幼少期と家柄
ヘンリー5世は1386年9月16日、イングランド王国の王族の一員としてモンマス城に生を受けました。彼の父はヘンリー・オブ・ボリングブルック、後のヘンリー4世であり、母はメアリー・ド・ブーンで、ランカスター公家の血筋を持つ名門の出自でした。父ヘンリー・ボリングブルックはイングランド王リチャード2世の従兄弟にあたり、名門ランカスター家の一員であったため、ヘンリー5世は幼少の頃から将来の王位継承者として育てられました。
幼少期のヘンリーは、モンマス城で貴族の子息として教育を受け、剣術や馬術、戦略の基礎を学びながら、ラテン語やフランス語といった当時の国際言語にも精通しました。幼少の頃から聡明で勇敢な性格を示し、また音楽や詩にも親しんでいたことが伝えられています。彼の周囲には優れた教育者が揃っており、その中には学識の高い聖職者や武人も含まれていました。
1399年、父ヘンリー・ボリングブルックがクーデターを成功させ、リチャード2世を退位させて自らヘンリー4世として即位したことで、ヘンリー5世は正式に王太子となりました。この時、わずか13歳という若さでしたが、すでに優れた武勇と指導力の片鱗を見せていたと言われています。
若き軍人としての活躍
ヘンリー5世は若くして軍事に関わる機会を得ました。1403年、16歳の時に起こった「シュルーズベリーの戦い」において、反乱軍を率いるパーシー家と対峙しました。この戦いはイングランドの内乱の一環であり、父ヘンリー4世に対する反乱勢力がパーシー家のヘンリー・ホットスパーを中心に結集したものでした。
この戦いでヘンリーは果敢に戦場を駆け巡り、若き王太子として軍勢を鼓舞しましたが、彼自身も戦闘の最中に顔面に矢を受け、重傷を負うことになります。矢は彼の顔の奥深くまで刺さりましたが、軍医の見事な処置によって命を取り留め、長期にわたる治療の末に回復しました。この時の傷跡は生涯にわたって彼の顔に残り、彼が戦場での勇猛さを証明するものとして語り継がれることとなります。
シュルーズベリーの戦いに勝利したことで、ヘンリーは軍事指揮官としての才覚を認められ、以後、父の代わりに政務や戦争を指揮することが増えていきました。しかし、父ヘンリー4世は晩年になるにつれて健康を害し、政権運営も困難となったため、ヘンリー王太子が次第に政治の主導権を握るようになっていきました。
王位継承と新たな時代の幕開け
1413年3月、ヘンリー4世が崩御すると、26歳のヘンリーは正式に即位し、イングランド王ヘンリー5世となりました。彼の即位は混乱の続くイングランド王国にとって新たな時代の到来を意味しました。
ヘンリー5世が即位すると、まず取り組んだのは国内の安定化でした。彼はかつての王リチャード2世の支持者や国内の反乱分子との融和を図り、慎重な政治を行いました。また、彼の治世の最大の目標の一つはフランス王国への軍事遠征、すなわち百年戦争の再開でした。百年戦争はヘンリー5世の曾祖父エドワード3世の時代から続いていた英仏間の戦争であり、彼はこの戦いをイングランドに有利な形で終結させることを目指しました。
フランス遠征の準備は慎重に進められ、国内の財政基盤を強化し、軍隊の規律を徹底するなどの施策が講じられました。1415年、ヘンリー5世はついにフランス遠征を開始し、イングランド軍を率いてノルマンディーに上陸しました。こうして、彼の最大の戦績となるアジャンクールの戦いへとつながっていきます。
アジャンクールの戦い
1415年10月25日、ヘンリー5世はフランス軍とアジャンクールで対峙しました。この戦いはイングランド軍が圧倒的に不利な状況で始まりました。フランス軍の兵力はイングランド軍の三倍以上とも言われ、重装騎兵を主体としたフランス軍の強力な戦闘力に対し、ヘンリー5世率いるイングランド軍は弓兵を主力とした軽装の軍隊で編成されていました。
しかし、ヘンリー5世は卓越した戦略を用いてこの戦いを勝利へと導きました。彼は戦場の地形を巧みに利用し、長弓兵による一斉射撃でフランス軍の騎兵を制圧しました。雨によってぬかるんだ地面がフランス軍の騎兵の動きを鈍らせ、逆にイングランド軍にとっては有利な状況を生み出しました。この結果、フランス軍は大敗を喫し、多くの貴族や指導者が戦死しました。
アジャンクールの戦いにおける勝利は、ヘンリー5世の名声を決定的なものとし、彼の軍事的才能を示す象徴的な戦いとなりました。戦後、ヘンリー5世はさらにフランス国内での軍事行動を活発化させ、ノルマンディー地方を次々と攻略し、フランス王国の内部にも影響を及ぼす存在となっていきました。
フランス遠征とその成果
アジャンクールの戦いでの勝利を契機として、ヘンリー5世はフランス遠征をさらに推し進めました。1417年には再びフランスへと出陣し、ノルマンディー地方の征服を本格化させました。この遠征は非常に慎重に計画され、イングランド軍の軍規は厳しく管理されていました。ヘンリー5世は略奪を禁じ、規律を徹底することで現地住民の支持を得ることを狙いました。
イングランド軍はカーン、ルーアンなどの主要都市を次々と攻略し、フランス北部に確固たる地盤を築いていきました。1419年にはノルマンディー公国をほぼ完全に制圧し、イングランド王国の支配下に置くことに成功しました。この間、フランス国内では内紛が続いており、ブルゴーニュ派とアルマニャック派が激しく対立していました。ヘンリー5世はこの内紛を巧みに利用し、ブルゴーニュ派との同盟を模索することでさらなる優位性を確立しました。
トロワ条約とフランス王位継承
1420年、ヘンリー5世はフランス王シャルル6世との間でトロワ条約を締結しました。この条約により、ヘンリー5世はフランス王国の摂政となり、さらにシャルル6世の娘キャサリン・オブ・ヴァロワと結婚することが定められました。これにより、ヘンリー5世の子がフランス王位を継承する可能性が生まれ、百年戦争の帰趨を決定づける大きな出来事となりました。
しかし、この条約はフランス国内で大きな反発を生みました。特に王太子シャルル(後のシャルル7世)はこの取り決めを認めず、南部を拠点に抵抗を続けました。にもかかわらず、トロワ条約は公式に批准され、ヘンリー5世の影響力はフランス全土に及ぶようになりました。
晩年と急逝
ヘンリー5世のフランス遠征は成功を収め続けましたが、1422年に彼は突然病に倒れました。夏の間に発熱を繰り返し、体調は急激に悪化していきました。当時、赤痢や熱病の可能性が指摘されましたが、正確な病名は不明です。
同年8月31日、ヘンリー5世はフランスのヴァンセンヌ城で36歳の若さで逝去しました。彼の死はイングランドとフランスの両国にとって大きな衝撃となりました。特に、トロワ条約に基づいてフランス王位を継承するはずだった彼の子ヘンリー6世はまだ生後数か月であり、王国の将来は大きな不確実性を伴うことになりました。
彼の遺産と影響
ヘンリー5世の死後、イングランド王国は混乱に陥りました。幼少のヘンリー6世が王位を継いだものの、フランス国内では王太子シャルルを支持する勢力が勢いを増し、ジャンヌ・ダルクの登場によって戦局は一変しました。結果として、ヘンリー5世の死からわずか数十年の間にイングランドはフランスに対する支配権を喪失し、百年戦争はフランスの勝利へと向かっていきました。
しかし、ヘンリー5世の軍事的才能と政治的手腕は後世の評価において高く、彼の治世はイングランドの黄金期の一つと見なされています。彼の戦略と統率力は多くの歴史家によって称賛され、イングランドの歴史において屈指の名君として記憶され続けています。