イギリス・オランダ(英蘭)戦争は、17世紀半ばから18世紀末にかけて両国のあいだで断続的に行われた海上・貿易覇権戦争の総称です。通常は、第一次(1652–1654年)、第二次(1665–1667年)、第三次(1672–1674年)、第四次(1780–1784年)を指し、前半の三次は主として北海・イングランド海峡を主戦場とした帆走艦隊同士の決戦、後半は世界的な植民地線と連動した広域戦争という性格を帯びます。背景には、航海法(Navigation Acts)を軸とする重商主義政策、海運・再輸出貿易で世界をリードするオランダ(連邦共和国)に対抗して造船・商業・海軍力を拡張するイングランド(のち大ブリテン)の戦略、そして東インド会社(EIC)と連邦側のオランダ東インド会社(VOC)・西インド会社(WIC)の利害衝突がありました。英蘭戦争は、海軍戦術の規格化(戦列戦法)と国家財政・海上保険・証券市場の発達を促し、やがて名誉革命(1688年)を経た英蘭同盟の成立と、18世紀のイギリス海上覇権への伏線を成しました。
本項では、(1)対立の構造と準備、(2)第一次~第三次戦争の展開、(3)名誉革命と第四次戦争、(4)戦術・制度・経済の影響、(5)用語上の注意の順に概観します。叙述は年表化を避け、各戦争の因果と結果をつなぐ論点を意識して整理します。
対立の背景:航海法、商業覇権、会社間競争
17世紀前半、連邦共和国(オランダ)はアムステルダムを中心に海運・金融・再輸出でヨーロッパ経済の中枢となっていました。連邦はバルト海の穀物・木材と南欧の産品、アジアの香辛料と絹、アメリカの砂糖・タバコを結ぶ中継貿易で利益を上げ、安価で丈夫なフリューショット型商船を大量に運用することで輸送単価を引き下げました。これに対して、清教徒革命を経て共和政(護国卿クロムウェル)下にあったイングランドは、1651年に航海法を制定し、英領への輸入は本国船か原産国船に限定する原則を打ち出して、オランダのキャリアーとしての地位に挑戦します。海上での礼砲・旗礼の優先をめぐる摩擦や、地中海・西アフリカ・カリブ海・東インドでの会社間の実力行使が緊張を高め、英蘭はついに正面衝突へと向かいます。
会社間競争は国家間対立と絡み合いました。VOCとEICは香辛料と布の産地・交易圏で衝突し、モルッカ・バタヴィア・セイロン・インド沿岸・アフリカ喜望峰回りの寄港地などで通商権・要塞権を争いました。西インドでもWICと英側勢力が砂糖・奴隷・私掠で利益相反を起こし、双方が私掠免許(レター・オブ・マーク)を濫発して相手国商船を捕獲しました。こうして「法と戦争の中間地帯」が拡大し、艦隊決戦によって秩序を決め直す圧力が高まったのです。
第一次~第三次英蘭戦争:海戦・条約・転換点
第一次英蘭戦争(1652–1654年)は、航海法の施行と旗礼問題に端を発し、北海・イングランド沿岸で連続会戦が行われました。主な海戦として、ドーバー海峡沖の初戦、ケンティッシュ・ノック(1652)、ダンジネス(同年末)、ガッバード浅瀬(1653)、テルハイデ/スヘフェニンゲン(1653)などが知られます。イングランド側はブレーク(Robert Blake)、モンク(George Monck)らが戦列の秩序を重視する戦い方を整備し、火力集中で優位に立ちました。オランダ側はマールテンスゾーン・トロンプ(老トロンプ)、デ・ルイテル(のちの主将)が奮戦しましたが、補給・艦の堅牢さで劣後し、最終的に講和へ傾きます。ウェストミンスター条約(1654)では、オランダが間接的に航海法の原則を容認し、イングランドへの譲歩としてホラント州にウィレム3世の総督就任を禁ずる「排除勅令」(Act of Seclusion)を受け入れました(連邦全体ではなくホラントの秘密条項)。海戦の実践からは、のちの「戦列艦」中心の編制・戦術の規範化が進みます。
第二次英蘭戦争(1665–1667年)は、王政復古後のイングランドが王室財政と商業利害のために仕掛け、アフリカ西岸・北海・大西洋・カリブ海・北米での争奪戦となりました。序盤、ローストフト沖(1665)でイングランドが大勝しますが、四日間の海戦(1666)でデ・ルイテルが鮮烈な反撃を成功させ、続くセント・ジェームズの日の海戦でイングランドが体勢を立て直すなど、拮抗が続きます。決定的だったのは1667年のメドウェイ奇襲(チョーサー川の艦隊焼打ち)で、オランダ艦隊がテムズ河口に突入して係留中の主力艦を焼却・鹵獲し、ロンドンに衝撃を与えました。講和のブレダ条約(1667)では、イングランドが1664年に占領したニュー・ネーデルラント(ニューヨーク)の保持をオランダが事実上容認する一方、オランダは南米のスリナム(旧「ギアナ西岸」)を確保し、航海法条項の一部緩和(原産地直送原則の運用柔軟化など)を引き出しました。英蘭両国は「大西洋の英、南米北岸と香辛料の蘭」という分業の輪郭を強めます。
第三次英蘭戦争(1672–1674年)は、実質的には仏蘭戦争(1672–78年)の一部で、イングランドがルイ14世と結んだ密約(ドーヴァー条約)に基づいてオランダを攻撃したものです。開戦年のゾールトベイ海戦(ソールベイ、1672)でデ・ルイテルは英仏連合艦隊の上陸企図を挫き、翌1673年のスホーネフェルト連戦、テセル沖(キックデュイン)で沿岸防衛に成功しました。陸上ではフランス軍がオランダを圧迫しましたが、国内政治でチャールズ2世の戦争継続に反発が強まり、イングランドはウェストミンスター条約(1674)で離脱します。海上覇権の決着は持ち越され、以後、英蘭はフランス牽制の必要から接近を強めることになります。
名誉革命と第四次英蘭戦争:同盟への転位と世界戦争化
1688年、オランダ総督ウィレム3世は「名誉革命」でイングランド王ウィリアム3世として即位し、英蘭は同君連合的関係のもとフランスに対抗する大同盟(九年戦争、スペイン継承戦争)を共闘するに至ります。海軍・財政・市場で両国の強みは連結され、1694年のイングランド銀行創設など「財政=軍事国家」の基盤が整いました。17世紀型の英蘭対立は終息したかに見えますが、18世紀末、アメリカ独立戦争と中立武装同盟、そして蘭国内政(オラニエ派と愛国派の対立)の渦中で、両国は再び衝突します。
第四次英蘭戦争(1780–1784年)は、オランダが中立武装同盟への参加や対米通商(反乱植民地との取引)を進めたことにイギリスが反発し、通商封鎖と植民地打撃で圧力をかけた戦争です。北海のドッガーバンク海戦(1781)は痛み分けに終わったものの、イギリスはカリブ海のセント・ユースタティウス、ギアナ沿岸(デメララ/エセキボ)、インドのネガパタム、セイロン沿岸の要地などオランダの拠点を相次いで奪取し、蘭商業の打撃は甚大でした。講和(1784、パリ)で領土復旧の部分はあったものの、航行・通商での譲歩と政治的屈辱は大きく、オランダは国際金融センターとしての地位を徐々に失い、フランス革命・ナポレオン時代にはバタヴィア共和国としてフランスの衛星化を余儀なくされます。英側は海運・海軍の総合力で優位を決定づけ、19世紀の海上覇権へ地ならしを終えました。
戦術・制度・経済への影響:海の近代を形づくった争い
海軍戦術の規格化:第一次戦争の経験は、戦列を組んで舷側砲を一斉射し、風上・風下を利用して敵隊形を切断・分断するという戦い方の規範化を促しました。英海軍の「ファイティング・インストラクションズ」と蘭側の艦隊運用規則は、艦隊を前衛・中軍・後衛に分け、旗艦の信号で統制する近代的指揮様式の基礎を整えます。機動と砲戦の重視は、白兵・拿捕中心の私掠戦から砲術戦への重心移動を意味し、艦の標準化(三等艦=74門級を中核とするライン)を招きました。
財政=軍事国家の成熟:長期の海戦は、船材・帆・索具・銃砲・食糧・賃金といった継続的支出を伴い、国債市場と課税を通じて戦費を賄う制度の整備を不可欠にしました。アムステルダムの資本市場は公債・海上保険・為替手形で戦争経済を支え、イングランドは名誉革命以降、議会主導で信用ベースの国債発行を加速し、海軍常備化を実現します。これは、港湾・造船所・兵補制度・海軍病院といった国家的供給網をつくり上げ、植民地戦線の持続力へと転化しました。
帝国経済の棲み分け:ブレダ条約以降、大西洋世界ではイギリスが北米・カリブ海の砂糖・タバコ・奴隷貿易で優位を固め、オランダは金融・再輸出、そしてアジアの香辛料・コーヒー・砂糖・茶の管理で収益を確保する方向に傾きます。ニュー・ネーデルラントとスリナムの交換は、英の北米植民地の連結と蘭のプランテーション経済の強化という二つの路線を象徴しました。第四次戦争ではこの棲み分けが崩れ、英側が世界線で蘭の拠点を蚕食して最終局面を決めます。
法と経済の制度化:航海法は、国籍と貨物の関係に法的接合部を作り、「船舶国籍と貿易特権」をめぐる国際経済法の先駆けとなりました。私掠免許・臨検・護送船団・貿易許可証の運用も洗練され、海上保険(ロイズ)と平均法(ジェネラル・アベレージ)の習慣が国際標準化していきます。戦時捕獲の処理は海事法廷で審理され、判例の蓄積は商人・保険者・艦隊のリスク計算を合理化しました。
記憶と文化:トロンプの艦首の箒(「海を掃いた」寓意)や、デ・ルイテルの英雄像、メドウェイで鹵獲されたロイヤル・チャールズの船首飾りなどは、双方のナショナル・アイデンティティに刻まれました。絵画(ウィレム・ファン・デ・フェルデ父子)、版画、海図、バラッドは、海戦の記憶を視覚化・流通させ、海洋国家の自己像を形成しました。
用語・年号・地理の注意と学習の足場
第一に、「英蘭戦争」は狭義には17世紀の三次、広義には第四次(1780–84)を含みます。文脈に応じて年号の明記が必要です。第二に、条約名(ウェストミンスター1654/1674、ブレダ1667、パリ1784)と個別海戦(四日間、メドウェイ、ソールベイ、スホーネフェルト、テセル、ドッガーバンク)を最低限対にして押さえると、叙述が安定します。第三に、植民地戦線は北米(ニュー・ネーデルラント→ニューヨーク)、カリブ(スリナム・セント・ユースタティウス)、西アフリカ、インド洋(ネガパタム、セイロン沿岸)に広がり、同時多発の奪取・返還が条約の細目で整理されます。第四に、人物は英側ブレーク、モンク、ルパート公、サンドウィッチ伯、蘭側デ・ルイテル、トロンプ父子、デ・ウィット兄弟(政治)などを軸にすると、戦略判断の背景が読みやすくなります。第五に、戦術と国家財政を結ぶ視点(戦列戦法の規格化→造船規格→国債・課税→常備海軍)を持つと、英蘭戦争が単なる海戦列伝ではなく、近代国家形成とグローバル経済秩序の成立に連なる出来事として理解できるはずです。
総じて英蘭戦争は、武力・法律・市場の三要素がせめぎ合う海洋近代の実験場でした。オランダの海運・金融の先進性に、イングランドが議会財政と造船・砲術で応答し、敵対はやがて同盟へ転じてフランスという共通の脅威に向かう—このダイナミクス自体が、17~18世紀ヨーロッパの国際秩序の縮図です。海峡の風と保険相場、戦列と議会、会社と植民という諸断面を一つの布に織り上げる視点で、英蘭戦争という用語を読み解いてください。

