幼少期と王位継承
リチャード2世は1367年1月6日、フランスのボルドーで生まれました。父はエドワード黒太子、母はケント伯エドマンドの娘であるジョーンであり、彼はイングランド王エドワード3世の孫にあたります。幼いころから王家の一員として育てられた彼は、戦乱の中で幼少期を過ごしました。父であるエドワード黒太子は百年戦争の英雄でしたが、彼がリチャードの幼少期に病に倒れ、1376年6月8日に亡くなると、祖父であるエドワード3世は孫であるリチャードを王位継承者とする決断を下しました。しかし翌年の1377年6月21日、エドワード3世も世を去り、わずか10歳のリチャードが王位を継承することになりました。
10歳という若さで国王となったリチャード2世は、当然ながら政務を執ることはできず、摂政政府が設置されました。実際の統治はジョン・オブ・ゴーント(リチャードの叔父でランカスター公)、トマス・オブ・ウッドストック(もう一人の叔父でグロスター公)らによる摂政団によって行われました。幼いリチャードは王宮での教育を受けながら成長していきましたが、彼の即位は国内外に大きな影響を与えました。フランスでは百年戦争が継続しており、イングランド王位が不安定になることを好機と見て攻勢を強める動きがありました。また、国内では長年の戦費負担による不満が高まり、庶民の不満が爆発寸前の状態でした。
ワット・タイラーの乱とリチャードの対応
リチャード2世の治世で最も重要な出来事の一つが、1381年に起こったワット・タイラーの乱です。この反乱は、庶民が重税に苦しみ、不満が頂点に達した結果発生しました。特に人頭税の導入が反感を買い、ケントやエセックスの農民が蜂起し、瞬く間にロンドンへと進軍しました。この乱の指導者がワット・タイラーでした。
当時14歳のリチャード2世は、混乱の中で果敢にも反乱軍との交渉に臨みました。ロンドン塔で身を守ることもできましたが、彼は果敢に群衆の前に姿を現し、彼らの要求を聞き入れる姿勢を見せました。1381年6月15日、スミスフィールドでワット・タイラーと会見したリチャードは、話し合いの最中にタイラーがロンドン市長ウィリアム・ウォルワースによって斬られるという事件を目の当たりにしました。しかし、彼は機転を利かせて群衆に向かい、「私が皆の王だ」と呼びかけ、反乱軍を鎮静化させることに成功しました。
この事件はリチャード2世の政治的才能が垣間見えた瞬間でしたが、その後、王権が安定すると彼は反乱軍に対して苛烈な報復を行い、多くの農民が処刑されることになりました。この経験はリチャードの統治思想に影響を与え、彼は次第に権威主義的な統治を志向するようになりました。
初期統治と貴族との対立
リチャード2世が成人し、実権を握り始めると、彼は摂政団の干渉を排除しようとしました。特に彼の叔父であるジョン・オブ・ゴーントが影響力を持ちすぎていると感じたリチャードは、ゴーントの権力を抑えようと試みました。しかし、イングランドの貴族層はこの若き国王に対し、依然として影響力を行使しようとしました。
1386年、リチャード2世と貴族たちの対立が決定的なものとなります。王の側近であるマイケル・ド・ラ・ポールを大法官に任命したことで、貴族たちは国王の専制的な統治を警戒し始めました。彼らはリチャードに対し、側近の罷免と統治方針の転換を求めましたが、リチャードはこれを拒否しました。すると、1387年に「審判派貴族」と呼ばれる勢力が反乱を起こし、リチャードの支持者を排除しようとしました。この結果、リチャード2世は一時的に貴族たちに屈し、側近たちは追放または処刑されることとなりました。
しかし、彼はこの屈辱を忘れることはなく、10年後に復讐を果たすこととなります。
絶対王政への傾倒と政治的粛清
リチャード2世は1390年代に入ると、王権を強化し、貴族たちを抑え込もうとしました。1397年にはかつての審判派貴族に対する大粛清を実行し、グロスター公トマス・オブ・ウッドストックを逮捕して幽閉し、翌年には殺害しました。その他にもリチャードに反対する貴族たちは次々と処刑されるか、追放されることとなりました。
この時期、リチャード2世はフランスとの関係を改善しようとし、1396年にはフランス王シャルル6世の娘であるイザベル・ド・ヴァロワと結婚しました。この政略結婚により、百年戦争の一時的な休戦を実現させましたが、国内の貴族層には不満が募っていきました。
また、リチャード2世は自身の権力を絶対的なものとするため、議会を軽視し、国王の意思を絶対視する政治体制を築こうとしました。彼は王の言葉が法律そのものであるとする理念を強く押し出し、従わない者には厳しい報復を加えました。こうした姿勢は一部の貴族や庶民から恐れられる一方で、次第に孤立を深めていきました。
追放と失脚
1398年、リチャード2世は自身の王権をさらに強化するために、国内の有力貴族を追放するという大胆な決断を下しました。その対象となったのは、かつて王に忠誠を誓っていたはずのヘンリー・ボリングブルック、すなわちランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの息子でした。リチャード2世はヘンリーとノーフォーク公トマス・モウブレーとの対立を利用し、両者をともに追放する裁定を下しましたが、この決定が後に自身の破滅を招くことになります。
1399年、ジョン・オブ・ゴーントが死去すると、リチャード2世はランカスター公の広大な領地を王領に組み込み、ヘンリー・ボリングブルックの相続権を否認しました。この決定により、リチャードは国内の貴族たちの反感を買い、特にランカスター派の支持者たちは激しく反発しました。まもなく、フランスから帰国したヘンリー・ボリングブルックは反乱を起こし、支持者を集めながら国内を進軍しました。
リチャード2世は当初、この反乱を軽視していましたが、次第に形勢が不利になり、彼はアイルランド遠征から急ぎ帰国しました。しかし、既に国内ではヘンリーの勢力が圧倒的になっており、リチャードの支持者は次々と寝返りました。最終的に彼は捕えられ、ロンドンへ連行されることになりました。
廃位と投獄
ロンドンへ連行されたリチャード2世は、ヘンリー・ボリングブルックの前に引き出され、王位を放棄するよう強制されました。1399年9月、彼は正式に退位を宣言し、ヘンリー・ボリングブルックがヘンリー4世として即位しました。これによりプランタジネット朝は分裂し、ランカスター朝が成立することになりました。
リチャード2世は当初、塔に幽閉されていましたが、その後ポントフラクト城へ移送されました。幽閉生活の中で彼は自身の境遇を嘆き、多くの支持者と連絡を取ろうとしましたが、既に彼を救い出す勢力は残っていませんでした。彼の存在はヘンリー4世にとって常に危険因子となり、反乱の口実とされる可能性がありました。そのため、王位から退いた翌年の1400年2月、リチャード2世は獄中で死亡しました。死因は明確ではなく、飢餓による衰弱死とも、暗殺されたとも言われています。
リチャード2世の遺産
リチャード2世の治世は、絶対王政への傾倒と貴族との対立が特徴的でした。彼は王権の強化を図り、個人のカリスマをもって統治しようとしましたが、貴族たちとの協力関係を築けなかったことで孤立を深め、最終的に王位を追われました。彼の政治スタイルは後のイングランド王政にも影響を与え、特にテューダー朝の王たちによる中央集権化の流れの先駆けともなりました。
また、彼の生涯はシェイクスピアの戯曲『リチャード二世』として文学作品にも昇華され、王権とは何か、正統な統治とは何かを問う重要なテーマとして後世に語り継がれています。彼の失脚は単なる政変ではなく、イングランド史における王権の変遷を象徴する出来事の一つであったと言えるでしょう。
リチャード2世の死後、その遺体はヨークシャーのキングス・ラングレーに埋葬されましたが、後にヘンリー5世の命によってウェストミンスター寺院に改葬されました。