アルフレッド大王 – 世界史用語集

アルフレッド大王(Alfred the Great, 在位871–899)は、9世紀イングランド南部の王国ウェセックスを率い、激しいヴァイキング侵入の時代に王国を立て直して「アングロ・サクソン人の王」の基盤を築いた君主です。878年のエディントンの戦いでデーン人首長グスルムに決定的勝利を収め、のちの「デーンロウ」との境界を確立しました。軍事・財政・法制・教育を同時に改革し、さらに古英語による翻訳事業と年代記の整備で学知を普及させた点が特徴です。彼の息子エドワード長兄と娘エセルフレド(マーシアの貴婦人)は、この土台の上に英領の再征服を進め、やがて「イングランド王国」へと統合が進みます。アルフレッドは武の勝利者であると同時に、制度と文化を設計した建設者として記憶されています。

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出自・即位とヴァイキング戦争:エセルレッドの後継、アセルニーの潜伏からエディントンへ

アルフレッドはウェセックス王エセルウルフの末子として生まれ、幼少時にローマを巡礼するなど、宗教的教養と王家の儀礼に早くから触れました。兄たち(エセルバルド、エセルベアト、エセルレッド1世)が相次いで王位に就くなか、アルフレッドは共同統治者として軍務に携わり、870–871年にかけて大異教徒軍(グレート・ヒースン・アーミー)と呼ばれるデーン人連合軍との一連の戦闘に臨みます。871年、兄エセルレッドの死を受けて王位を継承しましたが、即位直後から苦しい防衛戦が続きました。

878年の冬、ヴァイキング側の奇襲によりウェセックスの多くが制圧され、アルフレッドはサマセットの湿地帯アセルニー(アセルニ―)に拠点を退いて抵抗を続けました。この危機で在地の自由民・貴族が再結集し、春には軍を整えて進軍します。エディントンの戦い(878)でアルフレッドは決定的勝利を収め、指導者グスルムに洗礼と退去を受け入れさせました。グスルムは洗礼名エセルスタンを与えられ、その後の講和(一般にウェドモアの和約と呼ばれる)によって、東部のデーン支配地とウェセックスの境界、捕虜・財貨の返還などが取り決められます。これが、のちに「デーンロウ」と総称される北東部の法域形成の出発点になりました。

アルフレッドは続いてロンドン再占領(886)に関与し、交易と防衛の拠点を南方王権に回収しました。これに伴い、彼はしばしば「アングロ・サクソン人の王(rex Angul-Saxonum)」と称され、ウェセックス王権が他の英諸王国の上位に立つ構図が明瞭化します。その後も893–896年には新たな侵攻に直面しますが、組織だった防衛網と艦隊の整備でこれを撃退し、治世末まで王国の存続を確保しました。

再建と制度改革:バー網・軍制・海軍・貨幣・法典の整備

軍事面で最も画期的だったのは、ウェセックス各地に配置されたバー(burh)=城塞都市網の構築です。主要街道や河川を押さえる地点に土塁・堀・木柵を築き、常備の守備隊と補給体制を敷いて、機動的にヴァイキングの襲撃に対処できる仕組みを整えました。後世の文書「バーガル・ヒダジ(Burghal Hidage)」はこの網の規模を伝え、各バーの周囲長と防衛に必要な戸数(hid)を数理的に割り当てる合理的設計を示します。これにより、従来の短期出動型民兵(フィアド)に代わって、交替制の動員と拠点防衛が実現しました。

アルフレッドはまた、海軍(ship fyrd)の整備を進め、デーン人の長船に対抗するため、より大きく安定性の高い艦を建造したと伝えられます。内陸水運と河口の制海権を押さえることは、上陸襲撃への即応に不可欠でした。陸上での交替制軍役、道路維持、物資の前方集積と併せて、王国は防衛国家としての「インフラ」を獲得します。

財政・貨幣面では、銀ペニー鋳造の統一と品質維持に努め、王名と十字・モノグラムを刻む貨幣が広域流通の基礎となりました。城塞網が市場(ポート)を保護し、徴税・通行管理が安定することで、農産・手工業・交易が下支えされます。行政では、伯(イールドアマン)や代官(リーヴ)の指揮系を整え、荘園裁判・王廷裁判の分担を明確化しました。

法制では、在位初期に法典(ドゥームブック)を編纂し、祖先王の法(イネ王法など)を継承・整理しました。序文ではモーセ律法や使徒規範への言及を通じて、キリスト教倫理との連続を強調しつつ、血讐の制限、補償金(ウェルギルド)と罰金体系、治安維持責務などを整えています。アルフレッドは、法は神の正義を映すものであり、王の権力は法の執行と保護にあると説き、統治の正統性を倫理で裏づけました。

文化復興と教育:古英語訳事業、年代記、学者ネットワーク

アルフレッドの革新は、軍事・財政にとどまらず、学問と教育に及びました。彼は「学問の荒廃」を嘆き、古英語(オールド・イングリッシュ)による翻訳事業を推進します。自ら序文を付して、グレゴリウス1世『牧民の書(Pastoral Care)』、オロシウス『歴史対策』、ボエティウス『哲学の慰め』、『対話録』などを翻訳・編纂し、地方の司祭や在俗エリートが自言語で教養に触れられる環境を整えました。ベーダ『教会史』の古英語訳や、アウグスティヌスの抄訳もアルフレッド圏の成果に数えられます。

さらに、各地の古語資料と年代記の断片を統合した『アングロ・サクソン年代記』の編纂・配布を後押しし、王国の出来事を年次で記録する文化を制度化しました。年代記は、戦争・飢饉・王位継承・天文現象などを簡潔に記し、複数写本が各地で更新されることで、王国の「共通の時間」を作り出します。これは、政治共同体の自己理解を支える知のインフラでした。

人的基盤の整備も重要です。アルフレッドはウェールズ出身の学僧アッサー、大陸の学者ジョン(オールド・サクソン)やグリムボルドらを招聘し、宮廷学校でラテン語・神学・文法教育を再興しました。アッサーの『アルフレッド王の生涯(Vita Ælfredi)』(893)は、王の治績と性格を伝える一次史料であり、ときに理想化の色彩が強いものの、改革の全体像を掴む要となります。アルフレッドは識字の普及を重視し、少年期からの学習と聖書読解を王侯・聖職の必須要件に据えました。

対外関係・家族・長期的意義:マーシア連携、デーンロウとの講和、後継への橋渡し

アルフレッドは、隣国マーシアとの協調を重視しました。マーシアの指導者エセルレッド(マーシア人の領主)に娘エセルフレドを嫁がせ、軍事・行政の連携を深めます。エセルフレドはのちに「マーシアの貴婦人」として自立的に城塞網を築き、兄エドワード長兄(のちのエドワード長者王)とともに、デーンロウへの反攻を主導しました。アルフレッドの治世は、直接の再征服ではなく、再軍備と足場固めの段階であり、その果実を後継が収穫したと言えます。

ウェールズ諸王とは朝貢・保護関係が整えられ、ローマ教皇・フランク王国との書簡・贈答も続きました。外交は宗教と学問の交流を伴い、聖遺物・書物・工芸品が王宮文化を潤しました。アルフレッドの称号は、ウェセックス王から「アングロ・サクソン人の王」へと外延を拡大し、諸王国の上位支配という概念を育みます。

家族では、王妃エアルスウィスとの間に複数の子女をもうけ、エドワードとエセルフレドのほか、修道院に入った娘たちや、王家の婚姻政策を通じた同盟網が形成されました。899年、アルフレッドは世を去り、エドワードが継承します。10世紀前半、エドワードとエセルフレドは北東への圧力を強め、ロンドンとミッドランズを核に再征服を進め、やがて一体的な「イングランド王国」の姿が現れていきます。

史料・伝承・評価と学習の要点:理想化のヴェールの向こう

アルフレッド像は、史料の性格に大きく左右されます。アッサー『生涯』は王を聖王として描き、教育熱心・敬虔・公正といった徳目を強く打ち出します。一方、『アングロ・サクソン年代記』は年表体で淡々と事実を記し、城塞・貨幣・海軍といった具体策の影を映します。考古学はバーの土塁・街路・市場の痕跡、貨幣の金属組成や銘刻、船材などを補い、制度改革の実在を裏づけます。

伝承として有名なのが、潜伏中に農家の炉で菓子(ケーキ)を焦がしたという逸話です。王であっても義務を怠れば叱責されるという教訓譚で、後代の道徳文学に愛用されました。史実性は薄いものの、危機をくぐり抜けた王の人間的側面を象徴する物語として広く知られます。

評価の要点は三つです。第一に、アルフレッドは防衛国家の設計者として、城塞網・交替制軍役・河川/海上防衛という持続可能な安全保障を構築しました。第二に、法と教育の整備者として、王権を倫理と知の基盤に接続し、古英語を学知の媒体へ格上げしました。第三に、その成果は後継の再征服で結実し、英王権の統合と制度国家への道筋を示しました。したがって、アルフレッドを「最後のウェセックス王」ではなく、「最初のイングランド的王」として捉える視角が有効です。

学習のポイントとして、①878年エディントン—グスルム洗礼—ウェドモア和約、②バー網とBurghal Hidage、③海軍整備と893–896年の再侵攻撃退、④法典編纂と古英語訳事業(『牧民の書』『哲学の慰め』『歴史対策』ほか)、⑤ロンドン再占領(886)と称号の拡張、⑥後継(エドワード長兄・エセルフレド)の再征服、⑦主要史料(『年代記』とアッサー『生涯』)の性格、を年号・用語とセットで押さえると、アルフレッドの歴史的位置づけを過不足なく説明できます。用語上は、「デーンロウ」は法域の呼称であり条約名ではないこと、「ウェドモアの和約」は後世の通称で文書の原本が残らないことを覚えておくと理解が正確になります。