イタリア王政廃止とは、1946年6月2~3日に実施された制度選択の国民投票(共和制か王制か)によってサヴォイア家の君主制が否決され、以後、イタリアが共和制へ移行した政治的転換を指す用語です。同日に制憲議会選挙が行われ、年末の憲法制定と1948年の施行へ至る一連の移行過程を含めて理解するのが適切です。この出来事は、ファシズム崩壊・占領・内戦を経た国家再建の起点であり、男女普通選挙の実現、政教関係の再調整、国際秩序への復帰など、戦後イタリアの制度と政治文化の骨格を方向づけました。
国民投票では共和制が過半を占め、北中部で強く、南部・島嶼部で王政支持が根強いという地域差が鮮明に現れました。結果は破毀院(最高裁判所)が最終確認し、国王ウンベルト2世は出国、政府は暫定的に国家元首機能を引き継ぎ、制憲議会が共和国の制度設計を担うという段取りで移行が進みました。以下では、用語と背景、投票と結果、移行の制度、影響と長期的帰結の四つの視点から整理します。
用語と時代背景—ファシズム崩壊から「制度問題」へ
王政廃止の前史は、1943年の体制崩壊にさかのぼります。連合軍のシチリア上陸と軍事的失敗を受け、同年7月にムッソリーニが失脚し、サヴォイア家のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の下でバドリオ内閣が成立しました。9月に休戦(カッシビレ休戦)が公表されると、イタリアは南部の王国政府と、北中部をドイツが占領してムッソリーニを擁立したイタリア社会共和国(サロ共和国)に分断され、レジスタンスと占領・内戦が重なる苛烈な局面に入りました。
この間、王室の責任と君主制の存廃は大きな政治争点となりました。ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はファシズムを長期にわたり容認した責任を問われ、1944年には「サレルノの転回」により、王太子ウンベルトを摂政(王国の副王/国王代理)に立てて自らは前面から退き、戦争終結後に「制度問題」を国民の審判に付すことで、対独協力の終結と国内統合を優先する路線が採られました。連合国側の対伊政策(占領軍政や対伊諮問委員会)は、国内の合法政府と反ファシズム政党連合(CLN)との協調を後押しし、戦後の正統性は「抵抗」と「投票」によって回復されるべきだという認識が広がりました。
1946年に至ると、レジスタンス諸党(キリスト教民主党、社会党、共産党、自由党、アクション党など)を基盤とした連立政府の下で、制度選択の国民投票と制憲議会選挙を同日に実施する方針が固まります。女性参政権は戦時・戦後の地方選を経て全国レベルに拡張され、これが初の全国的な男女普通選挙となりました。
国民投票の実施と結果—投票手続、地域差、法的確定と王家の出国
国民投票は1946年6月2~3日に実施され、高い投票率(9割前後)を記録しました。投票者は「共和国(Repubblica)」か「王国(Monarchia)」かを選び、同日に制憲議会(Assemblea Costituente)議員の比例代表選挙も行われました。開票の結果、共和国が過半(おおむね54%前後)、王国が46%前後を獲得し、共和制が選択されました。地理的には、北中部(とくにレジスタンスの強かった地域や大都市圏)で共和制支持が強く、南部・シチリア・サルデーニャでは王政支持が優位という鮮やかな地域分極が見られました。
確定手続は慎重に進められました。まず政府が暫定結果を発表し、破毀院(最高裁判所)が異議申立て・無効票の精査を経て6月18日に最終結果を告示しました。これに先立つ政治過程では、6月9日付で国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の退位を受け継いで在位していたウンベルト2世(在位期間が短いことから「五月王」と渾名された)が、国内の衝突を避ける名目で6月13日に国外(ポルトガル)へ出国しました。以後、王は帰国せず、サヴォイア家は長期の亡命生活に入ります。
投票をめぐっては、南部を中心に王党派の抗議や不正疑惑の主張、ナポリなどでの騒擾が生じましたが、破毀院の確定告示と連合国側の黙認・支持、諸政党の受容が重なって大規模な政治的逆流は回避されました。制度選択の正統性は、①高投票率、②同日選挙で示された議会の構成、③破毀院による司法的確認、という三重の根拠で支えられたと言えます。
共和制への移行と制度設計—暫定元首、制憲議会、1948年憲法
王政廃止の確定とともに、元首機能の承継が課題となりました。確定告示ののち、首相アルチーデ・デ・ガスぺリが一時的に国家元首の職務を代行し、制憲議会が暫定国家元首の選出へ進みます。1946年6月末、議会はエンリコ・デ・ニコラを暫定元首に選出し、彼の名の下で国号・国璽・外交儀礼など共和国の形式が整えられていきました。
制憲議会は、自由主義と社会国家、反ファシズムの原則、地方分権、基本的人権の保障、議会制の設計といった論点をめぐり、キリスト教民主・社会党・共産党を軸とする「憲法妥協」を形成しました。議会は1947年末に新憲法を可決し、1948年1月1日に施行しました。憲法は議院内閣制と二院制(下院=代議院/上院=共和国元老院)、強い基本権章、司法の独立、憲法裁判所(のち発足)、地方自治(州・県・市)を規定し、ファシズム体制と王制の復活を禁止する移行・最終規定を盛り込みました。
王室・貴族称号の扱いも整理されました。憲法は貴族称号を国家が法的身分として承認しないことを定め、新たな称号授与を禁じました(既存称号は個人の死亡とともに消滅)。サヴォイア家の男子直系の入国禁止・財産の扱いなどを定めた移行規定は、王政復古の可能性を封じる意図を持ち、21世紀初頭に至るまで残りました(後年、一部は解除されます)。外交面では、1947年のパリ講和条約により領土・軍備・賠償などの条件が確定し、イタリアは主権国家として国際社会への復帰を開始します。政教関係では、1929年のラテラノ条約の法的効力が共和国下でも継続され、その後1984年の改定で宗教・教育・財政の関係が現代化されました。
象徴の面では、三色旗(緑・白・赤)は王政期に由来する国旗として継承され、王冠を戴いた紋章は廃止されて共和国の紋章に置き換えられました。国歌については「イタリアの兄弟(フラテッリ・ディタリア)」が事実上の国歌として用いられ、長く暫定扱いが続いたのち、21世紀に正式化されました。制服・階級・勲章体系も共和国仕様へと改められ、王政の象徴は公的領域から後退しました。
影響と長期的帰結—第一共和国体制、男女普通選挙、地域政治と国際関係
王政廃止は、戦後イタリア政治の枠組みである第一共和国体制の出発点となりました。比例代表制を基盤とする多党制、議会中心の連立政治、強い憲法裁判と基本権保障、反ファシズムの市民宗教的な合意が、冷戦という国際環境の中で政治秩序を下支えしました。キリスト教民主党が長期政権の軸となる一方、左派(社会党・共産党)も議会と地方で大きな存在感を持ち、自治体レベルでは革新的政策が試みられます。1970年代には州制度が本格運用され、地方分権が進みました。
社会文化面では、男女普通選挙が民主主義の実践を根底から変えました。女性の国政参加は議会構成や政策アジェンダに緩やかに影響を与え、教育、家族法、労働、福祉、保健の分野で改革が重ねられます。レジスタンスの記憶は地域の政治文化に深く刻まれ、公共空間の記念や学校教育、祝祭日の設定を通じて、反ファシズムの価値が共有財産化しました。
地域政治に関しては、王政支持が強かった南部と共和制支持が強かった北中部という1946年の投票地図が、その後の経済政策・地域開発・政党配置にも長く影を落としました。国家は南部開発機関の設置、インフラ投資、産業誘致などを進めましたが、失業・脱産業化・組織犯罪などの問題は根強く、地域格差は戦後政治の持続的課題となりました。他方、都市自治体の再生、文化遺産の活用、中小企業のネットワーク(産業地区)の成長など、地方からの創造的な応答も累積していきます。
国際関係では、王政廃止後の共和国は西側陣営に加わり、NATO加盟・欧州統合の創設メンバーとして一体化の先頭に立ちました。王政から共和国へという制度転換は、反ファシズムと民主主義、ヨーロッパ復帰という大きな物語の中に位置づけられ、外交の信頼回復に資する象徴効果を発揮しました。講和条約での制約は徐々に解け、経済の「奇跡」を背景に、文化・観光・工業デザインなどソフトパワーの発信が強まりました。
長期的には、王政廃止は単に元首の形式を改めたにとどまらず、憲法の価値体系(人権、反独裁、地方自治)、司法の独立、政教関係の再均衡、象徴と記憶の編成を通じて、イタリア社会の「政治的近代」を再定義しました。21世紀には、サヴォイア家の入国禁止など一部の移行規定が解除され、王家の帰国や歴史的評価の再検討が進みましたが、共和国の正統性は1946年の投票と抵抗の記憶に根ざすものとして、広く共有されています。
総じて、イタリア王政廃止は、戦争と内戦の廃墟の中で「主権者は国民である」という原則を再確認し、制度と象徴の両面で新たな国家を立ち上げた歴史的な決定でした。投票の実施、法的確定、元首機能の承継、憲法の制定という段取りを丁寧に踏むことで、政体の変更は比較的平和裏に達成され、その後の半世紀にわたる民主主義の枠組みを支えることになったのです。

