アレクサンドル1世(在位1801–1825年)は、ロシア帝国の皇帝としてナポレオン時代の欧州政治の中心に立ち、祖国戦争(1812)とその後のウィーン体制の構築に決定的な役割を果たした人物です。若年で即位した彼は、父帝パーヴェル1世の専制的統治と急転直下の外交方針から方向転換し、行政制度の整備と教育振興を掲げつつ、対外的にはフランスとの対決と講和を巧みに使い分けました。1812年、ナポレオンのロシア遠征を退けると、翌年以降の解放戦争を主導してパリ入城に至り、1814–15年のウィーン会議と1815年の神聖同盟の発意によって、19世紀前半の欧州秩序を形づくりました。他方で、国内では農奴制の根幹に大きく踏み込めず、1810年代後半には保守化と宗教的神秘主義の影響が強まり、軍事植民地や検閲強化などの統制策が反発を招きました。1825年の急逝は継承混乱を生み、翌ニコライ1世の治下でデカブリストの反乱が鎮圧されることで、改革と反動の波は一つの区切りを迎えます。
出自・即位と対外環境:若き皇帝の出発と摇れる対仏政策
アレクサンドルは1777年、皇太子パーヴェル(のちのパーヴェル1世)とマリアの間に生まれ、祖母エカチェリーナ2世の下で啓蒙主義的な教育を受けました。1801年、父帝パーヴェル1世が宮廷クーデタで急死し、23歳で即位します。彼の治世開始は、革命フランスを相手とする連合の形成・解体を繰り返す動乱期と重なりました。即位直後、対内的にはエカチェリーナ時代の路線に一部回帰し、穏健な恩赦や行政府の整理を進めます。対外的には英露協調を模索し、第三次・第四次対仏大同盟の渦中に置かれましたが、アウステルリッツ(1805)の敗北、フリートラント(1807)の敗戦を経て、アレクサンドルは一転してナポレオンとティルジットの和約(1807)を結びます。この時点での彼は、欧州均衡の再設計にナポレオンとともに関与するという野心を抱き、仏露協調を外交カードとして活用しようとしました。
しかし、対ポーランド問題や対英大陸封鎖体制をめぐる利害は仏露間の不信を深め、やがて両者は対立へ傾きます。アレクサンドルの「理想主義」と「大国政治」の二面性は、以後の治世に一貫して影を落とすことになります。
対外政策と戦争:祖国戦争からウィーン体制・神聖同盟へ
アレクサンドルの対外政策の核心は、1812年の祖国戦争にあります。ナポレオンの大軍がロシアに侵入すると、ロシア軍は焦土戦術と後退で時間を稼ぎ、ボロジノでの激戦後、モスクワを放棄します。冬将軍・補給線の伸長・ロシア軍の側背攻撃が重なり、フランス軍は壊滅的損害を受けて撤退しました。翌1813年、ロシアはプロイセン・オーストリアと連携してライプツィヒの戦い(諸国民戦争)に勝利し、1814年にはパリに入城します。アレクサンドルは連合国の中心人物として外交の主導権を握り、ウィーン会議(1814–15)で領土と勢力の再配置に関与しました。
ウィーン体制の目標は、フランス革命・ナポレオン体制がもたらした急進的変動の反復を防ぐ均衡と保守でした。ロシアはポーランド分割地の大部分を維持しつつ、フランスの衛星国だったワルシャワ公国の主要部を吸収して、ツァーリを国王とするポーランド王国(立憲)を成立させます(1815)。さらに、アレクサンドルの宗教的情熱が結実したのが、ロシア・オーストリア・プロイセンの三帝による神聖同盟(1815)でした。キリスト教的友愛と君主間の相互扶助を掲げたこの盟約は、理念面の宣言に近いものの、反革命の国際協力を正当化する心理的枠組みを与えました。他方で、英露墺普仏の五大国は四国(のち五国)同盟と定期会議(会議外交)を通じ、イタリアやドイツでの自由主義・民族運動への干渉を調整していきます。
アレクサンドル期のロシアは、近隣でも領域と影響力を広げました。スウェーデンとのフィンランド戦争(1808–09)の勝利でフィンランドを割譲させ、ロシア皇帝を元首とするフィンランド大公国を設置します。オスマン帝国との戦争(1806–12)ではベッサラビア(モルドヴァの一部)を獲得し、コーカサスではペルシアとの対立が続いてカフカスへの浸透を強めました。こうして、ロシア帝国は北西(バルト・フィンランド)から南西(黒海北岸)・南(コーカサス)へと帯状に勢力を拡大し、「欧州秩序の守護者」としての顔と「領土国家」としての顔を併せ持つようになります。
内政と改革:制度整備の前進と農奴制の限界、保守化の波
即位後、アレクサンドルは若き側近たち(「若年顧問団」)や行政家ミハイル・スペランスキーを重用して、中央行政の再編に着手しました。1802年、エカチェリーナ時代のカレッジ制(合議制)を整理し、各分野を統括する省庁制(大臣制)を導入して官僚制の近代化を進めます。さらに1810年には、立法・行政の調整機関として国務会議を創設し、財政改革・関税改正・国家信用の整備を試みました。スペランスキーは選挙と代表制の限定導入を含む大規模な憲政改革案も構想しましたが、貴族層の反発と対外危機を背景に退けられ、1812年に失脚します(のち復帰)。
教育分野では、大学を核とする教育区の編成と1804年大学令により、カザン・ハリコフ・サンクトペテルブルクなどで高等教育が整備され、教科書・試験・教員養成の標準化が進みました。初等・中等教育の整備も図られ、識字と技術教育の基盤が形成されます。法典編纂や検閲制度の整理も進められましたが、1810年代後半には検閲が引き締めへ転じ、自由主義思想の拡散を警戒する姿勢が強まります。
最大の課題であった農奴制について、アレクサンドルは穏健な緩和策を模索しました。地主の任意解放を促す勅令(1803)や、バルト地方における段階的な農奴解放(1816–19)などの措置は実施されましたが、いずれも土地の所有移転や税負担の問題で実効性は限定的でした。中央ロシアの広大な農村社会において、農奴制の根幹に踏み込む政治的意思と利害調整の装置は整わず、改革は小刻みな「改良」にとどまります。
1812年の戦役後、治安と財政の立て直しの名の下に、軍政家アレクセイ・アラクチェーエフが台頭します。彼の主導で導入された軍事植民地(軍屯)制度は、農業と兵役を一体化して軍費を軽減しようとするものでしたが、厳格な規律と負担が住民の不満を招き、暴動を頻発させました。皇帝自身も次第に宗教的神秘主義(敬虔派)に傾き、道徳的再生を唱える一方で、国内統治は保守化と統制強化の方向へ揺り戻されていきます。
晩年・継承・評価:神秘主義、タガンログでの死、デカブリストの前夜
ウィーン体制の「守護者」としての責務は、イタリア・ドイツでの反乱やスペイン問題など、会議外交の現場で続きました。アレクサンドルは時に英墺と歩調を合わせ、時に独自の調停を試みましたが、1810年代末から1820年代にかけては、自由主義・民族運動への警戒を強め、干渉容認の姿勢を明確にします。彼の私生活と精神世界では、戦後に出会った敬虔な指導者たちの影響で宗教的内省が深まり、公共善を宗教的倫理で支えようとする観念が強くなりました。
1825年、南方視察の途上にあったアレクサンドルはタガンログで急逝します。継承手続きは混乱し、本来の後継者コンスタンチン大公が辞退していた事実が周知されていなかったため、弟ニコライの即位が遅れました。この空白に乗じて、憲政と農奴制改革を求める将校らの秘密結社が、同年12月にデカブリストの反乱を起こします(新帝ニコライ1世により鎮圧)。反乱はアレクサンドル治世の矛盾—すなわち、教育が生んだ新エリートの政治的成熟と、制度改革の停滞・保守化のギャップ—を可視化した事件でした。
総括すると、アレクサンドル1世の評価は二面性に満ちています。対外的には、1812年の防衛と1813–15年の解放戦争・会議外交を主導した欧州秩序の設計者としての手腕が際立ちます。彼なくしてウィーン体制の安定は語れません。他方、内政では、省庁制・国務会議・教育制度の整備など制度的近代化を進めたにもかかわらず、農奴制の打破という最大課題を先送りし、1810年代後半には統制的な保守化に傾いたことが、後代の政治的停滞と社会的爆発の伏線となりました。学習の要点は、①1807ティルジット、②1812祖国戦争、③1813ライプツィヒと1814–15パリ入城・ウィーン会議、④1815神聖同盟とポーランド王国、⑤省庁制・国務会議・教育改革とスペランスキー、⑥軍事植民地と保守化、⑦1825年死去とデカブリスト—の年表を、周辺地域(フィンランド・ベッサラビア・コーカサス)と結びつけて整理することです。こうしてみると、アレクサンドル1世は、理想と現実の間で揺れながら、19世紀ロシアとヨーロッパの輪郭を描いた「過渡期の皇帝」であったことが理解できるはずです。

