エドガー・アシリングの誕生と幼少期
エドガー・アシリングは、11世紀のイングランド王国に生まれた貴族の子息であり、後に短期間ながら王位を主張することとなる人物です。彼の誕生は1051年頃と推定されており、父はエドワード懺悔王の異母兄弟であるエドワード・アシリング(エドワード・アウトライナー)、母はハンガリー王国の貴族の娘であるアグネスとされています。エドワード・アシリングは、デーン人によるイングランド支配の時代に祖国を離れ、ハンガリーの宮廷で亡命生活を送っていましたが、エドワード懺悔王の治世下で呼び戻され、エドガーも共にイングランドへ渡ることとなりました。
しかし、エドガーがまだ幼い頃の1057年に父エドワード・アシリングは急死し、彼は幼少の身で王位継承者としての立場を受け継ぐこととなります。当時のイングランドでは、エドワード懺悔王の後継者問題が大きな政治的課題となっており、エドガーは血筋の上では正統な王位継承者として期待されましたが、まだ幼いこともあり、実際に統治を担うことは困難でした。このため、彼の成長を見守るために多くの貴族たちが支援を約束しましたが、後にこの期待は裏切られることとなります。
エドワード懺悔王の死と王位継承争い
1066年1月、イングランド王エドワード懺悔王が崩御すると、王位継承問題が表面化します。エドガー・アシリングは血筋上の最有力候補でしたが、当時まだ15歳程度であり、政治的な実力も軍事的な支援も十分ではありませんでした。そのため、国王の座は有力な貴族であったハロルド・ゴドウィンソンが即座に奪い取る形となり、ハロルド2世として即位します。
しかし、この王位継承を認めない勢力が国外からも国内からも現れました。特に、ノルマンディー公ウィリアム(後のウィリアム征服王)は、エドワード懺悔王が自身に王位を譲る約束をしていたと主張し、軍を率いてイングランドへ侵攻を開始します。これに加えて、ノルウェー王ハーラル3世(ハーラル・ハードラーダ)もイングランド王位を狙い、北から攻め込んできます。
ハロルド2世はこの両者の脅威に対応しなければならず、まずノルウェー軍と戦うため北上し、スタンフォード・ブリッジの戦いでハーラル3世を撃破しました。しかし、その直後にウィリアム率いるノルマン軍が南から進軍し、ハロルド2世は急いで軍を南へ移動させることになります。
ヘイスティングズの戦いとウィリアム征服王の即位
1066年10月14日、ヘイスティングズの戦いが勃発し、ハロルド2世の軍はウィリアムの率いるノルマン軍と激突しました。この戦いは終日続きましたが、ハロルド2世が戦死したことでイングランド軍は崩壊し、ノルマン軍が勝利を収めました。この結果、イングランド王位はウィリアムが手にすることになり、彼はクリスマスの日に戴冠式を行い、ウィリアム1世(征服王)として正式にイングランド王となります。
この時点でエドガー・アシリングはまだ王位継承者としての可能性を残していました。ヘイスティングズの戦いの敗北を受け、イングランドの貴族たちは一時的にエドガーを王として擁立しようとしましたが、ウィリアムの軍事力の前に団結することができませんでした。結局、ロンドンに迫るウィリアムの軍を前にして、エドガーは正式に王として即位することなく、ウィリアムに降伏する道を選びます。
エドガーの抵抗と亡命生活
エドガー・アシリングはウィリアム1世の統治を受け入れたものの、その後もイングランド各地で反乱が続きました。特に1068年から1069年にかけて、エドガーはスコットランド王マルカム3世の支援を受けてノーサンブリア地方で反乱を起こしました。マルカム3世はエドガーの姉マーガレットと結婚し、彼を義理の兄弟として支援していたのです。
しかし、この反乱はウィリアム1世の徹底的な鎮圧によって失敗し、エドガーはスコットランドへ逃れました。その後も幾度かイングランドへ戻り、王位奪還を試みましたが、いずれも成功には至りませんでした。1074年にはフランス王フィリップ1世の支援を受けようとしましたが、フランス宮廷の事情により十分な援助を得ることができず、再びスコットランドへ戻ることになります。
エドガーはこの後も幾度となく政治的な駆け引きを試み、ウィリアム1世の死後に起こった混乱の中で再びイングランド王位を狙いましたが、結局は権力を握ることができず、歴史の表舞台から徐々に姿を消していきます。
エドガー・アシリングの晩年と漂泊の日々
エドガー・アシリングは、王位を巡る戦いに敗れた後も、しばらくは政治の表舞台で生き延びることになります。スコットランド王マルカム3世の宮廷に庇護されたエドガーは、義理の兄弟であるマルカムの支援を受けつつ、再びイングランド奪還を目指して行動を起こします。しかし、1072年にウィリアム1世がスコットランドに侵攻し、和平条約が結ばれると、マルカム3世はエドガーの支援を断念せざるを得なくなりました。この結果、エドガーはスコットランドを離れることを余儀なくされます。
エドガーはフランスへと向かい、フランス王フィリップ1世の庇護を求めました。しかし、フランス宮廷はイングランドに対する直接的な介入を避ける立場を取ったため、彼の望むような支援は得られませんでした。このため、エドガーはノルマンディー公国に滞在しながら、新たな支援者を探し続けることになります。
十字軍への参加とイングランドへの帰還
1090年代に入ると、エドガーはヨーロッパ各地を転々としながらも、依然として政治的な影響力を維持しようとしました。しかし、イングランド国内の情勢が安定し、ウィリアム1世の後継者であるウィリアム2世(赤顔王)の統治が確立されるにつれて、彼の影響力は徐々に衰えていきます。
1096年には、エドガーは第一回十字軍に参加したと考えられています。これは、彼が王位を狙うことを諦め、宗教的な大義のために戦うことを選んだ可能性を示唆しています。十字軍遠征の後、エドガーはイングランドに戻り、当時の王であったヘンリー1世と和解し、一定の地位を確保することになります。
最後の歳月と歴史の中のエドガー
エドガー・アシリングの最期については詳細な記録が残されていませんが、1120年頃まで生存していた可能性が指摘されています。彼は最終的に静かな余生を送り、歴史の表舞台から姿を消していきました。彼がどこで亡くなったのか、正確な埋葬地についても不明であり、歴史の中に埋もれていくことになります。