族たちは皇帝の代理人をプラハ城の窓から投げ落とす「プラハ窓外投擲事件」を起こしました。この事件はボヘミアにおけるプロテスタント反乱の始まりであり、三十年戦争勃発の引き金となりました。ボヘミアの反乱は神聖ローマ帝国全体に広がり、帝国は宗教的・政治的混乱に陥りました。
三十年戦争の勃発
三十年戦争は最初、神聖ローマ帝国内の宗教紛争として始まったものの、徐々にヨーロッパ全体を巻き込む大規模な戦争へと拡大しました。皇帝フェルディナント2世はボヘミアの反乱を鎮圧するため、カトリック勢力を結集し、ティリー伯やヴァレンシュタインといった将軍たちを指揮官に任命して戦闘を展開しました。
1620年、白山の戦いにおいて皇帝軍はボヘミアのプロテスタント軍を打ち破り、反乱を制圧しました。この勝利後、ボヘミアではカトリック化政策が実施され、多くのプロテスタント貴族は処刑または追放されました。これによりボヘミアは皇帝の直接統治下に置かれ、神聖ローマ帝国における中央集権化の進展につながりました。
しかし、この戦争はボヘミアの鎮圧だけでは終結しませんでした。プロテスタント勢力はデンマークやスウェーデンなどの外国からの支援を受けて抵抗を続けました。特にスウェーデン王グスタフ2世アドルフはプロテスタントの守護者として神聖ローマ帝国に侵攻し、1630年代には帝国軍を苦しめました。グスタフ2世アドルフはブライテンフェルトやリュッツェンの戦いで勝利を収め、プロテスタント側の希望の光となりました。
他方、神聖ローマ帝国はヴァレンシュタインの活躍により一時的に戦況を好転させました。彼は傭兵部隊を率いてプロテスタント勢力と対峙し、帝国防衛に多大な貢献をしました。しかし、彼の莫大な権力は皇帝や他の諸侯からの疑念を招き、1634年に暗殺される結果となりました。ヴァレンシュタイン死後、帝国軍は再び不利な状況に陥り、戦争は長期化していったのです。
ヴェストファーレン条約による三十年戦争の終結
三十年戦争は1648年のヴェストファーレン条約締結まで継続しました。この条約は神聖ローマ帝国のみならず、ヨーロッパ全体の政治地図を大きく再編することになりました。この条約によりカルヴァン派の信仰が公式に承認され、帝国内の領邦は宗教的自由を手に入れました。同時に、領邦の主権が強化され、神聖ローマ皇帝の権限は著しく制限されることになりました。
ヴェストファーレン条約は神聖ローマ帝国の衰退を決定的なものとしました。帝国はもはや中央集権国家ではなく、数百の領邦が緩やかに連合した集合体のような存在へと変質しました。この条約は近代国際法の起源とも評され、国家主権の概念が確立される重要な転換点となったのです。
プロテスタントの一派で、16世紀のフランス人神学者ジャン・カルヴァンによって創始された宗教改革運動です。以下がカルヴァン派の主な特徴です。
- 予定説:
カルヴァン派の中心的な教義で、神は世界の創造以前に誰が救われ、誰が永遠の断罪を受けるかを既に決定しているという考え。 - 聖書の権威:
カルヴァンは聖書のみが信仰の唯一の源泉であると主張し、カトリック教会の伝統や教皇の権威を否定しました。 - 教会統治:
カルヴァン派の教会は長老制を採用し、選ばれた長老たちによって教会が運営される形態をとります。 - 禁欲的倫理:
労働を神の使命とみなし、質素で勤勉な生活を重視する倫理観を持ちます。 - 政治的影響:
カルヴァン派はスイス、オランダ、スコットランド、イングランドのピューリタン、フランスのユグノー、ハンガリーなど多くの地域に広がり、政治的にも大きな影響力を持ちました。
戦後の神聖ローマ帝国とヨーロッパ情勢
三十年戦争終結後の神聖ローマ帝国は深刻な疲弊状態に陥っていました。戦争による人口減少と経済的打撃は甚大で、帝国の復興は困難を極めました。特に主要な戦場となったドイツ地域は壊滅的な被害を受け、多数の都市や村落が廃墟と化していました。
この時代、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世は戦後復興に力を注ぎましたが、帝国の分裂傾向を食い止めることはできませんでした。領邦の自立性が増大し、皇帝の権力は形式的なものへと変質していきました。また、戦後のヨーロッパ情勢においては、フランスやスウェーデンなどの外国勢力が台頭し、神聖ローマ帝国は国際的影響力を失っていきました。
しかしながら、この時期にはバロック文化が隆盛し、特にウィーンやプラハなどの都市では芸術や建築が発展を遂げました。皇帝や諸侯たちは自身の権威を誇示するために壮麗な宮殿や教会を建設し、文化保護に注力しました。このような文化的繁栄は、戦争がもたらした傷跡を癒やす一助となったといえるでしょう。
フランスとの対立とヨーロッパのパワーバランス
神聖ローマ帝国がオスマン帝国との停戦を迎えた後、ヨーロッパの外交戦略の焦点は再びフランス王国との対立に移りました。ルイ14世の統治下でフランスは絶対王政を確立し、積極的な拡張政策を推進していました。特にアルザス地方を巡る領土問題や、フランス軍のラインラント進出が神聖ローマ帝国にとって大きな脅威となっていました。
フランスの膨張に対抗するため、ハプスブルク家はイングランドやオランダと連携し、アウクスブルク同盟を結成しました。この同盟は後に大同盟戦争(ファルツ継承戦争)へと発展し、ヨーロッパ全体を巻き込む大規模な戦争へとつながっていきました。神聖ローマ帝国にとっては、フランスと戦うために軍備を整えつつ、オスマン帝国との休戦を維持することが急務となっていました。
スペイン継承問題とハプスブルク家の戦略
この時期、ハプスブルク家はスペイン王位継承問題にも直面していました。カルロス2世の死が迫る中、スペイン・ハプスブルク家の断絶が確実視されており、次期スペイン王位を巡ってヨーロッパの大国が対立を深めていました。特にブルボン家のルイ14世と、ハプスブルク家のレオポルト1世の間で、スペイン領土の分配を巡る交渉が活発に行われていました。
この問題が解決されないまま、1700年にはついにカルロス2世が死去し、彼の遺言によってルイ14世の孫であるフェリペ5世がスペイン王に即位しました。この出来事がスペイン継承戦争(1701-1714年)の引き金となり、神聖ローマ帝国を含むヨーロッパ各国が再び戦乱へと突入することになりました。
スペイン継承戦争の勃発とハプスブルク家の動向
1700年にスペイン王カルロス2世が死去し、彼の遺言によってフランスのブルボン家の王子であるフェリペ5世がスペイン王位を継承することになりました。これにより、フランスとスペインが事実上統一される可能性が生じ、ヨーロッパの勢力均衡が大きく崩れることとなりました。この事態を重く見た神聖ローマ帝国のレオポルト1世は、フランスの膨張を防ぐためにイングランドやオランダと同盟を組み、スペイン継承戦争が勃発しました。
神聖ローマ帝国はフランスと熾烈な戦闘を展開し、最終的にユトレヒト条約によって終戦となりました。この戦争を通じて神聖ローマ帝国はスペイン領ネーデルラントやイタリアの領土を手に入れたものの、その代価として財政負担が著しく増加しました。
18世紀初頭の神聖ローマ帝国
1700年から1718年にかけての戦争を通じて、神聖ローマ帝国は多くの領土を獲得し、オーストリア・ハプスブルク家の支配力は一層強固なものとなりました。
しかし、帝国内部では依然として領邦の分権化が進み、帝国全体を統一する動きは見られませんでした。各選帝侯や領邦国家は独自の軍事力や外交政策を持ち、神聖ローマ皇帝の権威は形式的なものとなりつつありました。これにより、神聖ローマ帝国は徐々にオーストリア・ハプスブルク家の支配圏とその他のドイツ諸侯に分裂していくこととなります。
18世紀初頭の戦乱を経て、神聖ローマ帝国は依然としてヨーロッパの一大勢力であり続けましたが、その内部は統一とは程遠い状態にあり、次なる大きな対立であるオーストリア継承戦争(1740年 – 1748年)へと向かっていくことになります。