異端審問 – 世界史用語集

「異端審問」とは、主としてカトリック教会の権威と結びついて、正統教義からの逸脱と見なされた信仰や実践を調査・是正するために設けられた司法・行政的装置の総称です。一般には「取り締まりと火刑」のイメージが強いですが、実際には時代や地域によって制度・目的・手続が大きく異なります。中世の「教皇(司教)審問」に始まり、近世のスペイン異端審問、ポルトガル異端審問、ローマ異端審問(教理省の前身)へと展開し、それぞれ政治権力・社会秩序管理・改宗者監督・知の検閲など、複数の機能を担いました。処罰は必ずしも死刑一辺倒ではなく、公開悔悛・巡礼・罰金・投獄といった軽重の幅を持ち、最終刑の執行は原則として世俗権力に委ねられました。全体像をつかむには、「いつ」「どこで」「誰が」運用したかを押さえ、手続の中身と社会的背景を合わせて理解することが大切です。

本稿では、第一に制度の成立と類型、第二に典型的な手続と実務、第三に地域差と著名事例、第四に変容と終焉・記憶という四つの視点から、異端審問の実相をわかりやすく整理します。単純な善悪二分法ではなく、当時の人びとが秩序・信仰・治安の問題として何を優先し、どのような限界と矛盾を抱えたかに目を向けます。

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成立と類型:中世審問からスペイン・ローマ・ポルトガルへ

中世の起点は、12〜13世紀にかけての教会改革の潮流と、都市化・巡礼の拡大による宗教多様化への対応でした。司教が管区内で信仰調査を行う伝統に、教皇権が特任審問官(しばしばドミニコ会士)を派遣して補強する形が「中世異端審問」の基本です。背景には、ワルド派やカタリ派など、教会批判と道徳改革を掲げる民衆運動の広がりがあり、教会は説教運動と司法的手当てを組み合わせて秩序回復を図りました。記録主義に基づく尋問、悔悛命令、再犯時の厳罰など、のちの審問手続の器がこの段階で整えられます。

15世紀末に成立したスペイン異端審問は性格が異なります。フェルディナンド2世とイサベル1世の共同王権のもとで、教皇認可を得つつも王権の直轄機関として設計され、改宗ユダヤ人(コンベルソ)・改宗ムスリム(モリスコ)に対する信仰監督と王国統治の統合装置として機能しました。総審問官(初代はトマス・デ・トルケマダ)に率いられた中央集権的組織、資産没収と国家財政の関係、民族・宗教の純潔(リンプエサ・デ・サングレ)観念との連動が特徴です。のちに海外領にも拡張され、植民地社会の秩序形成にも関与しました。

ローマ異端審問は、宗教改革の進展を受けて1542年に教皇パウルス3世が常設の教皇庁機関として創設したものです。これはのちの「聖省教理聖省(教理省)」へと連なる組織で、教義審査・禁書目録(1559年以降)の作成、学説・科学・民間信仰の監督を担いました。イタリア諸邦を中心に、中世型の散在的審問とは異なる、審議会型・書記主義的な運用が進みます。近世ポルトガル異端審問(1536年認可)は、スペインと類似の改宗者監督に加え、海外商業・帝国支配と密接に結びつきました。

このように「異端審問」は単一の制度ではなく、時代や主権者の違いで目的・運用が変わる可変的な装置でした。中世では教会内部の規律・信仰秩序の回復、近世のイベリア半島では王権の国家形成と結びついた社会統合、ローマでは学説監督とカトリック改革の制度化が前面に出ます。いずれも宗教と政治が未分化であった社会で、「共同体の統一」を守る頼りとされた点が共通項です。

手続と実務:告発・尋問・判決・刑罰の流れ

典型的手続は、まず信仰状況の「査問(ヴィジラ)」と説教による警告から始まります。多くの地域では「信仰告示(エディクト)」が布告され、一定期間内の自発的出頭(恵みの期間)に悔悛すれば軽罰で済む制度がありました。告発は匿名が許されることもあり、証言の収集・照合・予審を経て、正式の尋問に進みます。尋問は書記が逐語記録を作成し、被尋問者は誓いのもとで供述しました。弁護人や答弁書の提出が認められる場合もあり、形式上は法手続に沿った審理が志向されましたが、同時代基準でも「推定有罪」に傾きやすい構造的バイアスが指摘されます。

証拠評価は文書・証人・自白が中心で、拷問の使用は時代・地域で差が大きいです。十三〜十四世紀の中世審問では世俗法廷の慣行に合わせて限定的に許容され、近世スペインでは規程が厳密化されました(身体損壊の禁止、回数・時間制限など)。とはいえ、心理的圧迫や長期拘禁が実質的な強制として働くことは避けがたく、再審での自白撤回が難しい運用も多く見られました。

判決は個別事情に応じた幅があります。軽いものでは、公開悔悛、巡礼、罰金、贖罪衣の着用(サンベニート)、一定期間の収監や自宅軟禁が科されました。再犯・頑迷(オビスティナシオン)と判断された場合、教会法上の最高刑は破門であり、生命刑の執行は「世俗権力への引き渡し(セクルム・ブラキウム)」として外部に委ねられました。スペインでは「オート・ダ・フェ(信仰の行い)」と呼ばれる公開宣告式が行われ、宗教儀礼・王権の権威・都市の秩序が一体化した政治的イベントとなりました。没収財産は被告や一族の社会的地位を直撃し、抑止効果と同時に濫用の誘惑を生みました。

実務には豊富な手引書が存在します。代表例として、ベルナール・ギーの『審問実務手引』、ニコラウ・エイメリクの『審問官指針(1376)』があり、尋問技法、疑義命題、判決例が体系化されました。ローマでは教理審査の議事録と往復書簡が膨大に残り、知の監督が書記主義的に展開されたことが読み取れます。こうした文書群は、今日の歴史研究にとって一次史料の宝庫であり、制度の実像と地域差を検証する手がかりになっています。

地域差と著名事例:南仏・イベリア・イタリア、そして魔女裁判との関係

南フランスのラングドックでは、カタリ派に対するアルビジョワ十字軍(1209〜1229)とその後の審問が、地方貴族の自立や都市自治を抑え込む装置として働きました。ここでは軍事行動と司法手続が連動し、「異端」概念が領土秩序の再編に用いられた典型例となります。ワルド派に対する審問もアルプス周縁で長く続き、近世に至るまで散発的な弾圧と共存が繰り返されました。

スペインでは、改宗ユダヤ人や改宗ムスリムの「真誠性」を巡る監督が核心でした。出自による差別観念(血の純潔)と結びつき、社会的上昇競争や都市の嫉視と絡んで告発が相次ぎます。公開宣告式と資産没収は抑止と誇示の機能を持ち、王権の集権化に資しました。海外ではメキシコ・ペルーなど副王領にも審問所が置かれ、ユダヤ教密行(クリプトユダヤ教)や魔術・異説が監督対象となりました。とはいえ、スペイン審問が無差別な大量火刑を常に行ったわけではなく、時期により活動強度は変動し、多くの判決は悔悛・軽罰に留まったことも史料から確認できます。

イタリアのローマ異端審問は、学説・出版・科学の監督が目立ちます。1559年の禁書目録創設以降、神学・自然学・文学の書物が審査対象となり、修正や注釈付き許可が与えられるなど、全否定ではない「調整型検閲」も行われました。最も知られる事例がガリレオ事件(1633)で、地動説の主張と聖書解釈の整合性をめぐって、ローマ審問は言説の枠組みを強く制限しました。判決は棄教強制と自宅軟禁であり、異端の確定と科学の抑制が結びついた象徴的事件として記憶されています。

魔女裁判との関係については誤解が多いです。広域で大量処刑が発生したのはむしろドイツ・スイス・スコットランドなどの世俗・地方裁判所であり、ローマ審問やスペイン審問は相対的に懐疑的態度をとり、証拠基準を厳格化して冤罪の拡大を抑えた地域もありました。もちろん地域や時期によって例外はありますが、「異端審問=魔女大量処刑」という単純な図式は現在の研究では修正されています。

東方教会やプロテスタント側にも、異端に相当する内部統制は存在しました。たとえばカルヴァン派ジュネーヴのコンシストリ(教会規律委員会)は、教義と生活規範の監督を行い、反抗者を処分しました。つまり、異端ラベリングと秩序維持の装置は、宗派を越えて近世社会に広く見られる普遍的現象でもあります。

変容と終焉・記憶:近代国家・宗教寛容・制度の改編

宗教改革以後、ヨーロッパは「告白化」と呼ばれる国家単位の宗派秩序へ移行し、異端観は公認宗派からの逸脱という形で再定義されました。十八世紀の啓蒙と世俗化の進展は、宗教寛容と信教の自由の理念を広め、審問制度の正当性を掘り崩します。スペイン異端審問は十九世紀初頭の反動と自由主義の波にさらされ、最終的に1834年に廃止されました。ポルトガルは1821年に機能停止、ローマ審問は十九〜二十世紀を通じて教理審査機関として性格を改め、1965年に「教理省(信仰教理省)」へ、2022年には「教理省(教理省=今日の『教理省/教理省=信仰教理省』の後継)」として体制再編が続いています。

記憶の面では、異端審問はしばしば文学・絵画・映画で「暗黒の象徴」として再現され、近代の自由主義と対置されてきました。十九世紀のプロテスタント史観や自由主義史観は、カトリック教会の統制と知の抑圧を強調しましたが、二十世紀末以降の研究は、地域差・手続の多様性・量的実証(記録に基づく判決統計)を重視し、単純化された神話像を修正しています。これは弁護ではなく、制度の暴力性と同時に、当時の法文化・政治秩序・社会的不安に応答した面も併せて描こうとする姿勢です。

また、異端審問は「宗教と政治の境界」の課題を浮かび上がらせます。信仰の真偽は本来内面の問題ですが、中世・近世の共同体では、内面が秩序・忠誠・課税・婚姻・相続と密接に結びついていました。ゆえに国家と教会は、正統と逸脱を法の言葉に置き換えて統治しようとしたのです。近代以降の宗教自由は、この結びつきを解きほぐす試みであり、その長い前史として異端審問を位置づけると、制度の成立と終焉の双方がより立体的に理解できます。

総じて、異端審問は一枚岩の「残酷装置」ではなく、宗教・政治・法・社会が絡み合う歴史的制度でした。中世の教会刷新、近世の国家形成、知の管理、改宗者監督、そして近代の宗教自由へ至る過程の結節点として、地域ごとの実像と変化を丁寧にたどることが重要です。イメージ先行の断罪でも無条件の擁護でもなく、手続・文書・統計・具体事例に即して理解することが、現代的な学びにつながるのです。