アルベラの戦い – 世界史用語集

アルベラの戦いは、前331年にマケドニア王アレクサンドロス大王がアケメネス朝ペルシアのダレイオス3世を撃破した決定的会戦を指し、戦場至近の集落名から「ガウガメラの戦い」とも呼ばれます。古代史料における地名表記の揺れ(近隣の大都市アルベラ=現エルビルからの通称)により、日本語史学でも両名称が併用されますが、同一の会戦を指す用語です。勝利によってアレクサンドロスはメソポタミアとイラン高原への進路を開き、バビロン入城、スサ掌握、ペルセポリス入城・焼却を経て、アケメネス朝国家の中枢を解体しました。戦術面では、二線陣形と斜行前進、軽装歩兵による戦車対策、右翼騎兵の楔形突撃、そして左翼救援への反転という柔軟な運用が特徴です。

本項では、会戦の背景と戦場設営、両軍の兵力と布陣、戦闘の推移、政治的帰結、史料と学習上の留意点の順に整理し、名称や年号の混乱を避けながら、世界史学習に必要な要点を抽出します。

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背景と戦場:イッソス後の巻き返し、整地された平原、命名の問題

前333年のイッソスで敗れたダレイオス3世は、なおも帝国再建を図り、東方諸州(バクトリア、ソグディアナなど)から騎兵を糾合し、メソポタミア北部での決戦に臨みました。戦場はニネヴェ平野北東、ガウガメラ周辺の平原で、戦車と騎兵の機動に適するよう入念に整地されたと古代史料は伝えます。これは、ダレイオスの切り札である刃つき戦車(鎌戦車)の効果を最大化し、広正面でマケドニア軍を包囲しようとする意図の表れでした。

一方のアレクサンドロスは、アナトリア制圧とフェニキア沿岸の確保、エジプト遠征を経て補給線と艦隊の脅威を除去し、決戦に復帰します。彼は敵の兵力優越を承知の上で、精鋭の重装歩兵(ファランクス)と機動騎兵(コンパニオン)を核に、隊列操作と奇襲的突撃で敵中枢を突き崩す計画を立てました。

なお名称については、古代史家アリアノスやクルティウス・ルフスらの叙述に「ガウガメラ」が見え、近世以降は近隣の大都市名を取って「アルベラ」とも称されます。日本の教科書では「アルベラの戦い」が定着してきましたが、学術的には戦場名の正確さから「ガウガメラ」を用いる研究も多く、両者の同一性を前提に読むのが実務的です。

兵力・布陣と戦術:二線陣形と右斜行、戦車無力化と楔形突撃

兵力規模は史料により大きく異なります。古代の数字(ダレイオス軍百万超など)は誇張を含むため、現代研究では、マケドニア軍約4万~5万ペルシア軍10万前後(騎兵多数)とする控えめの推定が一般的です。重要なのは数ではなく配置と運用です。

アレクサンドロスの陣は、中央にファランクス、右翼に自ら率いるコンパニオン騎兵と近衛歩兵(ハイパスピスタイ)、左翼にテッサリア騎兵とパルメニオン指揮の諸同盟軍を置き、その背後に第二線(後備)を敷いて包囲突破に備えました。彼は開戦とともに右方向へ斜行前進し、ダレイオス左翼を戦車に適した整地帯から引き離すと同時に、敵陣の間隙を誘発する意図を示します。これに対応してペルシア左翼(バクトリア騎兵など)が側面包囲を狙って前進すると、中央に緩み(ギャップ)が生じました。

ダレイオスは戦車隊を投入しますが、マケドニア側は軽装歩兵が散開して通路を開け、投槍・弓矢で御者を狙う戦術で対処し、ファランクスが壁を崩さず前進したため大きな効果を得られませんでした。象の存在も記録されますが、数・影響ともに限定的です。

この瞬間、アレクサンドロスは近衛騎兵を楔形(ケイル)に組み、敵中枢へ斜めに突入しました。楔の先端に王自らが位置し、周囲を親衛が固める伝統的突撃です。ダレイオスの周囲が騒擾に包まれると、王は戦車を反転して戦場を離脱し、中央の崩壊が始まります。一方、左翼ではパルメニオンがマザイオス(バビロニア総督)率いる精鋭騎兵の圧力を受け苦戦し、陣の一部が突破されて輜重地帯に乱入されました。アレクサンドロスは追撃を一時中断して左翼救援に反転し、敵の広域包囲を阻止します。ここに至り、ペルシア軍は各個に潰走へ移り、夜の到来とともに戦闘は終息しました。

結果と意義:王都群の掌握、アケメネス朝の崩壊と「アジアの王」称号

会戦の直後、アレクサンドロスはバビロンに入城し、寛大な処置で市の支持を得ました。さらに王宝と文書庫を擁するスサを開城させ、ペルセポリスへ進軍して王宮を掌握、のちに火災(意図的な焼却と見る伝統が強い)で象徴的にアケメネス朝の威信を打ち砕きました。ダレイオス3世は東方へ退却する途中、サトラップのベッソスにより捕縛・殺害され(前330)、アケメネス王統は事実上終焉します。

アレクサンドロスは自らを「アジアの王」と位置づけ、既存の王都と行政機構、貨幣制度を継承・改造して広域支配の枠を築きました。ガウガメラ(アルベラ)の勝利は、単なる戦術的成功にとどまらず、帝国中枢の政治・財政・象徴資源を獲得するための扉を開いた点で、征服戦争の決定点でした。以後の東方遠征(ヒンドゥークシュ越えからインド北西部へ)においても、この勝利によって確保された人員・財貨・威信が動員の土台となります。

史料・評価・学習の要点:数字の誇張を捌き、戦術の骨格を押さえる

主な史料は、アリアノス『アレクサンドロス大王東征記』、クルティウス・ルフス『アレクサンドロス史』、ディオドロス、プルタルコスらの叙述で、互いに引用・補正関係にあります。兵力・戦死者数については誇張が顕著であり、現代の研究は地形・補給・行軍速度・戦場面積などから現実的な上限を推定します。学習では、具体的数字よりも、①ダレイオスの整地戦場+広正面+戦車という構想、②アレクサンドロスの二線陣形+右斜行+楔形突撃という対抗策、③左翼の危機に対する反転救援という指揮の柔軟さ、を要点として押さえると理解が安定します。

地名と年号の整理も重要です。年は前331年、場所はガウガメラ(近隣都市アルベラ)、直後の都市はバビロン→スサ→ペルセポリス、と連ねると記憶しやすいです。指揮官名では、ペルシア右翼のマザイオス、左翼のベッソス、マケドニア左翼のパルメニオン、右翼のコンパニオン騎兵が基本セットになります。さらに、戦車対策としての軽歩兵・投槍、ファランクスの槍(サリッサ)と歩調の維持、騎兵の楔形(ケイル)の意味など、用語を図と結びつけて整理すると効果的です。

最後に、名称問題の注意点です。日本語の「アルベラの戦い」は歴史教育で広く用いられますが、研究文献では「ガウガメラの戦い」が増えています。試験や記述では両称が同一会戦である旨を添える、あるいは〈ガウガメラ(アルベラ)の戦い〉と併記するのが安全です。いずれの表記であっても、本質はアケメネス朝の命運を決した前331年の決戦であり、その戦術・政治的帰結を明確に記述できることが重要です。