アルビジョワ十字軍(1209–1229頃)は、南仏オクシタニア(ラングドック)に広がったカタリ派(「アルビ派」)の異端弾圧を名目に、教皇権・北仏貴族・のちにはフランス王権が軍事介入し、トゥールーズ伯を中心とする地域秩序を再編した一連の戦争です。発端は1208年、教皇インノケンティウス3世の使節ピエール・ド・カステルノーの殺害事件に対する聖戦招集で、翌1209年に十字軍が蜂起しました。前半は北仏騎士を束ねたシモン・ド・モンフォールの苛烈な攻略(ベジエ、カルカソンヌ、ミネルヴ、ラヴールなど)が続き、後半はアラゴン王の介入と王権(ルイ8世→摂政ブランシュ・ド・カスティーユ)の参戦を経て、1229年メオー=パリ条約で政治決着に至りました。その後もカタリ派残党の根絶は続き、1244年モンセギュールの陥落・集団火刑、1255年ケリビュスの陥落をもって軍事段階はほぼ終息しました。結果として、南仏はカペー朝王権の制度的枠内に組み込まれ、異端審問(主にドミニコ会)の常設化、大学トゥールーズ設置、都市特権・言語文化(オック語圏)の変容など、宗教・政治・社会の広範な再編が進みました。
背景と異端:オクシタニア社会とカタリ派の性格
十字軍の舞台となったオクシタニアは、言語文化(オック語)と都市商業、トゥールーズ伯・トランカヴェル家・フォワ伯など諸侯の権力が交錯する多元的な世界でした。地中海交易や詩人トルバドゥールの宮廷文化が栄え、都市自治や寛容な宗教空気が比較的強い地域だったとされます。12世紀末には、教会の富と聖職者の腐敗を糾弾し、霊的純化を求める運動が拡大し、ワルド派などとともにカタリ派(二元論的傾向をもつ敬虔運動)が人気を博しました。
カタリ派(カタール派とも表記)は、霊と物質を対置する二元論、禁欲的倫理、サクラメントの否定(教会の聖礼を救済に不可欠とはみなさない)、唯一の儀礼「コンソラメントゥム」(按手による聖霊の授与)などを特徴とし、共同体の核には禁肉・禁性を守る「完徳者(パルフェ/ペルフェクティ)」がいました。その説教は都市・農村に浸透し、在来の聖職者と衝突します。インノケンティウス3世は当初、説教師(ドミニコ=後の聖ドミニコ)を派遣して平和的改宗を試みますが、成果は限定的でした。
教皇使節カステルノーの殺害(1208)は、宗教的秩序への挑戦と受け止められ、教皇はラテラノ以前の諭告を強めて武力十字軍の布告へ踏み切りました。十字標を負うことにより、参加者は対外の東方巡礼に準ずる免罪や恩典を享受でき、北仏貴族の南進動機(恩寵・領地獲得)が宗教的大義と接合します。
前半戦(1209–1218):ベジエからトゥールーズ攻防へ
1209年7月、十字軍はオード川流域へ進入し、ベジエで住民大量虐殺が発生しました(住民の多くはカトリックであったにもかかわらず、区別なく殺されたと伝えられます)。続くカルカソンヌは水不足に屈して降伏し、若き領主レイモン・ロジェ・トランカヴェルは捕らえられます。以後、十字軍の総帥的地位に就いたシモン・ド・モンフォールは、ミネルヴ(1210)、ラヴール(1211)などの城邑を攻略して異端者の処刑を敢行し、北仏騎士たちの間に軍事的威信を築きました。
一方、トゥールーズ伯レイモン6世は一度は破門を解かれたものの、十字軍への協力を拒み続け、地域社会は抵抗と妥協の間で揺れます。アラゴン王ペドロ2世は宗主・保護者として南仏諸侯を支援し、1213年、ムーレの戦いで十字軍と激突しますが、アラゴン軍は敗北しペドロ2世は戦死しました。この敗北は、十字軍側の優位とモンフォールの領有を決定付け、1215年の第4ラテラノ公会議では、モンフォールへの諸領の安堵が承認されました。
しかし、占領は安定せず、市民と在地貴族の粘り強い抵抗に直面します。1216年、レイモン6世の子レイモン7世が帰還して反攻を開始、1217年にトゥールーズ奪回に成功します。1218年、包囲戦の最中にモンフォールは投石機の石に当たり戦死し、十字軍の指導力は低下しました。こうして前半戦は、苛烈な制圧と反乱・奪回の往復運動として終盤を迎えます。
後半戦と政治決着(1218–1244/1255):王権の参戦、条約、異端審問
モンフォールの死後、彼の子アモーリーは地歩を保てず、フランス王権の支援を要請します。王権側は南進の機会を捉え、1226年、ルイ8世が十字軍を率いて南仏へ侵入、要地を次々に占領します。翌1227年に王が没すると、摂政ブランシュ・ド・カスティーユ(ルイ9世の母)が政策を継承し、外交・軍事の圧力でトゥールーズ伯家を屈服へ導きました。
1229年、メオー=パリ条約(またはパリ条約)が締結され、レイモン7世は広範な領地割譲、巨額の賠償、城砦破却、そして教会改革の受け入れを約束しました。さらに、伯女ジャンヌを王弟ポワティエ伯アルフォンスに嫁がせる婚姻条項が設けられ、相続ののち伯領は王家へ帰属する仕組みが埋め込まれます(実際にアルフォンス夫妻の死後、1271年に王領化)。
宗教政策では、司教座による臨時の取り締まりを越え、1230年代に教皇グレゴリウス9世のもとで異端審問(インクィジション)が制度化され、主としてドミニコ会が担当しました。1229年トゥールーズ教会会議は、俗人による俗語聖書所持の制限などを定め、大学トゥールーズの設立は神学教育と正統信仰の普及を担いました。抵抗はなお続き、カタリ派の山城モンセギュールは1243–44年の包囲の末に陥落し、多数の完徳者が火刑に処されました。1255年、ピレネー東端のケリビュスも降伏し、軍事的段階は収束します。
影響・評価・学習の要点:南仏の編入と記憶の政治
アルビジョワ十字軍の帰結は、第一に王権の領域拡大です。カルカソンヌ・ベジエ周辺は早期に王領化され、ボケール/カルカソンヌのセネシャル(代官区)など王国行政が定着しました。トゥールーズ伯領も婚姻相続を経て王領へ編入され、南仏の自治的秩序は大きく変容しました。第二に、宗教秩序の再編です。異端審問・教区再編・大学設置・説教修道会(ドミニコ会・フランシスコ会)の活動によって、地域社会の信仰と知が中央の規範に接続されました。第三に、文化的影響です。トルバドゥールの宮廷文化は衰退し、オック語圏の自律的な都市文化は王領制度・教会規律と折り合いをつけ直す過程に入りました。
他方、十字軍の苛烈さは、南仏側の記憶に深い傷を残しました。ベジエでの無差別殺害、ラヴールでの処刑、都市の略奪は、宗教的正統化の下での暴力の極端な事例としてしばしば語られます。現代史学では、カタリ派を「統一的教会」とみなす図式への慎重さ(多様な群像としての再評価)や、十字軍を「国内十字軍」=領域国家形成の手段として捉える視点が強まっています。聖戦・異端・王権拡張の三つ巴が、結果としてフランス国家の南への統合を促進したという理解です。
用語上の注意として、①「アルビジョワ」は都市アルビ(Albi)に由来する慣用名で、実際にはトゥールーズ伯領と沿岸の広域が戦場であったこと、②「カタリ派」の教義は地域や時期で差があり、二元論の強弱や儀礼実践にも幅があること、③戦役の終期は政治決着の1229年と、武力掃討の1244/1255年を区別して叙述すること、④モンフォール父(シモン)と子(アモーリー)を混同しないこと、を押さえると理解が安定します。
学習の骨組みは、〈1208使節殺害→十字軍招集〉→〈1209ベジエ・カルカソンヌ〉→〈1210–11ミネルヴ・ラヴール〉→〈1213ムーレ(アラゴン王戦死)〉→〈1215第4ラテラノ・モンフォール安堵〉→〈1217–18トゥールーズ反攻・モンフォール戦死〉→〈1226王権参戦〉→〈1229メオー=パリ条約・大学設立〉→〈1230年代異端審問の制度化〉→〈1244モンセギュール〉→〈1255ケリビュス〉、という年表を軸に、宗教・政治・社会文化の三層を横断して具体例を添えることです。アルビジョワ十字軍は、単なる異端弾圧を越えて、ヨーロッパ中世後期の権威再編と国家形成を読み解く鍵となる出来事です。

