【イングランド国王】ジョン欠地王

【イングランド国王】ジョン欠地王イングランド国王
【イングランド国王】ジョン欠地王

ジョン欠地王の誕生と幼少期

ジョンは1166年12月24日、フランスのアンジューにあるボーモン城で、イングランド王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの末子として生まれました。彼の誕生当時、父ヘンリー2世はすでに広大な領土を支配しており、イングランド王国だけでなく、ノルマンディー公国、アンジュー伯領、アキテーヌ公領などを含む「アンジュー帝国」とも称される広大な支配地を築いていました。しかし、ジョンが生まれた時点では、彼の四人の兄たちがすでに重要な地位を占めており、彼に与えられる領土がほとんど残されていなかったため、「欠地王(Lackland)」という不名誉な渾名を付けられることになったのです。

幼少期のジョンは、他の王子たちと同様に宮廷教育を受けました。彼はラテン語やフランス語を学び、武芸や政治の基本についても教育を受けましたが、兄たちが早くから領土を与えられて独立した統治を任されていたのに対し、ジョンには具体的な役割が与えられず、父王の庇護の下で育つことになります。この状況は、彼の心理に大きな影響を与えたと考えられています。

父ヘンリー2世は、ジョンを聖職者として育てることを考えた時期もあったようですが、最終的には政治的な駆け引きの道具として利用することにしました。そのため、ジョンは幼い頃から頻繁にヨーロッパ各地を転々とし、フランスとイングランドの宮廷を行き来する生活を送りました。その一方で、ジョンは学問に対する関心が比較的強く、特に法律や行政に関する知識を身につけていたとされます。

若き日のジョンと家族間の対立

ジョンがまだ幼い頃、彼の父ヘンリー2世と兄たちの間には深刻な対立が生じていました。1173年、ジョンの長兄である若ヘンリー王が、フランス王ルイ7世の支援を受けて父に対して反乱を起こしました。これにリチャード(後の獅子心王)、ジェフリー(ブルターニュ公)も加わり、王族間の激しい内紛へと発展しました。

しかし、この戦いにおいてジョンは父ヘンリー2世の側につき、忠実な息子として行動しました。その報酬として、彼は1177年にアイルランドの支配者として任命され、正式にアイルランド王として戴冠する計画も立てられました。とはいえ、ジョンの統治はうまくいかず、彼の態度は高慢で軽率だったと言われています。特に地元のアイルランド貴族たちを見下した言動が反感を買い、結局のところ、アイルランド支配を確立することができずに失敗し、帰国を余儀なくされました。

この失敗の影響もあり、ジョンは父王からの信頼を失いかけましたが、1183年に兄の若ヘンリー王が死去し、さらに1186年にはジェフリーも事故で亡くなったことで、ジョンの立場は再び強まりました。そして、1189年に父ヘンリー2世が死去すると、次兄のリチャードが王位を継ぎ、ジョンはイングランドの有力貴族として新たな立場を確立することになります。

獅子心王リチャードとの関係と王位継承の準備

1189年に兄リチャード1世がイングランド王に即位すると、ジョンは彼の忠実な臣下であることを示しました。しかし、リチャードはすぐに第三回十字軍に出発し、実質的にイングランドを留守にしました。その間、リチャードはジョンをイングランドの統治者とすることはせず、代わりに信頼する宰相ウィリアム・ロングシャンプを摂政として任命しました。

ジョンはこの措置に不満を抱き、ロングシャンプの統治に対して反抗的な態度をとるようになりました。最終的に、ジョンはロングシャンプを追放し、事実上イングランドの支配権を手に入れました。しかし、1194年にリチャードが十字軍遠征から帰国すると、ジョンの反逆は失敗に終わり、兄王から赦しを得ることでようやく生き延びることができました。

1199年、リチャード1世がフランスでの戦闘中に負傷し、帰らぬ人となると、ジョンは正式にイングランド王位を継承しました。しかし、彼の王位継承は決して安定したものではありませんでした。兄ジェフリーの息子であるアーサー(ブルターニュ公)が、フランス王フィリップ2世の支持を受けて王位を主張し、ジョンの即位を脅かしたのです。

ジョン王の即位とフランスとの戦争

ジョンは1199年に正式にイングランド王として戴冠しましたが、王国の状況は厳しいものでした。フランス王フィリップ2世はジョンの弱点を見抜き、彼の甥アーサーを擁立して王位を奪おうと画策しました。これに対抗するため、ジョンはイングランド国内での権力基盤を固めつつ、フランスとの戦争に備える必要がありました。

1202年、フランス王フィリップ2世はジョンに対して王国の領地を放棄するよう要求しましたが、ジョンはこれを拒否しました。結果として、アーサーを中心とした反乱が勃発し、フランス西部での戦いが始まりました。しかし、ジョンは策略を巡らせ、アーサーを捕虜とすることに成功しました。

アーサーのその後については不明瞭な点が多く、ジョンの命令によって殺害されたという説が有力ですが、確たる証拠はありません。この事件はジョンの評判を大きく傷つけ、フランス貴族たちの反感を買う結果となりました。その後、ジョンはフランスでの領地を失い始め、1204年にはノルマンディー公国を完全に喪失しました。この出来事はジョンの治世における最も重要な敗北の一つであり、彼の「欠地王」としての評価を決定づける要因となったのです。

ジョン王の国内統治と対立の激化

ノルマンディーをはじめとするフランスの領地を喪失したジョン王は、国内統治に専念せざるを得なくなりました。しかし、彼の統治は決して円滑なものではありませんでした。フランスでの敗北によって王の威信は大きく損なわれ、国内の貴族たちはジョンの統治能力に疑問を抱くようになっていたのです。

ジョンは失った領地を取り戻すために軍事資金を必要としましたが、その資金を得るために重税を課し、財政改革を強行しました。彼は厳しい徴税を行い、さらに封建的な権利を無視して貴族や聖職者たちから直接的な資金調達を行いました。これにより国内の不満は増大し、特に大貴族たちはジョン王の専制的な統治に強い反発を抱くようになりました。

また、ジョン王はローマ教皇とも対立を深めました。1205年にカンタベリー大司教が死去した際、教皇インノケンティウス3世が自らの候補としてスティーブン・ラングトンを任命しましたが、ジョンはこれを拒否し、独自の候補を立てました。これが原因となり、ジョンはローマ教皇によって破門され、イングランド全土がインターディクト(宗教的制裁)の対象となるという異例の事態に発展しました。

この状況に直面したジョンは1213年に屈服し、ローマ教皇の支配を受け入れることで破門を解除しました。彼は教皇に対して臣従を誓い、イングランド王国を教皇の封土とすることで和解しましたが、これによりジョンの評判はさらに悪化し、貴族たちの不信感を一層募らせる結果となりました。

大憲章(マグナ・カルタ)の制定と王権の制限

ジョン王の強権的な政治に反発した貴族たちは、次第に結束を強め、ついに1215年に武装蜂起しました。彼らはロンドンを占拠し、ジョン王に対して強い圧力をかけました。これにより、ジョンは貴族たちの要求を受け入れざるを得なくなり、1215年6月15日、ランニーミードで「大憲章(マグナ・カルタ)」を承認することになりました。

この文書は王権の制限を明確にし、貴族や自由民の権利を保証するものでした。特に、国王が恣意的に課税を行うことを禁じ、正当な法の手続きを経なければ人を逮捕・投獄できないことが規定されるなど、法の支配を確立する画期的な内容を含んでいました。

しかし、ジョンはマグナ・カルタを守る意志がなく、批准後すぐに教皇の支持を取り付けて破棄を宣言しました。これにより国内の反乱は再燃し、イングランドは内戦状態に突入しました。この戦いは「第一次バロン戦争」と呼ばれ、貴族たちはフランス王太子ルイ(後のルイ8世)を招いて王位に就かせようとしました。

ジョン王の最期と死去

1216年、ジョン王は内戦の混乱の中で全国を転々としながら戦い続けましたが、次第に追い詰められていきました。秋には東イングランドへ向かう途中、彼はリンカンシャーで深刻な病にかかります。病状が悪化する中、彼はノッティンガムを経由してニューワーク城へと辿り着きました。

同年10月18日、ジョン王はニューワーク城で息を引き取りました。享年49歳でした。彼の死因については、赤痢や食中毒など諸説ありますが、確かなことは不明です。遺体はウスター大聖堂に葬られました。

ジョンの死後、彼の9歳の息子ヘンリー3世が即位しました。ジョンが破棄したマグナ・カルタは新たに改訂され、イングランドの統治の基盤となる法典として受け継がれることになりました。ジョン王の治世は混乱と戦争に満ちたものでしたが、彼の死後に生じた改革が、イングランドの政治制度の発展に大きな影響を与えることとなりました。

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