エゼルレッド2世の誕生と幼少期
エゼルレッド2世は、10世紀後半のイングランド王国において生を受けました。彼の誕生は西暦966年頃とされ、父はイングランド王エドガー、母は王妃エルフスリスでした。エドガー王はイングランドの統一を成し遂げた王の一人として知られ、強力な王権を確立した人物でしたが、彼が973年に崩御すると、国内は混乱に陥りました。エゼルレッドの異母兄であるエドワードが王位を継承しましたが、彼は978年に暗殺され、エゼルレッドが12歳という若さで王位に就くことになったのです。この暗殺事件の背景には王妃エルフスリスの関与が疑われましたが、確証はありませんでした。
若き王エゼルレッドは、幼少期から王としての資質を試されることになりましたが、12歳での即位は彼にとって非常に過酷なものでした。イングランド国内では貴族同士の権力闘争が続き、王権はまだ十分に強固なものとは言えませんでした。さらに、ヴァイキングの侵攻が頻発し、国土の防衛が大きな課題となっていたのです。エゼルレッドは即位したものの、実際の統治は彼を支える廷臣や貴族によって行われました。この時期のエゼルレッドは、王というよりも王権の象徴として扱われていたのです。
初期の治世とヴァイキングの脅威
エゼルレッド2世の治世が本格的に始まると、彼は幾度となくヴァイキングの侵攻に直面しました。彼の即位した978年からすでにデーン人(ヴァイキング)による襲撃が再び活発になっており、980年代にはイングランド南部の沿岸部が頻繁に攻撃を受けていました。彼の治世の最大の課題は、このヴァイキングの侵攻にどう対処するかという点にあったのです。
エゼルレッドは当初、軍を組織しヴァイキングに対抗しようと試みましたが、戦闘の結果は芳しくありませんでした。イングランド軍はしばしば敗北を喫し、ヴァイキングたちは各地を蹂躙しました。こうした状況の中で、エゼルレッドは当時のヨーロッパ諸国で行われていた「ダンゲルド(Danegeld)」という貢納金を支払う政策を採用することにしました。これはヴァイキングに銀貨を支払い、襲撃をやめさせるというものでした。彼は多額の銀を用意し、ヴァイキングを一時的に退けることに成功しましたが、これは長期的には逆効果となりました。なぜなら、ヴァイキングにとってイングランドは「金を払えば襲撃を避ける国」と認識されてしまい、さらに多くの侵略者を呼び込む結果となったからです。
宮廷政治と貴族との関係
エゼルレッドの治世において、もう一つ重要な要素となったのが宮廷政治でした。彼は王としての権威を示すため、廷臣たちとの関係を重視し、イングランド各地の貴族と連携を取ろうとしました。しかし、彼の統治はしばしば「無策で優柔不断」と評され、王としての統治能力に疑問を抱かれることが多かったのです。特に、エゼルレッドはしばしば重臣たちの助言に頼りすぎる傾向があり、自ら決断を下すことができない場面が目立ちました。
また、彼は治世の初期に多くの法を制定し、王国の秩序を維持しようとしました。彼の法典には、貴族や聖職者の権利を保証するものも含まれていましたが、結局のところ貴族たちは自らの利益を最優先し、王の意向を軽視することが多かったのです。このような宮廷政治の混乱が、ヴァイキングの侵攻と相まってエゼルレッドの治世をさらに困難なものとしました。
セント・ブライスの日の虐殺
エゼルレッド2世の治世の中でも特に有名な事件の一つが、西暦1002年に起こった「セント・ブライスの日の虐殺」でした。この年の11月13日、エゼルレッドは国内にいるデーン人(ヴァイキング系住民)を一斉に殺害する命令を下しました。これは、長年にわたるヴァイキングの侵攻に対する怒りと恐怖から生まれた政策でしたが、その結果は悲惨なものでした。
この虐殺によって、イングランド国内に住んでいた多くのデーン人が殺害され、その中にはスヴェン1世(デンマーク王)の妹やその家族も含まれていたとされています。この事件は当然ながらデンマーク王国の怒りを買い、スヴェン1世はこれを機にイングランドへの本格的な侵攻を決意しました。つまり、エゼルレッドの決断は、かえってヴァイキングの脅威をより深刻なものへと変えてしまったのです。
虐殺が行われた直後から、ヴァイキングの復讐は始まりました。スヴェン1世率いるデンマーク軍はイングランドの各地を襲撃し、従来の略奪を超えた本格的な征服戦争へと発展していきました。エゼルレッドはこれに対抗しようとしたものの、彼の軍事的対応は後手に回り、国中が恐怖と混乱に包まれました。
スヴェン1世との戦いと王国の危機
1003年以降、デンマーク王スヴェン1世はイングランドへの攻撃を本格化させました。セント・ブライスの日の虐殺を契機に、ヴァイキングたちは単なる略奪ではなく、イングランド全土の征服を視野に入れた戦いを繰り広げるようになりました。スヴェン1世は強大な軍を率いて何度もイングランドの要地を襲撃し、エゼルレッド2世の統治はますます困難なものとなりました。
エゼルレッドはこの脅威に対抗するため、貴族たちや各地の領主と協力し、軍を組織しようとしましたが、国内の団結力は著しく低下していました。多くの貴族がエゼルレッドの指導力に疑問を抱き、王に忠誠を誓う者が減少していったのです。これにより、ヴァイキングの侵攻に対する有効な防衛策を講じることができず、イングランドの各都市は次々と陥落していきました。
1009年には、スヴェン1世の将軍であるトルケル・ザ・タルが率いるヴァイキング軍がイングランド南東部を襲撃し、大規模な略奪を行いました。エゼルレッドは再びダンゲルドを支払って和睦を試みましたが、これは一時的な解決に過ぎず、結局、ヴァイキングの侵攻は止まることはありませんでした。彼の優柔不断な対応は国内の不満をさらに増大させ、王の権威は地に落ちていきました。
逃亡と王国の崩壊
1013年、スヴェン1世はついにイングランド王国の完全制圧を目指し、大軍を率いて本格的な侵攻を開始しました。この攻撃に対し、エゼルレッドはほとんど有効な抵抗をすることができず、ロンドンを含む主要都市は次々と陥落しました。国内の貴族たちはスヴェン1世を新たな王として受け入れる動きを見せ始め、イングランド王国は事実上、デンマークの支配下に置かれることになりました。
この絶望的な状況の中、エゼルレッドは王妃と子供たちを伴い、ノルマンディーへと亡命しました。彼の妻であるエマ・オブ・ノルマンディーの実家であるノルマンディー公国が彼を受け入れ、エゼルレッドはフランス北部で亡命生活を送ることになったのです。彼の亡命によって、イングランドは一時的にスヴェン1世の統治下に入りました。
しかし、1014年にスヴェン1世が急死すると、イングランド国内では混乱が生じました。スヴェン1世の息子であるクヌート(後のクヌート大王)が王位を継ごうとしましたが、イングランドの貴族の中には依然としてエゼルレッドに忠誠を誓う者もいました。これを受けて、エゼルレッドは再びイングランドへ戻ることを決意し、亡命から復帰することになりました。
王位復帰と最晩年
エゼルレッドは1014年にイングランドへ帰還し、王位を奪還しました。しかし、彼の復帰は決して歓迎されたものではなく、国内には依然として混乱が続いていました。クヌートはデンマークへ一時撤退しましたが、1015年には再びイングランドへの侵攻を開始し、王国の支配権を巡る戦いが再燃しました。
この時期、エゼルレッドの健康状態は悪化しており、彼自身が戦場に立つことはほとんどありませんでした。息子のエドマンド・アイアンサイズが父に代わって軍を率い、クヌートの軍と戦いましたが、戦局は不利に傾いていきました。そして1016年、エゼルレッドはロンドンで病に倒れ、同年4月23日に死去しました。彼の死後、エドマンド・アイアンサイズが新たな王となりましたが、クヌートの軍勢に抗しきれず、イングランドは最終的にデンマークの支配下に入ることとなりました。
エゼルレッド2世の遺産
エゼルレッド2世の治世は、「無策王(Æthelred the Unready)」という不名誉な異名と共に歴史に刻まれています。この「Unready」という言葉は、現代の意味での「準備不足」というよりも、古英語の「unræd(悪しき助言)」に由来し、彼が優れた統治者ではなかったことを示すものとされています。彼はヴァイキングの侵攻に対して効果的な対策を講じることができず、ダンゲルドの支払いという短絡的な対応を繰り返したため、王国の財政は逼迫し、国内の団結力は弱まっていきました。
しかしながら、彼の統治が完全な失敗だったとは言い切れません。彼は法の整備を進め、国内の秩序を維持しようと努めましたし、ノルマンディーとの関係を深めたことで、後のノルマン・コンクエストの遠因を作ったとも言えます。彼の子孫には後のイングランド王エドワード証聖王がおり、さらにノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム征服王)も彼の血統を受け継ぐことになります。
エゼルレッド2世の治世は混乱と戦争に満ちたものでしたが、それは彼自身の資質だけでなく、時代そのものが動乱の時代であったことも影響していたのです。