「作(さく)」は、歴史用語としては主に農業生産と土地利用の文脈で用いられ、耕作者が土地の所有者から地面(じめん)を借りて耕作する関係、その結果として生じる収穫分配(地代・小作料)、さらには耕作の継続によって形成される半恒久的な権利(作手権・作職)までを指し示す語です。日本の中世・近世史で頻出し、荘園・公領の年貢体系や近世村落の年季小作・永小作の議論に欠かせない基本概念です。また、東アジア全体を見ると、中国の佃戸・佃作、朝鮮王朝の小作と機能が響き合い、土地所有と耕作の分離が広く社会編成に影響を与えたことがわかります。ここでは、語義の整理、歴史的展開、東アジア比較、法的・経済的性格という四つの切り口で「作」を丁寧に説明します。
語義と範囲:作は「耕作関係」と「地代単位」を指す言葉です
「作」は、第一に耕作行為そのものを指す一般語として用いられますが、歴史用語としてはより特定の意味を帯びます。すなわち、土地の名義人(本所・地頭・領主・地主など)が所有する地面を、耕作者が一定の条件で借り受け、収穫の一定割合・一定量を納める関係を「作」と呼ぶ用法です。この関係にある耕作者を「作人(さくにん)」「作手(さくて)」「小作人」といい、支払う対価を「作料」「作徳(作得)」「作銭」などと呼びます。
第二に、「作」は地代・年貢の評価単位として現れます。荘園や近世村落の文書では、田地の一筆ごとに「一作」「二作」といった表記が見られ、これは田地から期待される収穫高や賦課の基準(作法・作目)を意味します。また、作料の取り決めは「折半作(収穫二分法)」「三作(地主三・小作七などの割付)」のように、割合表示で記されることが多く、ここでも「作」が分配ルールを示す用語として機能します。
第三に、耕作の継続から派生する権利を指す場合があります。長年の耕作・開墾・改良によって耕作者側に生じる半恒久的な地位を、地域によって「作手権」「作職(さくしょく)」「永作(えいさく)」などと呼び、譲渡・質入(しちいれ)・相続の対象になった例も知られます。このとき「作」は、単なる賃借関係を超えて、一定の物権的性格を帯びた慣習上の権利を表す言葉になります。
日本史における展開:荘園の作から近世村落の小作へ
日本中世の荘園・公領制では、領主(本所・領家)—現地支配者(地頭・荘官)—名主・百姓という重層的な階層のもとで、耕作と賦課が組織されました。この過程で、領主・名主層が保有する名田・給田などの地面を、下層の百姓が耕作して年貢や諸役を負担する関係が広がり、文書上に「作」「作人」「作徳」といった用語が現れます。とりわけ開発・新田の拡大期には、耕作者の確保と耕作の安定が重要であったため、作料の軽減や年季取り決めなど、耕作者に有利な条件での「作付」も見られました。
中世後期から近世初頭にかけて、戦国大名・織豊政権・江戸幕府が検地と石高制を通じて土地・収穫の把握を進めると、村落内部では名主・地主と小作人の関係が制度化され、小作地の貸借(田地の寄作)が広範に行われます。ここでの「作」は、地主の「持高(じだか)」と小作人の「作得(さくとく:耕作に伴う利益)」の分配ルールとして明確化され、折半作・三作・四作などの呼び名で地域差を見せながら定着しました。作料は現物(米・雑穀)納が基本ですが、貨幣経済の浸透とともに金納(作銭)や混合も一般化します。
近世村落では、作はしばしば年季(期間)を定めた契約として結ばれました。一定年数(たとえば三年・五年)の耕作を約し、期間満了時に地面を返還する「年季小作」と、期間を区切らず半永久的に耕作を続ける「永小作(えいこさく)」が区別され、後者では耕作者の作手権が強固になり、譲渡・質入が現実に行われました。永小作地は売買禁止の原則が唱えられつつも、実態としては名義の移動が起こり、近世末には地主・小作の階層分化を固定化する役割も果たします。
明治以降、地租改正で所有権の登記が進むと、作は近代的な賃貸借契約として再編され、小作料・地代をめぐる紛争(小作争議)が各地で頻発します。1920–30年代には小作法・小作調停法などの法整備が進み、戦後の農地改革で地主制が解体されると、作の関係は大きく縮小しました。しかし、長い時間の中で作が担ってきた役割—耕作者の生活保障、経営の柔軟性、開墾のインセンティブ—は、農地制度の歴史を理解する上で不可欠です。
東アジア比較:佃作・小作・租佃—機能は似ていても制度はさまざまです
東アジアでは、土地の所有と耕作の分離は普遍的な現象で、中国・朝鮮にも「作」に相当する関係が広く見られます。中国では、古代から「佃戸(でんこ)」「佃農」という耕作者が存在し、地主の地面を耕して「佃租(でんそ)」を納めました。唐宋期の佃戸、明清期の租佃(そでん)は、収穫の一定割合・一定額を納める点で日本の作と相似ですが、国家の税体系・村落組織・契約文書(契・劵)の整備状況によって、権利の強度や紛争処理の仕組みに差が出ます。清代の華南などでは、佃農の権利が強く、永佃権として半物権的に扱われる地域もありました。
朝鮮王朝では、国家の量田・賦課と併行して、両班・書院・寺院などが保有する田地を小作する関係が広範に存在しました。小作料は「半作(はんさく)」などの呼称で折半に近い取り決めがしばしば見られ、地域・作物・灌漑条件によって細かな慣行が成立しています。近代以降の土地調査事業で所有権が確定されると、賃貸借契約としての小作が再編され、日韓の農地制度の相違のもとで紛争も顕在化しました。
このように、機能(所有と耕作の分離・収穫の分配)は似ていても、制度の詳細は国家の税制、村落自治、裁判制度、土地市場の発達度合いに規定されます。日本の「永小作権」と中国の「永佃権」、朝鮮の「小作契約」は、それぞれ私法上の位置づけや公権力の介入度が異なり、権利の譲渡・質入・相続・強制執行の扱いにも違いが出ます。比較の際には、用語の似て非なる点を見落とさないことが大切です。
法的性格と経済的機能:慣習と契約のあいだで
作の法的性格は、時代と地域によって変動しますが、共通して「慣習法」と「契約」の二層が重なっていました。村落の慣習(年季の長さ・地代の割合・灌漑費の負担・肥料費の分担)が基本線を定め、個別の貸借文書(作証文・売券・請書)がその上に具体の取り決めを重ねます。耕作者の地位(追放の可否・作料滞納時の救済・飢饉時の減免)も、慣習と契約の折衝の中で定まります。永小作が一般化した地域では、耕作者側の権利が厚くなり、地主が自由に解約できない半物権的状態が現れました。
経済的機能の面では、作は二つの重要な役割を果たしました。第一に、資本・労働・土地の組み合わせの柔軟化です。土地を持つが労働手段・労働力が足りない者は作付によって耕作を委ね、労働力はあるが土地のない者は作によって生計の場を確保できます。第二に、リスクの分散です。天候・灌漑・市場価格の変動に対して、作料の割合設定や年季更新は、地主・小作双方のリスクを分け合う仕組みとして機能しました。折半作はリスク共有型、定額作銭は価格変動リスクを耕作者に偏らせる傾向がある、というように、契約形態の違いはリスク配分の違いに直結します。
一方で、作は階層分化と搾取の温床にもなり得ました。高率の作料、年季更新時の条件悪化、肥料・種籾・灌漑費の転嫁、質流れによる作手権の喪失は、耕作者を債務と依存へ追い込みがちです。近世末期の百姓一揆や近代の小作争議は、この構造的緊張が爆発する局面といえます。したがって、作を評価する際には、生活防衛の安全網と、階層固定化の装置という両面を見ておく必要があります。
まとめると、「作」は単なる耕作の同義語ではなく、土地所有と耕作の分離が生み出す社会的・法的・経済的関係の核を表す言葉です。日本の荘園から近世村落、近代の小作争議、戦後の農地改革に至るまで、作は農村社会の力学を映し出してきました。東アジア比較に照らせば、名称や制度の細部は違っても、所有と耕作の分業、収穫の分配、リスク共有という基本構図は共通しています。文書に出てくる「作」「作人」「作料」の数語を読み解くだけで、当時の村落の合意、家計のやりくり、気候と水利の条件、市場とのつながりまでが見えてきます。歴史の現場で「作」と出合ったら、その背後にある人びとの生活と交渉の積み重ねを想像しながら読み進めるのが肝心です。

