【イングランド国王】ヘンリー6世

【イングランド国王】ヘンリー6世イングランド国王
【イングランド国王】ヘンリー6世

幼少期と即位

1421年12月6日、ヘンリー6世はウィンザー城に生を受けました。父はイングランド王ヘンリー5世、母はフランス王シャルル6世の娘であるキャサリン・オブ・ヴァロワであり、彼の誕生はイングランドとフランスという二つの大国を結びつけるものでした。しかし彼が生まれてわずか9か月後の1422年8月31日、父ヘンリー5世が戦地で病に倒れ、その短い生涯を終えます。こうしてまだ赤子のヘンリー6世は、王座を継承することになりました。

ヘンリー6世が王位についたとき、イングランド王国とフランス王国の両方の王として即位することになりましたが、幼すぎた彼に代わり、摂政政府が設置されました。国内では叔父にあたるグロスター公ハンフリーが摂政としてイングランドを統治し、フランスではベッドフォード公ジョンが指導者として統治にあたりました。しかし、この摂政政治の体制は内外の困難に直面します。フランスではシャルル7世が王位を主張し、百年戦争の激化を招きました。一方、イングランド国内でも貴族たちの対立があり、摂政政府内の不協和音が目立ち始めていました。

1429年、ヘンリー6世がまだ8歳のとき、フランスでの戦況は大きく変化します。オルレアンを包囲していたイングランド軍が、フランスのジャンヌ・ダルクの活躍によって敗北し、イングランドの優位が崩れ始めました。翌1431年、10歳になったヘンリー6世はフランス王として戴冠するためパリに赴き、ノートルダム大聖堂で正式にフランス王ヘンリー2世として戴冠します。しかしこの戴冠もフランスの実効支配を意味するものではなく、現実にはフランス国内の支配権は徐々にシャルル7世の手に移っていきました。

初期統治とフランス戦線の悪化

1437年、ヘンリー6世が16歳になったことで、正式に親政を開始しました。しかし彼は政治に対する関心が薄く、争いごとを好まない穏やかな性格であり、王としての決断力に欠けていました。彼の治世において大きな問題となったのは、フランス戦線の悪化でした。1435年のアラスの和約によって、フランス王シャルル7世はブルゴーニュ公国との同盟を結ぶことに成功し、これによってイングランドはフランス国内での主要な支援を失いました。以降、フランス軍の反攻が強まり、1440年代に入るとイングランドの領土は徐々に奪われていきました。

1445年、ヘンリー6世はフランス貴族の出身であるマーガレット・オブ・アンジューと結婚します。この婚姻はフランスとの和平を目的としたものでしたが、結果的にイングランド国内の政治対立を激化させる要因となりました。ヘンリー6世は和平を重視していたものの、イングランド国内の有力貴族たちはフランス戦争の継続を求めており、特にヨーク公リチャードを筆頭とする一派は王の方針に強く反発しました。

1449年、フランス軍はイングランド支配下にあったノルマンディーへの攻勢を開始し、翌1450年にはノルマンディーがフランスの手に落ちました。さらに1453年にはカスティヨンの戦いでイングランド軍が大敗し、ガスコーニュ地方も喪失しました。これによって百年戦争は実質的にフランス側の勝利に終わり、イングランドはカレーを除くすべてのフランス領土を失いました。この敗北はヘンリー6世に大きな衝撃を与え、彼は1453年8月に精神を病み、政治能力を完全に失ってしまいました。

ヨーク公との対立と内乱の勃発

ヘンリー6世が精神の均衡を失っている間、王妃マーガレット・オブ・アンジューは積極的に政務を取り仕切りました。しかしマーガレットの権力掌握は貴族たちの反発を招き、特にヨーク公リチャードとの対立が決定的となりました。1454年、ヨーク公リチャードは議会の支持を得て摂政に任命されましたが、ヘンリー6世が翌1455年に回復すると、マーガレットとその支持者たちはヨーク公の排除を図ります。

こうして1455年、ヨーク公と国王派の間で第一次セント・オールバンズの戦いが勃発し、これがバラ戦争の始まりとなりました。この戦いでヨーク公側が勝利し、国王派の指導者であったサマセット公エドムンド・ボーフォートが戦死します。その後、ヘンリー6世は再びヨーク公に拘束されるものの、マーガレットの働きかけによって解放され、ヨーク公の摂政職は剥奪されました。

しかし、争いは収まらず、1460年にヨーク公リチャードは自ら王位を主張して挙兵します。ヘンリー6世とその軍はウェイクフィールドの戦いでヨーク公の軍と衝突し、この戦いでヨーク公リチャードは戦死しました。しかし、彼の息子であるエドワードは父の志を継ぎ、1461年にはトウトンの戦いでヘンリー6世軍を破ります。これによりヘンリー6世はロンドンを追われ、エドワードがエドワード4世として即位することとなりました。

逃亡したヘンリー6世はスコットランドに身を寄せ、王妃マーガレットとともに反撃の機会をうかがいましたが、しばらくの間イングランド国内には戻れませんでした。1464年、イングランドにおけるランカスター派の最後の拠点も陥落し、ヘンリー6世は捕らえられ、ロンドン塔に幽閉されることとなりました。しかしその運命はまだ決して終わっていなかったのです。

幽閉生活と復権

1465年、ヘンリー6世はロンドン塔に幽閉され、イングランド王としての権力を完全に失いました。王妃マーガレット・オブ・アンジューと息子エドワードはフランスへ逃れ、彼の支配を取り戻すための支援を求めました。一方、エドワード4世がイングランドの王座に就き、ヨーク朝の支配が確立されたかに見えましたが、政治的混乱は続きました。エドワード4世の治世には国内貴族の不満がくすぶり続け、やがて1470年に至り、大きな転機が訪れました。

この年、エドワード4世のかつての盟友であり、後に対立することとなったウォリック伯リチャード・ネヴィルが、ヘンリー6世の支持者たちと結びつき、エドワード4世を追放することに成功しました。これにより、ヘンリー6世はロンドン塔から解放され、再び王位に復帰しました。これを「ヘンリーの再統治(リストレーション)」と呼びます。しかし、この復権は短命に終わります。

最後の戦いと敗北

ヘンリー6世の復権は表面的なものであり、実権は実質的にウォリック伯が握っていました。エドワード4世は1471年に再び軍を挙げ、ヘンリー6世派の勢力と衝突します。この年の4月、バーネットの戦いが勃発し、ウォリック伯は敗死しました。さらに、5月のテュークスベリーの戦いにおいて、ヘンリー6世の息子であるウェストミンスター公エドワードも戦死し、王家の存続にとって致命的な打撃となりました。

テュークスベリーの戦いでの敗北は、ヘンリー6世にとって決定的なものとなり、彼の支持者たちは散り散りになりました。王妃マーガレットも捕らえられ、ヘンリー6世は再びロンドン塔に幽閉されることとなります。彼の運命はすでに定まっていました。

最期の日々と死

ヘンリー6世はロンドン塔に幽閉された後、ほぼ完全に政治の舞台から消えました。彼の周囲にはわずかな忠実な従者しかおらず、希望も失われていました。そして、1471年5月21日の夜、ヘンリー6世はロンドン塔内で非業の死を遂げました。その死因については公式には「悲しみのあまり死亡」とされていますが、実際にはエドワード4世の命を受けた刺客によって殺害された可能性が高いとされています。

ヘンリー6世の遺体は最初、ロンドンのチャーターハウスに埋葬されましたが、後にウィンザー城のセント・ジョージ礼拝堂に移されました。彼の死は、ランカスター家の権力の終焉を象徴するものであり、イングランドにおけるヨーク家の支配が確立することとなりました。

ヘンリー6世の遺産

ヘンリー6世は王としての能力には乏しかったものの、宗教的な敬虔さと学問への関心においては高く評価される人物でした。彼は1441年にケンブリッジ大学のキングス・カレッジを創設し、また1448年にはイートン・カレッジを設立しました。これらの教育機関は、現在に至るまでイギリスの学問の中心として機能しており、ヘンリー6世の最大の遺産のひとつといえます。

彼の治世は百年戦争の終焉とバラ戦争の始まりという、イングランド史における重大な転換点と重なります。戦争と内乱によって王国は大きく揺れ動き、彼自身の無力さもあり、政治的な混乱を収束させることはできませんでした。しかし、彼がもたらした影響は単なる敗北者のそれではなく、長きにわたる王家の対立の中で、彼が象徴する平和と信仰の姿勢は一部の人々に深い印象を残しました。

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