「シュメール人」とは、古代メソポタミア南部(現在のイラク南部、チグリス・ユーフラテス川下流域)に最古級の都市文明を築いた人びとのことです。世界史では、しばしば「人類最古の文明」と紹介されることがあり、ウル・ウルク・ラガシュなどの都市国家をつくり、楔形文字(くさびがたもじ)の原型となる文字や、神殿を中心とした宗教・政治の仕組み、灌漑農業にもとづく高度な社会を発達させました。紀元前4千年紀後半から前3千年紀にかけて栄え、のちのバビロニアやアッシリアなど、メソポタミア文明全体の「基礎」をつくった存在だと考えられています。
シュメール人の正確な起源は、現在でも完全には分かっていません。周辺のセム系諸民族(アッカド人など)とは言語系統が異なるシュメール語を話していたとされ、その文化には独自性があります。彼らは多数の都市国家を建設し、それぞれの都市に守護神と王(もしくは支配者)をいただき、互いに競争や同盟、戦争を繰り返しながら、文字・法・神話・技術など、後世に大きな影響を与える多くの要素を生み出しました。
世界史の学習において「シュメール人」という言葉に出会うとき、多くの場合、「最初期の都市文明を築いた民族」「楔形文字やジッグラト(聖塔)をつくった人びと」「後のメソポタミア諸王国の文化的源流」といったイメージとともに語られます。この解説では、まずシュメール人がどのような地域・時代に、どのような社会を築いていたのかを整理します。つぎに、都市と政治・宗教の仕組み、文字や法律・神話といった文化面の特徴を取り上げ、最後に、他の民族との関係とシュメール人のその後、そして後世への影響について見ていきます。概要だけでおおよそのイメージが持てるようにしつつ、詳しく知りたい人は各見出しを読み進めることで、シュメール文明の具体像をより深くつかめる構成にします。
シュメール人が活躍した地域と時代
シュメール人が文明を築いた舞台は、メソポタミア南部、すなわちチグリス川とユーフラテス川がペルシャ湾に向かって流れ込む下流域の平野です。この地域は、降水量こそ少ないものの、大河が運ぶ肥沃な土壌にめぐまれており、灌漑(水路による水の供給)を行うことで、大規模な農業生産が可能でした。いわゆる「肥沃な三日月地帯」の一部にあたり、人類文明の初期段階から重要な地域として発展します。
考古学的には、紀元前4千年紀の終わり頃(前3500年ごろ)から、ウルク期と呼ばれる段階に、都市的な集落や神殿建築、文字の萌芽が見られるようになります。シュメール人という名称は、古代メソポタミアの史料中で「シュメール(シュメール語でキエンギ、アッカド語でシュメール)」と呼ばれた地域と、その地域に住む人びとを指しますが、民族的な起源や到来のルートについては、現在もさまざまな説があり、確定していません。
シュメール人が本格的に歴史の表舞台に現れるのは、紀元前3千年紀前半から中頃にかけてとされます。この時期、ウル、ウルク、ラガシュ、ウンマ、エリドゥ、ニップルなど、多数の都市国家がメソポタミア南部に林立し、それぞれに独自の統治者や守護神、神殿をかかえていました。これらの都市は互いに交易や戦争を行い、時に一都市が他の都市を支配して「覇権都市」となることもありました。
シュメール人の文明は、のちにアッカド人(セム系の民族)の進出を受けて大きな変化を迎えます。紀元前24世紀ごろ、サルゴン王によるアッカド王国がメソポタミア全域を支配し、シュメールの諸都市もその支配下に入ります。しかし、その後もシュメール語やシュメールの宗教・神話・行政文化は強い影響力を保ち続け、アッカド人との混淆を通じて「シュメール・アッカド文化」とも呼ばれる複合的な文明として発展していきました。
最終的に、シュメール語を第一言語として話す集団は歴史の中から姿を消していきますが、シュメール語自体は宗教・学問の言語として長く残り、バビロニアやアッシリアの神殿・学者たちによって学ばれ続けました。つまり、「シュメール人」は政治的な主体としてはやがて消えるものの、その文化と知識はメソポタミアの後続王国に受け継がれたと言えます。
都市国家と宗教・政治のしくみ
シュメール人社会の大きな特徴は、「都市国家(シティ=ステート)」を基本単位とする政治構造です。各都市はそれぞれ城壁に囲まれ、その周囲の農地・村落を支配する小さな国家のような存在でした。都市には中心となる神殿(ジッグラトを含む複合施設)が建てられ、その都市の守護神が主に祀られました。シュメール人にとって、都市の繁栄は守護神の力と庇護の証であり、宗教と政治は密接に結びついていました。
最初期には、都市を統治する役割を担う人物は「エン(祭司王)」や「エンシ(統治者)」と呼ばれ、神官的性格と政治的性格を合わせ持っていたと考えられています。やがて戦争が頻発するようになると、軍事指導者としての「ルガル(大いなる人=王)」の権限が強まり、世襲的な王権が発達していきます。とはいえ、王の権威は絶対ではなく、神々の意志を代行する存在と位置づけられ、神殿組織とのバランスをとりながら統治が行われていました。
神殿は、宗教施設であると同時に、経済の中心でもありました。農民や牧畜民が神殿に穀物や家畜を納め、神殿はそれを管理・再分配することで、都市全体の生活を支える役割を果たしました。神殿には土地と労働力が属し、職人や書記、神官など多様な人びとが働いていました。このような「神殿経済」は、灌漑施設の維持管理や豊作祈願の儀礼、祭礼など、都市の社会生活全般を支える基盤となっていました。
また、シュメールの都市国家どうしは、互いに同盟を結んだり、戦争を仕掛けたりしながら、勢力争いを繰り広げました。ラガシュとウンマのように、灌漑水利権や境界をめぐって長期にわたる紛争を続けた例も知られています。ある都市の王が周辺都市を征服し、一時的に「全シュメールの覇権」を握ることもありましたが、その支配は通常長続きせず、再び複数の都市国家が並立する状態に戻ることが多かったと考えられています。
宗教面では、多神教が基本であり、天空神アヌ、嵐と農業・王権の神エンリル、知恵の神エンキ、愛と戦いの女神イナンナ(アッカド語ではイシュタル)など、多くの神々が信仰されました。各都市は特定の神を守護神としてあがめ、その神に捧げる祭りや儀礼が、都市のアイデンティティと結びついていました。シュメールの神話や叙事詩は、後のバビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』などへ受け継がれ、人間の死や永遠、洪水伝説など、普遍的なテーマを語り継いでいきます。
文字・法律・文化面での特色
シュメール人の最大の遺産の一つが、「文字の発明」とそれにもとづく記録文化です。最初期の文字は、粘土板の上に棒状の筆で刻まれた絵文字的な記号でしたが、やがて線が簡略化され、くさび形の刻みを組み合わせて表現する「楔形文字」へと発展しました。当初は、穀物や家畜の出納記録・取引・税の徴収など、経済的用途が中心でしたが、次第に王碑文や法律文書、神話・文学作品など、多様なジャンルが記録されるようになりました。
文字の発達にともない、「書記」と呼ばれる専門職も生まれました。書記は神殿や宮殿に所属し、粘土板に文字を刻んで記録を残します。読み書きを身につけるには、多くの時間と訓練が必要であり、書記は高度な教養を持つエリート層の一部を構成していました。シュメール語はやがてアッカド語に主役の座を譲りますが、楔形文字自体は表音的な用法も取り入れつつ、千年以上にわたってメソポタミア世界全体で使われ続けます。
法律の面でも、シュメール人の都市国家は早くから「法典」のような形でルールを文章化し、可視化しようとしました。よく知られているのは、後のバビロニアのハンムラビ法典ですが、それ以前にラガシュの王ウルナンムや、イシンの王リピト=イシュタルなどが法典を編纂しており、その背景にはシュメール的な法と正義の観念が存在していたと考えられます。これらの法典では、財産権・婚姻・身分・罪と罰などが規定されており、都市社会の秩序維持に寄与しました。
文学・神話の領域では、『ギルガメシュ叙事詩』の原型となる英雄物語や、天地創造、洪水伝説、神々の系譜を語る神話が粘土板に記録されました。ギルガメシュはウルクの王として描かれ、不死を求める旅の末に「人間は死ぬ存在であり、名と都市を通じて永遠に残る」という境地に至る物語として知られています。こうした物語は、後のオリエント世界や聖書の伝承にも影響を与えた可能性が指摘されています。
技術・学問の面では、シュメール人は灌漑技術や建築技術に加え、暦や数学にも貢献しました。彼らは60進法を用いる数の体系を採用し、これが今日の「1分=60秒」「1時間=60分」「円は360度」といった慣習のルーツになったとされます。また、農業や宗教儀礼に関連して天体の観測も行われ、後のメソポタミア天文学の基礎が形づくられました。
他民族との関係とその後の影響
シュメール人は、メソポタミアにおける「最初の文明」としてしばしば語られますが、決して孤立した存在ではありませんでした。北方のセム系アッカド人や、さらに西方・東方に住む民族との交易・戦争・文化交流を通じて、常に他者と接触しながら歴史を歩んでいます。その中でも、とくに重要なのがアッカド人との関係です。
紀元前24世紀ごろ、アッカド人の王サルゴンが台頭し、メソポタミア全域を支配するアッカド王国を築きました。このとき、シュメールの諸都市も征服されますが、アッカド王国の文化はシュメール文化を多く取り入れたものであり、シュメール語とアッカド語は長期にわたって併用されました。王たちは自分を「シュメールとアッカドの王」と称し、シュメールの宗教・神話・行政慣行を継承しながら新たな帝国意識を形成していきます。
アッカド王国が崩壊した後、ウル第3王朝など、シュメール系の王朝が再び南メソポタミアに登場し、一時的に政治的な主導権を回復します。しかし、やがてアムル人(西方セム系)など新たな民族集団がメソポタミアに定住し、バビロンを中心とするバビロニア王国が台頭してくると、シュメール語を母語とする人びとの比率は低下し、歴史の表舞台からは退いていきました。
それでも、シュメールの文化的遺産は、メソポタミア文明全体に深く刻み込まれました。楔形文字の書記体系、神々の体系や神話、都市と神殿の構造、法典の伝統、暦や数学の基礎など、多くの要素がバビロニアやアッシリア、さらにペルシアやヘレニズム期を通じて受け継がれました。特に学問や宗教の場では、シュメール語の文書が古典として読み継がれ、書記学校で学ばれる対象となっていました。
近代において、シュメール人の存在が本格的に明らかになったのは、19世紀以降の考古学発掘と楔形文字解読の進展によってです。それ以前のヨーロッパでは、「バビロン」や「アッシリア」といった名前は聖書などを通じて知られていましたが、そのさらに前段階に「シュメール」という文明があったことは、ほとんど意識されていませんでした。発掘された粘土板の文書や都市遺跡から、シュメール人が高度な都市社会や宗教・文学を持っていたことが明らかになり、「文明の起源」に関する理解は大きく書き換えられることになります。
世界史で「シュメール人」という言葉に出会ったときには、紀元前4〜3千年紀のメソポタミア南部で、多数の都市国家をつくり、楔形文字や神殿都市文化を発展させた人びとだ、というイメージを持っておくとよいでしょう。そのうえで、彼らの社会が灌漑農業と神殿経済を基盤とし、多神教的な宗教や都市ごとの守護神信仰を中心に営まれていたこと、そしてその文化がアッカド人・バビロニア人など後続の民族を通じて、長くメソポタミア文明全体に影響を与えたことを意識しておくと、古代オリエント世界の全体像がより立体的に見えてきます。

