威海衛(いーはいうぇい/Weihaiwei)は、山東半島北東端に位置する威海湾一帯(劉公島〈Liugong Island〉を含む)の歴史地名で、19世紀末から20世紀前半にかけて東アジア国際関係の焦点となった軍港・租借地です。清朝期には北洋艦隊の主要根拠地として整備され、日清戦争(1894〜95年)では日本海軍による包囲・上陸・陸上砲台の制圧を経て1895年2月に陥落しました。講和後もしばらく日本軍が駐留し(賠償履行の担保)、1898年に撤退すると入れ替わりに大英帝国が同年から1930年まで租借地として統治しました。英領期の威海衛は、政治・法律上は「殖民地」ではなく特別な租借地として扱われ、海軍の夏季根拠地・避暑地・医療保養地としての性格が強く、広域開発よりも衛生・警察・交通など限定的インフラに重点が置かれました。1930年に中華民国へ返還後、劉公島の海軍施設の一部は一定期間英海軍の使用が続き、やがて日中戦争期に日本軍が山東沿岸を占領、戦後は中華人民共和国下で威海市として整備が進み現在に至ります。本稿では、地理と前史、日清戦争と日本占領、英租借地期の制度と社会、返還以後という順に、用語「威海衛」の歴史的射程を整理します。
「威海衛」の「衛」は「衛所」「防衛拠点」の意で、清代の軍事行政用語が地名化したものです。現代行政区画としての「威海市」は旧租借地域を含む広域の都市であり、史料上の「威海衛(英語史料では Weiheiwei/Wei-hai-wei)」と同一ではありません。用語を用いる際には、時期・範囲・主体(清朝/日本占領期/英租借期/民国期)を明示することが重要です。
地理と前史:北洋艦隊の根拠地としての整備
威海湾は山東半島の北岸に開いた良港で、湾口を劉公島が塞ぐ地形のため、天然の防波堤と外洋監視点を兼ね備えています。水深は外湾で十分に深く、内湾は錨地と修理・補給に適し、湾口左右の岬に砲台を配すれば海上封鎖力を高められる地勢でした。19世紀後半、洋務運動の一環として北洋艦隊が拡張されると、威海衛は旅順口〈大連湾・旅順〉と並ぶ二大軍港の一つとなり、劉公島にドック・砲台・兵営・提督府が置かれました。周辺の丘陵には煉瓦・土石の砲座と機雷網が整備され、海陸の連携防御を志向した近代式要塞群が形成されます。
しかし、制度と人材・訓練・補給の不整合、艦隊の近代化と要塞陣地の統一指揮の欠缺、整備予算の不足などの弱点は残されました。港の自然条件は優れていたものの、火砲の射界・観測・通信・夜間戦能力といった要素の近代化が遅れたことは、のちの戦役で露呈します。
日清戦争における攻略と日本占領(1895〜1898年)
1894年の黄海海戦で北洋艦隊は主力艦の損耗と統帥の混乱に直面し、冬季には威海衛に立て籠もって修理・整備を急ぎました。日本側は制海権を活用しつつも、湾口正面からの艦砲射撃だけでは決定打を欠くと判断し、陸上から砲台を制圧して内外から挟撃する作戦へ転じます。1895年1月、陸軍・海軍協同で山東半島北岸に上陸、厳寒・凍結の海岸線で難渋しながらも湾外の砲台・陣地を次々と攻略し、2月上旬までに湾口を押さえました。
夜間の水雷艇(魚雷艇)突入は、日本側の技術・士気・準備の結晶でした。凍てつく海面と探照灯・銃砲火の中、湾内に停泊中の清国艦艇に対し複数回の突入攻撃が敢行され、座乗艦への命中や乗員の混乱を誘発します。陸上砲台の陥落と内湾の混乱が連鎖し、2月12日までに北洋艦隊は壊滅的状況に陥り、提督丁汝昌の自決、諸艦の降伏・自沈へと至りました。威海衛の陥落は、遼東半島・旅順の陥落に続く決定的な勝利であり、講和(下関条約)へ向けた圧力を形成します。
講和後、日本は威海衛を即時には引き揚げず、賠償支払いと講和条項履行の担保として一定期間駐屯を継続しました(実際の撤退は1898年)。この間、施設の修復や要塞の一部再構築が行われ、清国側の復旧能力の不足が露わになります。日本の撤退は、国際秩序の再編と列強の「勢力均衡」政策のなかで、別の列強による租借へとつながっていきました。
英租借成立の背景:露独の租借と均衡の政治(1898年)
1898年は、東アジアにおける列強の租借地獲得が一挙に進んだ年でした。ドイツは膠州湾(膠州湾租借地=青島)を、ロシアは遼東半島の旅順・大連(関東州)を、それぞれ長期租借によって掌握します。イギリスはこれに対抗・均衡するため、香港の「新界」を併合的に租借するとともに、北中国沿岸の監視点として威海衛の租借を清朝と締結しました。英清間の協定は、当初「ロシアが旅順を保持する限り」などの条件条項を含み、海軍戦略上の季節拠点・補給地の確保が主眼でした。旅順がのちに日本の手に移っても、英側は「他の列強が北中国に拠点を持つ限り」という解釈で租借の継続を正当化し、実際には1930年まで維持されます。
威海衛の租借は、英帝国の「通商と海軍」の分業モデルを体現しました。すなわち、広域の経済・移民・投資の拠点(香港・上海・天津など)とは異なり、威海衛は海軍の夏季根拠地・演習・保養の機能が中心で、貿易港としての比重は比較的低かったのです。このため、租借地の行政は「軽い統治」を旨とし、大規模なプランテーションや資源開発は限定的でした。
英領威海衛の制度・軍事・社会:軽行政・衛生・警察・軍事の四本柱
統治の制度面では、威海衛は当初イギリス外務省の監督下に置かれ、のちに一部所掌が入れ替わるものの、いわゆる「本格植民地」ではなく「租借地」として扱われました。最高責任者は「行政官(Commissioner)」で、専任の裁判職(判事)を兼ねることもあり、英国法を基礎としつつ中国慣習法を一定程度容認するハイブリッドな法秩序が敷かれました。民事・軽刑事は中国人官吏や地元有力者を通じて処理され、重罪や英人関与事件は行政官・高等法院が審理する仕組みです。租税は地租・商税・雑税の組合せで、歳入規模は小ぶりでしたが、衛生・警察・道路の維持には充当されました。
軍事面では、英海軍の中国艦隊(のち東洋艦隊)が夏季に威海衛へ展開し、停泊・演習・修理・休養の拠点としました。劉公島のドックや兵舎はこの目的に合致し、周辺の丘には観測・通信施設が置かれました。陸上警備には英軍小 detachments のほか、現地採用の兵から成る「Chinese Regiment(通称:威海衛華人連隊)」が1898年に編成され、義和団事件(1900年)では北清方面で実戦投入されています。同連隊は1906年に解隊されますが、その間、英印軍・香港駐留部隊との連携訓練が繰り返され、威海衛は「中国北部における英軍の足場」として機能しました。
社会・経済面では、英人常住人口は小規模で、豪商や大銀行の進出は限定的でした。代わって、衛生・医療・教育の施設が整備され、夏季の避暑地としての性格が強まりました。衛生・上下水・検疫は行政の重点であり、コレラやペストの蔓延を防ぐための検疫所・焼却設備・清掃規則が導入されます。湾岸には桟橋・倉庫・石造の官舎が建てられ、道路は海軍の運用に合わせて要所が整備されました。警察(Weihaiwei Police)は治安・衛生規則の執行を担当し、制服・装備は香港や上海の租界警察と共通点を持ちました。
通信・郵便の面では、英本国の切手に「China」加刷を用い、威海衛局の消印が押される運用が行われました(のちの期には地名加刷が用いられる時期もあります)。通貨・度量衡は中国本土の慣行に合わせつつ、関税や官庁支払では銀本位が基準とされ、英本位との換算が日常的課題でした。教育は宣教師系学校と中国人塾が並存し、海軍関係者向けの娯楽・クラブ・教会が夏季に賑わいを見せました。
都市空間としての威海衛は、軍港・官舎・簡素な商店街・華人居住区・農漁村がモザイク状に並ぶ構成でした。青島(膠州湾)に見られるドイツ風の壮麗な官庁街や工業港湾の景観に比べると、威海衛の英人街は控えめで、むしろ劉公島・湾口・丘陵の軍事施設と夏季の保養施設が目立つ落ち着いた港町の性格を持っていました。
返還とその後:1930年の返還、魯東の戦間期、戦争と戦後
第一次世界大戦後、東アジアの勢力地図は再編され、山東問題(対独戦後の青島処分)などをめぐって列強と中国の交渉が続きました。英政府内でも、威海衛の軍事・財政的価値は相対的に低いとの判断が強まり、1930年、英中間で返還協定が成立し、威海衛は中華民国(国民政府)に返還されました。返還の条件には、劉公島の特定施設の一定期間使用や、行政移行に伴う資産・施設の取り扱いが含まれ、英海軍の「漸減的撤収」が想定されていました。返還後、威海衛は一時「特別行政区」として管理され、山東省の下に再編されます。
しかし、東北事変(1931年)以降の情勢悪化、華北分離工作、山東沿岸の軍事的緊張の高まりの中で、威海・煙台・青島などの港湾都市は再び軍事・外交上の焦点となります。日中戦争の拡大とともに日本軍は山東沿岸に進出し、威海一帯も占領を受けました。第二次世界大戦の終結とともに占領は解除され、国共内戦を経て新中国の成立後、威海は山東省の港湾都市として再整備され、劉公島は北洋艦隊史跡・博物館として保存・活用が進められます。
現代の「威海市」は経済技術開発区や港湾開発が進み、韓半島・日本海側との海運・漁業・観光の拠点として発展しています。ただし、歴史用語の「威海衛」と現代行政区を混同しないこと、また、英租借期の法制度・用地規則・登記などが地籍や不動産の歴史に影響を残している点を押さえることが、史料読解の上で有益です。
用語・史料の注意と学習の要点の補足
第一に、「威海衛」は時期によって管轄と法制度が大きく異なります。清朝北洋艦隊期(〜1895年)、日本占領期(1895〜98年)、英租借期(1898〜1930年)、返還後の民国期(1930年代)では、行政・軍事・司法の枠組みが変わるため、事件や制度を論じる際には必ず年代と主体を明記する必要があります。
第二に、英租借地の法制度は、香港・海関・租界の制度と似て非なる点があります。威海衛は独自の「行政官命令」「枢密院令(Order in Council)」などで統治され、英国本国の普通法を骨格としつつ、中国の慣習・土地制度を併用しました。裁判権・警察権・租税・郵便の各分野で、上海や天津の租界、香港の完全植民地体制とは違う「軽量統治」の特徴が読み取れます。
第三に、日清戦争の威海衛攻略については、日本側の戦史・個人回想・新聞図版、清側の奏摺・軍報、欧米観戦武官の報告など、多様な一次史料が存在します。とくに夜間水雷艇の突入や砲台の陥落経過は、叙述に差異があるため、立場の違いによる強調・省略を意識して比較することが重要です。丁汝昌の行動と最期、艦隊将兵の降伏・自沈の判断、島上の住民の動向など、複数の視点を組み合わせると、事件像が立体的に見えてきます。
第四に、英領期の社会像は、郵便史・フィラテリー、衛生・医療の記録、海軍の年報・勤務日誌、警察報告、地籍図、写真帖など、断片的ながら豊富な視覚・文書史料で補えます。華人社会の生活や宗教・商業の実態は、英官報だけでなく中国語新聞・地方志・碑刻の活用が必要です。
総じて威海衛は、軍港・租借地・避暑地という三つの性格が時期に応じて前後しつつ、東アジアの「勢力均衡」の小さな歯車として機能した場所です。北洋艦隊の拠点整備に始まり、日清戦争の激闘、英帝国の限定的駐在と衛生都市政策、返還と再軍事化という屈折を経て、現在の港湾都市へと連続しています。地名の背後にある制度・地理・国際政治の重なりを意識することで、「威海衛」という用語の射程は、単なる地名を超えて、19〜20世紀東アジアの秩序形成史を読み解く鍵となるのです。

