幼少期と家族の背景
ウィリアム2世は、ウィリアム1世(征服王ウィリアム)とその妃マティルダ・オブ・フランダースの間に生まれた息子であり、父の後を継いでイングランド王となった人物です。彼の正確な生年は不明ですが、1056年頃に生まれたと考えられています。兄にはロベール・クルートーズ(ノルマンディー公ロベール2世)、弟にはヘンリー(後のイングランド王ヘンリー1世)がいました。
ウィリアム2世は幼少期をノルマンディーで過ごしました。父ウィリアム1世はノルマンディー公であり、1066年のノルマン・コンクエストによってイングランド王となりましたが、その統治は困難を極めました。彼の家族もまた、イングランドとノルマンディーの両方に影響を与える複雑な政治的環境の中で育ちました。ウィリアム2世は特に父の影響を強く受け、戦争と政治の厳しさを幼いころから学んでいたと考えられます。
父ウィリアム1世の遺産と王位継承
1087年、ウィリアム1世が死去すると、遺言によって領土が分割されることになりました。長男ロベール・クルートーズにはノルマンディー公国が与えられ、ウィリアム2世にはイングランド王位が授けられました。これは父が長男を完全な後継者とせず、領土を分割することで兄弟間の均衡を保とうとした結果でした。しかし、これが後の対立の火種ともなりました。
ウィリアム2世は、父の腹心であったランフランク大司教の支持を得て王位に就きましたが、即位直後から兄ロベールとの間で緊張が生じました。ノルマンディーの貴族たちはロベールに忠誠を誓う者が多く、イングランド国内でもロベールを支持する反乱が発生しました。この反乱を鎮圧するためにウィリアム2世は徹底した軍事行動を取り、強力な王権を確立するために苛烈な政策を推し進めました。
初期の統治と貴族たちとの対立
ウィリアム2世の統治の特徴は、父から受け継いだ強権的な支配をより一層推し進めた点にあります。彼は厳格な徴税を行い、王権の強化を図るとともに、教会に対しても強い影響力を持とうとしました。しかし、これが貴族や聖職者たちとの軋轢を生むこととなりました。
ウィリアム2世のもとで最も影響力のあった人物の一人が、カンタベリー大司教ランフランクでした。彼はウィリアム1世の時代から国政を支えた有力者であり、ウィリアム2世の統治を助けました。しかし、1089年にランフランクが死去すると、ウィリアム2世は教会の人事を自身の意のままに操ろうとし、カンタベリー大司教の任命を遅らせました。このことは後に教会との深刻な対立を引き起こすこととなります。
ノルマンディーとの関係と戦争
ウィリアム2世は、兄ロベールが治めるノルマンディーとの関係を重視していました。1088年にノルマンディー貴族がロベールのもとで反乱を起こした際には、彼らを支援する形で介入し、ノルマンディー内の権力バランスを自らの有利な形に持ち込もうとしました。
1091年、ウィリアム2世は兄ロベールと直接対峙することとなり、両者は和平を結びました。この条約により、ウィリアム2世はノルマンディーの一部地域を支配下に置き、兄との協力関係を築くことに成功しました。しかし、この同盟は長続きせず、1094年には再び両者の対立が激化し、ウィリアム2世はノルマンディーに軍を派遣することとなりました。
スコットランドとの関係と征服
ウィリアム2世の統治において、もう一つの重要な軍事行動はスコットランドへの遠征でした。彼の父ウィリアム1世もスコットランドに対して軍事行動を行い、イングランド王の宗主権を認めさせることを目指しましたが、ウィリアム2世はこれをさらに推し進めました。
1093年、ウィリアム2世はスコットランド王マルカム3世と対立し、軍を北へと派遣しました。この遠征の結果、マルカム3世は戦死し、スコットランドの王位は不安定となりました。この混乱を利用してウィリアム2世はスコットランドへの影響力を強化し、間接的な支配を確立することに成功しました。
このように、ウィリアム2世の統治前半は軍事行動と権力の強化に費やされました。彼は父の政策を引き継ぎながらも、より攻撃的に王権を強化し、国内外での影響力を拡大していったのです。
教会との対立とアンセルムスの問題
ウィリアム2世の統治後半において、最も重要な問題の一つは教会との関係でした。前半でも述べたように、彼はランフランク大司教の死後、カンタベリー大司教の後任を任命せず、教会の統治を自身の意のままにしようとしました。しかし、1093年になってついにアンセルムスがカンタベリー大司教に任命されることとなります。
アンセルムスは敬虔な修道士であり、神学者としても名高く、教皇庁との関係を重視する人物でした。彼はローマ教皇ウルバヌス2世を支持し、王の権力に屈することなく教会の独立を守ろうとしました。しかし、ウィリアム2世はこれを快く思わず、両者の関係は緊張し続けました。アンセルムスは何度も王との対立を繰り返し、1097年にはついにイングランドを離れ、ローマへ亡命するに至りました。
この教会との対立は、ウィリアム2世の統治の中で特に特徴的なものとなり、彼の統治方針がいかに王権の強化を優先していたかを示しています。しかし、これにより国内の聖職者たちの反感を買い、彼の死後、ヘンリー1世の治世ではより協調的な政策が取られることとなりました。
ノルマンディー支配と兄ロベールとの決着
ウィリアム2世は、兄ロベールとの関係を決定的に変えるべく、ノルマンディー公国への介入を続けました。1096年、ロベールは第一回十字軍に参加するためにノルマンディーを離れました。これにより、ウィリアム2世にとっては絶好の機会が訪れました。
ロベールは資金を必要としており、ウィリアム2世は彼に大量の資金を提供する代わりに、ノルマンディー公国の統治権を事実上買い取る形を取りました。こうして、ウィリアム2世はイングランドのみならずノルマンディーの実質的な支配者となり、父ウィリアム1世が築いた領土の統一を果たしたのです。
しかし、この政策はノルマンディーの貴族たちの反発を招き、ウィリアム2世の統治に対する不満が高まりました。それでも彼は強権的な支配を維持し、ノルマンディーを徹底的に管理し続けました。
不慮の死とその影響
ウィリアム2世の生涯は突然の終焉を迎えました。1100年8月2日、彼はハンプシャーのニュー・フォレストで狩猟中に不慮の事故に遭い、ノルマン貴族ウォルター・ティレルが放った矢によって死亡しました。
この死には多くの謎が残されており、単なる事故だったのか、それとも暗殺だったのかについては今なお議論されています。彼の弟ヘンリー(後のヘンリー1世)はこの機会を逃さず、急速にイングランド王位を掌握しました。
ウィリアム2世の死によって、彼が築いた強権的な王権は崩れ、より柔軟な統治が求められることとなりました。ヘンリー1世は兄の失策を学びつつ、貴族や聖職者との協調を図る政策を取ることで、より安定した王国の運営を進めることに成功しました。