概要
アムリットサール事件(Jallianwala Bagh massacre/アムリットサール虐殺)とは、1919年4月13日、英領インドのパンジャーブ州アムリットサールで、将校レジナルド・ダイヤー(Reginald Dyer)率いる英印軍部隊が民衆集会に対して無警告に銃撃を加え、多数の死傷者を出した出来事を指します。会場は町外れの市民広場「ジャリアーンワーラー・バーグ」で、春祭りヴァイサーキー(バイサーキ、収穫祭)の日と重なって多くの市民が集まっていました。英国当局の公式発表は死亡約379名・負傷千余名でしたが、インド側の調査では千名以上の死者が出たとされ、犠牲者数には大きな開きがあります。事件はインド民族運動の転換点となり、帝国支配に対する信頼を決定的に損ない、ガンディーの非協力運動(1920–22)へ向かう世論の形成に強い影響を与えました。
本項では、①事件に至る背景、②当日の経過、③調査と反響、④歴史的意義と記憶、の順に整理し、歴史用語として理解するうえでの着眼点を提示します。
背景—戦後不安とローラット法、パンジャーブの緊張
第一次世界大戦(1914–18)でインドは兵員・物資の供出を通じ帝国戦争を支えましたが、戦後の見返りとしての自治拡大への期待は、物価高騰・失業・インフルエンザ流行の打撃とともに不満へと反転しました。政府は1919年3月、戦時非常法の一部を平時に延長するローラット法(Rowlatt Act)を制定し、令状なき拘禁・報道規制などを可能にしました。これに対し、マハトマ・ガンディーは全国規模のハルタール(商取引停止・断食・祈祷)を呼びかけ、各地で抗議集会が広がります。
パンジャーブでは緊張がとりわけ高まりました。アムリットサールでは1919年4月上旬、政治指導者の逮捕・追放に抗議する群衆の一部が暴徒化し、ヨーロッパ人の死傷や施設破壊が発生しました。州の副総督にあたるルテナント・ガヴァナーのマイケル・オドワイヤー(Michael O’Dwyer)は厳戒態勢を指示し、アムリットサール周辺に戒厳に準じた統制を敷きます。4月13日、町には大規模集会禁止令が出されていましたが、春の大祭ヴァイサーキーと重なったこともあり、情報が行き届かない市民が広場に集まりました。
「法秩序の回復」を掲げる当局は、見せしめ的懲罰をもって民衆を抑え込もうとする傾向を強め、地元当局と英印軍の間で強硬策が追認される空気が形成されていきました。こうした緊張の蓄積が、のちの悲劇的決定を準備していたのです。
当日の経過—閉ざされた広場、無警告の一斉射撃
事件の現場ジャリアーンワーラー・バーグは、周囲を高い塀と家並みで囲まれ、出入り口の狭い路地が数か所に限られる、半ば囲い込まれた空き地でした。1919年4月13日夕刻、ダイヤー中佐はグルカ兵・バルーチ兵など約50名を率いてこの広場に進入し、群衆に対して解散警告や退避の時間を与えないまま射撃を命じました。部隊は密集する人々の最も混み合った箇所に照準を合わせ、弾薬が尽きる直前まで発砲を続けたとされます。公式記録では数百名が即死・重傷を負い、逃げ場のない人々が壁に押しつけられ、あるいは中央の井戸(「殉教者の井戸」と呼ばれる)に飛び込んで命を落としました。
銃撃は10分前後続き、発射弾数は千数百発に達したと伝えられます。広場の形状と出口の少なさ、夕刻の混雑、祭りの日という事情が重なり、犠牲は甚大になりました。ダイヤーは救護や搬送を禁じ、夜間まで負傷者が放置される事態を招きます。事件後、アムリットサールと周辺では公開鞭打ちや、女性襲撃事件の起きた路地での屈辱的な「匍匐通行(crawling order)」といった懲罰が科され、軍政の苛酷さが人々の憤激をさらに高めました。
なお、ダイヤーは装甲車を伴って現場近くまで進んだものの路地の幅が狭く持ち込めなかったこと、また集会禁止令を口実に「反乱の芽を摘む」意図で発砲を命じたことをのちに証言しています。彼の意思は「群衆に道徳的影響を与えるための強打」であり、殺傷そのものを手段として用いたことが、帝国統治の正統性を根底から揺るがしました。
調査・反響—ハンター委員会、国際世論、抵抗の拡大
事件は直ちに国内外で大問題となりました。英政府は「パンジャーブにおける治安回復措置」を審査するハンター委員会(Hunter Commission)を設置し、ダイヤーや関係者を召喚して聴聞を行いました。委員会は、無警告の射撃、救護の禁止、懲罰の過剰性などを厳しく非難し、ダイヤーを更迭・退役処分としました。一方で、パンジャーブ統治の責任者オドワイヤーの政治責任は曖昧にされ、帝国議会と世論では「秩序維持か人命尊重か」をめぐる激しい論争が続きます。英国の一部保守紙はダイヤーを擁護し、募金で彼を顕彰する運動さえ起きました。
インドでは、ラビンドラナート・タゴールが英国から授与されたナイトの称号を返上して抗議し、詩文で道義的糾弾を表明しました。ガンディーは、それまでの限定的協力の可能性に見切りをつけ、帝国制度の内側での改革から非協力・不服従を軸とする運動へと舵を切ります。インド国民会議派は独自調査で犠牲者数の多さと軍政の苛烈さを報告し、都市・農村を横断する抗英感情の高まりを背景に、1920年から非協力運動を全国化しました。
長期的反響としては、1940年にパンジャーブ出身のウダム・シンがロンドンでオドワイヤーを射殺し、事件の記憶が抗議と復讐の連鎖を生むこともありました。独立後、現場は記念公園として整備され、慰霊碑と資料館が建てられ、毎年多くの人々が追悼に訪れます。事件は、帝国統治の矛盾と暴力を象徴する教材として、インド国内外の歴史教育で扱われ続けています。
歴史的意義と学習の要点—「帝国の正統性崩壊」の瞬間
アムリットサール事件の核心は、国家が平時において無防備な民衆に致死的暴力を行使したという点にあります。ローラット法に象徴される「治安の名のもとの統制強化」と、現場指揮官の「示威的懲罰」という二つの軸が重なり、法の統治が武力の統治へと転落しました。結果として、英領インドにおける「公平で正しい統治」という自己像は信用を失い、民衆は帝国から距離を取り、自治・独立への意志を固めていきました。
学習上のポイントは、①日時・場所・主要人物(1919年4月13日/アムリットサールのジャリアーンワーラー・バーグ/ダイヤー、オドワイヤー)、②背景(第一次大戦後の不満、ローラット法、パンジャーブの緊張と集会禁止)、③当日の状況(囲われた広場、出口の少なさ、無警告射撃、井戸への転落)、④犠牲者数の乖離(英当局の公式値とインド側推計の差)、⑤処分と反響(ハンター委員会、タゴールの抗議、ガンディーの非協力運動への転換)、⑥記憶と追悼(記念公園、文学・映画・教科書での位置づけ)を押さえることです。
事件はまた、植民地統治における「法」と「例外」の問題、非常権限と人権、公共空間の管理、群衆心理と治安の関係など、現代にも通じる論点を含みます。特に、情報の遮断や禁止令の不徹底が、無辜の市民の集まりと政治集会を区別できない状況を招き、最悪の意思決定につながった点は、統治の教訓として重要です。
総括すると、アムリットサール事件は、単なる一地方の暴発ではなく、帝国支配の構造的矛盾が臨界を迎えた象徴的瞬間でした。犠牲者を悼むとともに、国家と市民の関係、治安と自由の均衡、統治の倫理を問い直す史実として、今なお私たちに多くを語りかけています。用語として学ぶ際は、数字の大小の論争にとどまらず、背景・意思決定・反響・記憶の全体像を読み解くことが理解を深める近道です。

