ハロルド2世の誕生と家系
ハロルド2世は1022年頃、イングランドの名門貴族であるゴドウィン家に生まれました。父ゴドウィンはウェセックス伯としてイングランド王国における有力者の一人であり、ノルマンディー公ウィリアムに対抗しうる権勢を誇っていました。母ギタはデンマーク王家の血を引く貴婦人であり、このような背景からハロルドはイングランド貴族の中でも特に高貴な血統を有していました。ゴドウィン家はエドワード懺悔王の治世下で影響力を増しており、特にウェセックス地方を基盤としながら、王国全体に強い影響を及ぼしていました。
幼少期の記録は乏しいものの、彼は戦士としての教育を受けるとともに、政治的手腕を磨く環境に置かれていたことは確実です。彼の父ゴドウィンは巧みな外交手腕を発揮しながら、時には王と対立し、時には協力することで権力を維持しました。その中でハロルドは政治の機微を学び、戦場における指揮官としての資質も育んでいったのです。
ハロルドの台頭
1053年、父ゴドウィンが死去すると、ハロルドはウェセックス伯を継承しました。ウェセックスはイングランド南部において最も豊かな地域であり、その統治を担うことはすなわちイングランド王国全体に対する影響力を有することを意味していました。彼はこの地位を活かし、王国の軍事・行政において主導的な役割を果たすようになります。
当時のイングランド王であったエドワード懺悔王は、王位をめぐる問題を抱えていました。彼には子供がなく、次の王を誰にするかが大きな問題となっていたのです。ノルマンディー公ウィリアムはエドワードから王位を継承する約束を得たと主張していましたが、イングランド国内ではハロルドの支持も根強く、彼が次期国王となる可能性は十分にありました。こうした状況の中、ハロルドは自らの地位を固めるために様々な政治的手腕を発揮し、国内の有力者たちと関係を築いていきました。
ノルマンディー訪問とその影響
1064年頃、ハロルドはノルマンディーを訪問しました。この訪問の目的は明確ではありませんが、一説には彼がエドワード王の名のもとにウィリアム公と交渉を行うためであったとされています。しかし、この訪問の結果として、ハロルドはウィリアムに対して忠誠を誓うことを余儀なくされたとも言われています。
この誓いがどのような状況でなされたのかは不明瞭ですが、後の歴史において重要な意味を持つことになります。ウィリアムはこの誓いを、自らのイングランド王位継承権を正当化する証拠の一つとして利用することになるのです。しかし、ハロルド自身はこの誓いを無効と見なし、エドワード王の死後、イングランド貴族たちの支持を得て王位を継承することを目指しました。
ハロルドの王位継承
1066年1月5日、エドワード懺悔王が死去しました。彼の死はイングランドの王位継承問題を決定的なものとしました。エドワードは死の直前にハロルドを後継者として指名したとされており、これを受けてイングランドの有力者たちはハロルドを国王として認めました。1月6日、ハロルドはウェストミンスター寺院で戴冠し、正式にイングランド王ハロルド2世となったのです。
しかし、この即位は国内外で大きな波紋を呼びました。ノルマンディー公ウィリアムは、エドワード王がかつて自分に王位を約束していたと主張し、ハロルドの即位を不当なものとみなしました。また、ノルウェー王ハーラル3世もまた、イングランド王位に対する権利を主張し、軍を率いて侵攻を計画することになります。
ノルウェーの侵攻とスタンフォード・ブリッジの戦い
ハロルド2世の統治が始まるや否や、イングランドは複数の外敵に直面することとなりました。まず脅威となったのはノルウェー王ハーラル3世(ハーラル・ハードラーダ)でした。彼はハロルドの弟トスティと同盟を結び、大軍を率いてイングランド北部に侵攻しました。
9月20日、ハーラル3世の軍勢はフルフォードの戦いでイングランド軍を破り、ヨークを占領しました。この報を受けたハロルド2世は、南部での防衛準備を一時中断し、急ぎ北へと軍を進めました。彼の迅速な行動は、戦局を大きく変えることになります。
9月25日、スタンフォード・ブリッジの戦いが勃発しました。ハロルドの軍は長旅による疲労を抱えながらも、奇襲に成功し、ノルウェー軍を撃破しました。ハーラル3世は戦死し、トスティも討たれ、ノルウェー軍は壊滅状態となりました。この戦いによって、イングランド北部の脅威は取り除かれましたが、ハロルドは休む間もなく新たな危機に直面することになります。
ノルマンディー公ウィリアムが、イングランド南部へと上陸を開始しようとしていたのです。
ヘースティングズの戦いとハロルドの最期
スタンフォード・ブリッジの戦いでノルウェー軍を打ち破ったハロルド2世は、その勝利の余韻に浸る間もなく、南部に迫る新たな脅威に直面しました。ノルマンディー公ウィリアムが、大軍を率いてイングランド南部のペヴェンジーに上陸したのです。ウィリアムはイングランド王位の正当な継承者であると主張し、ハロルドを打倒するための決戦を求めていました。
ハロルドは急ぎ軍を南へと進め、短期間のうちにヘイスティングズ近郊に陣を構えました。1066年10月14日、両軍はヘイスティングズの戦場で激突しました。ハロルドの軍は盾壁を形成し、堅固な防御を敷きましたが、ウィリアムは戦術的な機動力を活かし、巧妙な戦略を展開しました。特に偽装退却の戦術が功を奏し、イングランド軍は徐々に戦線を崩していきました。
戦闘が激化する中、ハロルドはノルマンディー軍の攻撃を受け、伝説によれば彼は矢を目に受けて倒れたとされています。この瞬間、イングランド軍の士気は崩壊し、指揮官を失った彼らは総崩れとなりました。ウィリアムの軍はこれを機に攻勢を強め、ついにイングランド軍を完全に打ち破りました。この戦いこそが、イングランド史における最大の転換点のひとつとなるヘイスティングズの戦いでした。
ハロルドの死とその影響
ハロルド2世の死は、イングランドにおけるサクソン王朝の終焉を意味しました。彼の遺体は戦場に放置され、後に母ギタが身代金を支払って遺体を回収しようとしましたが、ウィリアムによって拒否されたとも伝えられています。ハロルドの遺体はウェセックス地方のワルシンガム修道院に埋葬されたとも、あるいは戦場のどこかに葬られたともいわれており、その正確な埋葬場所は現在も不明です。
ウィリアムはこの勝利によってイングランド王ウィリアム1世(征服王ウィリアム)として即位し、ノルマン王朝の支配を確立しました。ノルマン人の支配はイングランドの社会、文化、統治体制に大きな影響を及ぼし、封建制度の導入や貴族層の変化を引き起こしました。これにより、イングランドはヨーロッパ大陸の政治的な影響を強く受けるようになり、中世イングランドの新たな時代が幕を開けました。
ハロルドの遺産と評価
ハロルド2世は短期間ながらも強力なリーダーシップを発揮し、ノルウェー軍を撃破しながらもノルマン軍と戦い続けた勇敢な王でした。彼の治世はわずか9か月という短さではありましたが、その間にイングランドの独立を守るために奮闘しました。
近年の歴史研究では、ハロルドの戦術や統治能力が再評価されるようになっています。彼は有能な戦士でありながら、王としての資質も備えていたと考えられています。もしヘイスティングズの戦いで勝利していれば、イングランドの歴史は大きく変わっていたことでしょう。