アイユーブ朝 – 世界史用語集

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成立の背景とサラーフッディーンの登場

アイユーブ朝(Ayyūbid dynasty)は、12世紀後半にエジプトおよびシリアを中心として成立したスンナ派イスラーム王朝です。その起源は、クルド系の軍人であったサラーフッディーン(西欧ではサラディンとして知られる)にさかのぼります。彼は1137年にクルド人の家庭に生まれ、若くしてザンギー朝の下で軍事経験を積みました。サラーフッディーンの叔父であるシールクーフは、ザンギー朝の有力武将であり、彼と共にエジプトに派遣されたことが、アイユーブ朝成立の直接的な契機となりました。

当時のエジプトはファーティマ朝の支配下にありましたが、王朝は衰退しており、宰相職をめぐる争いが続いていました。シールクーフがエジプトの宰相に任命された後、その急死によってサラーフッディーンが後継の地位につきました。彼は当初、若年で経験不足と見られていましたが、着実に権力を掌握し、1171年にはファーティマ朝のシーア派カリフを廃して、アッバース朝カリフへの忠誠を宣言しました。これにより、アイユーブ朝がエジプトを拠点として成立し、スンナ派イスラーム世界の正統的権威としての立場を確立しました。

アイユーブ朝の領土拡大と十字軍との抗争

アイユーブ朝の最大の特徴は、十字軍との抗争における中心的な役割です。サラーフッディーンはエジプトの安定化を進めた後、シリア方面へ進出し、1174年にはダマスクスを掌握しました。以後、シリア・イラク・アラビア半島の一部にまで勢力を広げ、広大な領域を支配しました。彼は軍事的才能だけでなく、外交術や寛容さでも知られ、イスラーム世界の統一を進めるとともに、対十字軍戦争を指導しました。

特に有名なのは1187年のヒッティーンの戦いです。この戦いでサラーフッディーンはエルサレム王国を破り、その結果として同年10月にはエルサレムを奪還しました。この出来事はキリスト教世界に大きな衝撃を与え、第3回十字軍(1189-1192)を招くことになります。リチャード1世(獅子心王)との抗争は中世史上でも最も劇的な出来事の一つとされ、両者の戦いは時に激しく、時に互いの勇猛さを尊重するものでもありました。最終的にサラーフッディーンはエルサレムを保持しつつ、キリスト教徒の巡礼を認めるなど、寛容な政策をとりました。

政治体制と行政制度

アイユーブ朝は、サラーフッディーン一族による分権的な支配体制を特徴としています。王朝の領土は広大であり、サラーフッディーンの死後は息子たちや兄弟、甥たちに分割されました。これは内紛の原因となる一方、各地でアイユーブ家の分枝が勢力を維持することにもつながりました。カイロ、ダマスクス、アレッポ、イエメンなどの都市がそれぞれ一族によって治められ、互いに連携と競合を繰り返しました。

行政面では、軍人に土地からの収益を与えて軍役を義務づけるイクター制が整備され、軍事力の維持と地方統治が両立されました。また、アッバース朝カリフとの形式的な関係を保ち、宗教的正統性を確保することで、スンナ派世界における求心力を維持しました。サラーフッディーン自身は教育や学問の振興にも努め、マドラサ(学院)や病院の建設を推進し、イスラーム文化の発展に大きく寄与しました。

文化と宗教政策

アイユーブ朝の時代は、スンナ派イスラームの再興期とも位置づけられます。ファーティマ朝による長年のシーア派支配を終わらせた後、サラーフッディーンはスンナ派の信仰を広めるためにマドラサを各地に設立し、シャーフィイー派やハナフィー派など正統法学派の教育を奨励しました。これにより、学問の復興と宗教的一体感が進展しました。

また、アイユーブ朝時代の建築はエジプトやシリアに多くの遺産を残しています。カイロに建設されたサラーフッディーンの城塞(シタデル)は特に有名で、軍事的要塞であると同時に王権の象徴として機能しました。このほか、モスクや学院、霊廟などが数多く建てられ、後世のマムルーク朝建築の基盤ともなりました。

宗教政策の面では、非ムスリムに対して一定の保護を与え、キリスト教徒やユダヤ教徒も比較的安定した生活を営むことができました。これはサラーフッディーンの寛容さと現実的な統治方針の現れであり、同時に多民族・多宗教的な社会構造を持つエジプトやシリアを円滑に支配するための方策でもありました。

衰退とマムルーク朝への移行

サラーフッディーンの死後(1193年)、アイユーブ朝は分権的な性格を強め、各地の一族が独立性を高めました。これにより、内紛や権力争いが絶えず、統一的な強力支配は次第に困難となりました。十字軍やモンゴル帝国の侵攻が続いたことも、王朝の弱体化に拍車をかけました。

特に13世紀半ばには、フランス王ルイ9世による第7回十字軍がエジプトに侵攻しました。このとき、アイユーブ朝の軍事力はマムルークと呼ばれる奴隷出身の騎士団に大きく依存していました。やがてマムルークたちは自らの力を背景に権力を握り、1250年にはアイユーブ朝最後のスルタン、トゥーラン・シャーがマムルーク軍によって打倒されました。こうしてアイユーブ朝は滅亡し、エジプトにはマムルーク朝が成立しました。

歴史的意義と評価

アイユーブ朝はわずか80年余りの短命王朝でしたが、その歴史的意義は極めて大きいものがあります。第一に、イスラーム世界においてシーア派ファーティマ朝を終焉させ、スンナ派正統主義を再建したことは長期的に重要でした。第二に、サラーフッディーンの名は「十字軍に勝利した英雄」としてイスラーム世界で称えられ、同時に西欧世界でも「高潔な敵」として尊敬を集めました。この二面的評価は、彼の政治的・軍事的才能と人格的魅力を物語っています。

また、アイユーブ朝はその後のマムルーク朝やオスマン帝国にも影響を与えました。軍事制度や宗教政策、建築様式などの面で多くの遺産を残し、エジプトとシリアを中心とする地域の歴史的な発展に大きな役割を果たしました。今日においても、サラーフッディーンはイスラーム世界の英雄として語り継がれ、アイユーブ朝は中世の大きな転換点を示す王朝として記憶されています。