ザクセン家 – 世界史用語集

ザクセン家(一般にヴェッティン家の意)は、中世以降ドイツ中東部を本拠として発展し、宗教改革から近代ドイツ統一、さらにはイギリス・ベルギー・ブルガリア・ポルトガルなどヨーロッパ各王家へと枝分かれした大王侯家を指します。とくに1485年の「ライプツィヒ分割」で生じたエルネスティン系とアルベルティン系の二本柱、1547年の「ヴィッテンベルクの譲渡」で選帝侯位がアルベルティン系へ移った転機、そして〈ザクセン=コーブルク=ゴータ家〉が19世紀にヨーロッパの王座ネットワークを形成した事実が、ザクセン家の核となる物語です。ザクセン選帝侯国からザクセン王国へと変貌したアルベルティン系は、ナポレオン戦争後もドイツ帝国期まで諸侯として残り、第一次世界大戦後に王権を失いました。一方エルネスティン系はチューリンゲンに複数の公国を派生させ、イギリス王配アルバート公やベルギー王レオポルド1世などを輩出します。以下では、起源・分岐・宗教改革・国際結婚ネットワーク・近代の帰趨・用語の注意点を、過不足なく整理します。

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起源と上昇:ヴェッティン家の成立から選帝侯位の獲得まで

「ザクセン家」と日本語で呼ぶ場合、ドイツ語のヴェッティン(Wettin)家を指すのが通例です。起点はエルベ川上流域(現在のザクセン州・チューリンゲン州周辺)に勢力を張った在地貴族で、11世紀にかけてマイセン辺境伯(Markgraf von Meißen)の地位を掌握し、エルベ・ザーレ間の開拓と都市創出(マイセン、ドレスデン、ライプツィヒなど)を支配基盤として固めました。

決定的な躍進は、神聖ローマ皇帝のもとで1423年にフリードリヒ1世(ヴェッティン家)がザクセン選帝侯位とヴィッテンベルク公領を与えられたことです。以後、ヴェッティン家は「ザクセン選帝侯」として帝国政治の中枢に座し、皇帝選挙・帝国議会・ドイツ東部の領域国家形成で主導的役割を担います。選帝侯領はエルベ川中流域を核に、鉱山(エルツ山地の銀)と商業都市の富を背景に、印刷・学芸・大学(ライプツィヒ大学)と結びついた文化的重心となりました。

ライプツィヒ分割と「二つのザクセン」:エルネスティン系とアルベルティン系

1485年、選帝侯エルンストと弟アルブレヒトの子孫の間で領地が分割される「ライプツィヒ分割」が実施され、〈エルネスティン系〉(兄家系)と〈アルベルティン系〉(弟家系)が並立しました。選帝侯位とヴィッテンベルク周辺は当初エルネスティンに属し、アルベルティンはマイセン・ドレスデンを中心に発展します。この二系統は、16世紀の宗教改革とシュマルカルデン戦争で運命を大きく分かちます。

エルネスティン選帝侯フリードリヒ賢公(フリードリヒ3世)は、ヴィッテンベルクのマルティン・ルターを保護し、宗教改革の安全地帯を確保しました。しかし1546–47年のシュマルカルデン戦争で皇帝側に敗れ、1547年の「ヴィッテンベルクの譲渡」(Capitulation von Wittenberg)により、選帝侯位はアルベルティン系へ移転。エルネスティン系はチューリンゲン各地に小公国として分割・存続する一方、アルベルティン系が以後ザクセンの主流として帝国内の地歩を固めました。

エルネスティン側は、ザクセン=ヴァイマル、ザクセン=アイゼナハ、ザクセン=ゴータ、ザクセン=コーブルク、ザクセン=マイニンゲン、ザクセン=アルテンブルク、ザクセン=ヒルトブルクハウゼン等、多数の公国(いわゆる「エルネスティン諸公国」)へ細分化し、18〜19世紀にかけて再編(1826年の大再編)を繰り返します。この細分化はドイツ小邦分立の典型例であり、学芸保護や宮廷文化の多彩さを生み出す一方、政治的には小規模領域の集合体にとどまりました。

宗教改革とポーランド王冠:ザクセンの二重の顔

宗教改革では、エルネスティン選帝侯の庇護がルターの活動を可能にし、ヴィッテンベルク大学と印刷都市が神学論争の震源地となりました。エルネスティン系の多くはプロテスタント公国として歩みます。他方、選帝侯位を得たアルベルティン系は、ザクセン公フリードリヒ・アウグスト1世(「強王アウグスト」=アウグスト2世)が1697年にポーランド王位を得るためカトリックに改宗し、18世紀半ばまでポーランド・リトアニア共和国王冠とザクセン選帝侯の同君連合を築きました(アウグスト2世・3世の時代)。このため、アルベルティン系の宮廷文化はカトリック芸術・フランス風趣味・ポーランド政治との絡み合いを帯び、ドレスデンは音楽・建築(ツヴィンガー宮殿、聖母教会)で名高いバロック都へ成長しました。

七年戦争やポーランド分割の渦の中で、ザクセンはしばしば戦場となり、18世紀末には対外的な地位が相対的に後退します。ナポレオン期にはザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世が1806年にザクセン王に即位し、ライン同盟の一員としてフランスと連携。ライプツィヒの「諸国民の戦い」(1813)後はウィーン会議で領土の一部をプロイセンに割譲しつつ(上ルサティア等)、王国として存続しました。

ザクセン=コーブルク=ゴータ家:ヨーロッパに広がる「縁組王朝」

エルネスティン系の一支流〈ザクセン=コーブルク=ゴータ家〉は、19世紀にヨーロッパの王座ネットワークを形成するうえで決定的役割を果たしました。代表例を挙げます。

第一に、イギリス王室です。コーブルク=ゴータ公エルンスト1世の次男アルバート公(Prince Albert)が1840年にヴィクトリア女王と結婚し、以後イギリス王室の血統はヴェッティン家の流れを帯びます。第一次世界大戦中の1917年、反独感情の高まりを受けて王室名は「サクス=コバーグ=ゴータ」からウィンザーへ改称されましたが、系譜上の起点はこの縁組に遡ります。

第二に、ベルギー王室です。ナッソー=オラニエ系が退いた1831年、コーブルク家のレオポルド1世がベルギー初代国王に選出され、以後現在に至るまでベルギー王家はザクセン=コーブルク系統を保っています。

第三に、ポルトガルブルガリアです。ポルトガルではサックス=コーバーグ=ゴータ系のフェルナンド2世が王配として入り、子孫が19世紀後半の王位を継ぎました。ブルガリアでは同家のフェルディナントが1887年に君主(のちツァール)に就き、第一次世界大戦後まで王朝を維持しています。

これらの縁組は、19世紀ヨーロッパの王室外交と国家建設の文脈の中で機能し、自由主義と保守主義の均衡、国際関係の安定、産業・学芸パトロネージの推進に影響を与えました。小邦に属する公家が、婚姻と人的ネットワークで大陸政治のハブとなった典型例です。

近代のザクセン:王国の終焉と小公国の整理

アルベルティン系のザクセン王国は、1848年革命を経て立憲化を進め、普墺戦争・普仏戦争ののち1871年にドイツ帝国の一王国として編入されました。文化・教育都市ドレスデン、工業・商業のライプツィヒを中心に、音楽・印刷・機械製造が発展します。第一次世界大戦の敗戦と1918年の革命で、最後の王フリードリヒ・アウグスト3世が退位し、ザクセン自由州となって王権は終焉しました。

エルネスティン系の諸公国は、1918年に一斉に君主制を廃止し、翌1919〜20年にかけてチューリンゲンの共和国編成に合流・統合されます。これにより、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ、ザクセン=マイニンゲン、ザクセン=ゴータ、ザクセン=アルテンブルクなどの公国は、現代のテューリンゲン州へ姿を変えました。諸公国が育んだ宮廷劇場・楽団・図書館・大学は、今日も各都市の文化資本として機能しています(例:ワイマールのゲーテ=シラー文化圏、アイゼナハのヴァルトブルク城、ライプツィヒの音楽伝統)。

政治文化と経済の実像:印刷・鉱山・見本市・音楽の都

「ザクセン」といえば、宗教改革と音楽の都のイメージが強い一方、経済史でも存在感は大きいです。中世後期から近世にかけて、エルツ山地の銀鉱は貨幣鋳造と財政の要であり、ツヴィッカウやフライベルクは鉱山都市として栄えました。ライプツィヒは書籍の見本市・印刷業の拠点となり、ドイツ語圏の出版流通を牛耳りました。ドレスデンは陶磁器(マイセン磁器)・天文学・数学・測地学の宮廷文化を育て、ヨハン・ゼバスティアン・バッハやシューマン、ワーグナーなど音楽家の活動舞台としても知られます。ザクセン家の宮廷支援は、この学芸・産業の基盤整備に直結していました。

用語の注意:ザクセン家(ヴェッティン)とザクセン朝(オットー家)

日本語史学で「ザクセン家」と言う場合、しばしばヴェッティン家のことを指しますが、「ザクセン朝」と呼ばれる10世紀のドイツ王家(オットー1世〈大帝〉を出した家門)は、別系統(リウドルフィング家、いわゆるオットー家)です。混同を避けるため、ヴェッティン家=「(ヴェッティン系)ザクセン家」、10世紀のドイツ王家=「(オットー系)ザクセン朝」と区別して記述するのが安全です。また、英語・ドイツ語表記では、House of Wettin / Wettiner が家門、Electorate/Kingdom of Saxony が領国、Saxe-Coburg and Gotha が支系の家名を表します。

小括:分岐の巧みさ、縁組の強さ—「ザクセン家」を貫く二本の線

ザクセン家(ヴェッティン)の歴史を一本の糸で貫くとすれば、第一に分岐の巧みさ、第二に縁組の強さです。分岐は、ライプツィヒ分割以後の複数公国化を通じて地域の文化多様性と学芸を育て、アルベルティン系の国家運営とエルネスティン系の文化後援が、ドイツ東部の厚みを形づくりました。縁組は、ザクセン=コーブルク=ゴータ家をハブにして、イギリス・ベルギー・ポルトガル・ブルガリアへと伸び、王室外交と国家建設の時代に人材と資金、象徴資本を供給しました。第一次世界大戦で君主制が退場しても、ライプツィヒの書籍都市、ドレスデンの音楽と科学、マイセンの磁器、チューリンゲンの小都市に残る劇場と図書館は、ザクセン家の長い影を今に伝えます。「ザクセン家」を学ぶことは、帝国と小邦、宗教改革と王室外交、文化資本と産業育成が交差する〈中部ドイツ発のヨーロッパ史〉を読み解く近道なのです。