イブン・サウード(アブドゥルアズィーズ・イブン・アブドゥッラフマーン・アル=サウード, 1875–1953)は、ナジュド内陸から台頭してヒジャーズを併合し、1932年にサウジアラビア王国を創建した建国君主です。宗教改革運動(一般にワッハーブ派と呼ばれるサラフィー的教説)と王権の提携を再編し、部族社会を再統合して国家を作り上げました。若年期に流浪と亡命を経験しつつ、1902年のリヤド奪回で名を挙げ、東部アル=アハサーの併合、ラシード家の制圧、ヒジャーズ征服、イフワーン(宗教的軍事集団)の反乱鎮圧を経て、王権の集権化を進めました。対外的には、英との保護・承認条約を足場に、国境画定(イラーク・クウェート・トランスヨルダン・イエメン)に応じ、1930年代に米資本へ石油利権を与えて産油国家の基盤を築きました。第二次世界大戦期の中立的調整、1945年のFDR(ルーズベルト)との会談、パレスチナ問題への関与など、20世紀中葉の中東政治における要石でもありました。統治はシャリーア(イスラーム法)と個人的支配の混淆で、宗教権威(ウラマー)との協働、婚姻・恩顧・ベイア(忠誠誓約)を通じた連合形成、そして漸進的な行政制度化という三層で理解できます。本項では、出自と台頭、国家形成と戦争、外交・石油・戦後、中核制度と遺産を整理して解説します。
出自と台頭――亡命からリヤド奪回、ナジュドの再統合へ
イブン・サウードは、第二サウード首長国崩壊後の混乱の中、クウェートに亡命して少年期・青年期を過ごしました。父アブドゥッラフマーンはアル=サバーハ家の庇護を得、若きアブドゥルアズィーズは湾岸の交易都市で部族・商人・英勢力の力学を体感します。この亡命経験は、のちの外交的現実主義と、都市の金銭経済に対する感覚を培ったと評価されます。
転機は1902年1月、少人数の急襲で故都リヤドのマスマク要塞を奪回した事件です。彼は奇襲と市内支持者の連携でラシード家の守備を破り、祖先の都を回復しました。以後、ナジュドの小オアシスを巡って同盟・婚姻・戦闘を重ね、徴税と保護のネットワークを復元します。この過程で、宗教指導層(ウラマー)との緊密な協働が再構築され、説教・裁判・寄進(ワクフ)を通じて統治の正統性が支えられました。
1913年には、オスマン帝国の影響下にあった東部アル=アハサー/カティーフを併合し、ペルシャ湾岸への出口とシーア派住民を含む多様性を国家に取り込みます。海岸の港湾・関税は歳入の柱となり、のちの石油開発の舞台もこの地域に置かれました。1915年には英とのダリーン条約で保護・補助金関係が明確化され、第一次世界大戦期は英の対オスマン戦略の一部として位置づけられます。
ナジュドでの軍事・社会動員の核心が、遊牧民の定住化と宗教訓育を兼ねた「ヒジュラ(移住)集落」と、そこから組織された宗教的軍事集団「イフワーン」でした。彼らは礼拝・断酒・禁煙・詠唱の規律で結束し、機動力と信念でもってライバル勢力に対峙します。部族の横断的再編と宗教規範の浸透は、王権にとって強力な推進力となりましたが、後に外征や国境停戦をめぐって王と対立する火種も孕んでいました。
国家形成と戦争――ラシード家の屈服、ヒジャーズ征服、イフワーン反乱と王国創設
1920年代初頭、ナジュドの宿敵ハーイルのラシード家は徐々に包囲され、1921年に屈服します。こうして内陸の覇権を確立したイブン・サウードは、西方へ矛先を向け、紅海沿岸のヒジャーズへ進出しました。ヒジャーズはメッカ・メディナの二聖都を含む地域で、第一次大戦期に英の支援で反オスマン蜂起を担ったハーシム家のフサイン王が支配していました。1924年、フサインが自ら「カリフ」を称したことは多方面の反発を招き、イブン・サウードの進攻を正当化する材料ともなりました。
1924–25年の戦役で、イブン・サウードはメッカとジェッダを制圧し、ヒジャーズ王位を継承します。聖地の統治は、ムスリム世界への影響力と同時に巨大な責務でもありました。彼は巡礼の安全・衛生・宿泊の改善を図りつつ、墓廟崇敬の抑制や儀礼の簡素化を進め、宗教政策の一貫性を示しました。1926年にはヒジャーズ王・ナジュド君主として戴冠し、1927年ジェッダ条約で英から主権の承認を得ます。国境は1922年ウカイール会議(クウェート・イラクとの線引き)、1934年タイフ条約(イエメン)などで段階的に画定されました。
しかし、最強の味方であったイフワーンは、国境停戦や英保護領への越境抑制、近代的通信・関税・車両導入などを「宗教的堕落」と見なして反発を強めます。1927年以降、小規模な抗争は拡大し、1929年のサビッラの戦いで王軍(外人将校の技術援助と機関銃・装甲車の優位を活用)が決定的勝利を収め、バンダール・ビン・ハミースら首領は敗走・降伏しました。イフワーンの残余はのちに王家親衛のための国民衛兵(サウジ・ナショナル・ガード)の源流として再編されます。宗教動員を統合し直し、暴走を抑え込むこの過程は、王国の中核制度が形成される臨界点でした。
1932年、ナジュドとヒジャーズは正式に「サウジアラビア王国(アル=マムラカ・アル=アラビーヤ・アッ=サウウーディーヤ)」として統合され、イブン・サウードが初代国王に就きます。彼は初期の個人的支配(マジュリスでの直裁、巡視・仲裁)を維持しつつ、シャーラ(諮問評議会、1924–26の流れ)や財務局、警察、司法機構の整備を進めました。紙幣・関税・旅券制度、巡礼管理の制度化は、王国の「行政の形」を整える取り組みでした。
外交・経済・石油――英承認から米石油利権、戦時・戦後の座標
国家の収入は、1930年代前半まで主として巡礼(ハッジ)関係の賦課と関税に依存していました。世界恐慌で巡礼者数が激減すると、王国は深刻な財政難に直面します。ここで決定的な転換が、1933年の米・カリフォルニア・スタンダード石油(のちのシェブロン)への利権供与でした。ダンマーム7号井(1938年)で商業的産出が始まり、のちにARAMCO(アラムコ)へ発展する合弁体制が確立します。王国は前金やロイヤルティを得て財政を立て直し、道路・港湾・無線・医療の近代化が徐々に進みました。東部州(アル=アハサー)の港ダンマーム・ラースタヌーラは、産油と輸出の心臓部となります。
対外関係では、英との関係が基層にありつつ、米との新しい連携が石油を通じて強まりました。第二次世界大戦期、サウジは名目中立を保ちながら連合国寄りの協力を行い、ダハラン飛行場の貸与など戦略的支援に応じます。1945年2月、イブン・サウードはスエズ運河上の米巡洋艦クインシー号でF・D・ルーズベルトと会談し、石油・安全保障・パレスチナ問題について意見を交わしました(いわゆる「クインシー会談」)。これは米・サウジ関係の象徴的原点として記憶されます。
アラブ地域では、1945年のアラブ連盟創設に参加し、パレスチナ分割・イスラエル建国をめぐってはアラブ側の立場を支持しました。1948年の第一次中東戦争では軍事的主役ではなかったものの、資金・物資・外交支援を通じて関与します。南方では1934年のサウジ・イエメン戦争が短期で終結し、タイフ条約で国境が確定しました。東のバハレーン・カタール・アラブ首長国連邦地域(当時は英保護領)との関係は、英を介した調整と石油利権の分有で管理されました。
戦後、王国の財政は石油収入で飛躍的に拡大しますが、急激な近代化を避けたイブン・サウードは、恩顧的配分と慎重な行政拡張で社会の安定を図りました。砂漠の辺境へも施療・井戸掘り・学校建設が進む一方、宗教規範の枠は維持され、聖域の秩序と巡礼管理は国王の威信の核心であり続けました。
統治の手法と遺産――宗教・部族・王家の三角形、評価の光と影
イブン・サウードの統治は、(1)宗教権威(ウラマー)との協働、(2)部族連合の再編と恩顧、(3)王家の拡大家族戦略、という三点で特徴づけられます。第一に、ナジュドの宗教学者は、法(シャリーア)の裁き、教育、勧善懲悪(ヒサバ)に関与し、王権の政策に宗教的正当化を与えました。宗教的規範—礼拝・断酒・賭博の禁止・装飾的墓廟の撤去—は社会秩序の基準となり、行政の人員・予算の不足を補う「道徳統治」の役割を果たしました。
第二に、部族は定住化(ヒジュラ)と徴税・軍役の体系に編み込まれ、マジュリスでの直訴・仲裁が日常政治の重要な場となりました。王は巡幸とベイア(忠誠誓約)で紐帯を更新し、恩賞・給与・武器供給で支持を固めます。イフワーン反乱後は、遊牧的軍事力の粗放な優位を抑え、王直属軍と「のちの国民衛兵」に分権的に再編することで、クーデターのリスクを低減しました。
第三に、王家は広範な婚姻政策で部族・都市エリートと結合し、後継者(サウード、ファイサル、ハーリド、ファハド等、後の国王たちを含む)を多数育てました。王の私的威信(カリスマ)と家産的資源配分は、制度が未整備な段階で国家を動かす代替装置として機能しましたが、同時に後継競争・派閥形成の潜在的な火種も残しました。1953年にイブン・サウードが没すると、長子サウードが即位し、弟ファイサルとの権限配分をめぐる緊張が表面化していきます。
行政制度の面では、財務・内務・外務・保健・教育の省庁化、司法の編成、税(ザカート中心)の整理、警察・沿岸警備の整備が進みました。奴隷制の慣行は当時の地域社会に広く残存しており、本格的廃止は後継のファイサル時代(1962年)に実現しますが、イブン・サウード期にも外圧と内政のバランスを見ながら規制が段階的に強化されました。ヒジャーズでは鉄路(ヒジャーズ鉄道の残骸を踏まえた輸送再編)、病院・検疫、巡礼者の警備・宿泊・交通整理が国家の責務として制度化され、近代行政の雛形となりました。
評価は二極性を帯びます。肯定的には、分裂と盗賊行為が頻発した半島内陸に治安と単一主権を回復し、聖地の安全と巡礼の秩序を確立した点、そして石油時代の入口で国家財政の基盤を築いた点が挙げられます。他方、宗教的規範の強制や墓廟・聖所の破壊、シーア派やスーフィーへの抑圧、言論と結社の制約は、文化的多様性と市民的自由の観点から厳しい批判を招いてきました。イフワーン反乱の鎮圧は国家建設の必要だったと擁護される一方、宗教動員を用いた拡張—統合—抑制という連鎖は、王権と宗教の危うい共依存を象徴します。
それでも、イブン・サウードの遺産は明瞭です。半島中央の小さなオアシス連合を、聖地を抱く主権国家へ変え、石油資本と結びつけた戦略的選択は、21世紀まで続く政治経済の枠組みを定めました。彼の統治スタイル—個人的裁断と宗教的正統性、恩顧と漸進的制度化の混成—は、後継世代の課題(制度の近代化と正統性の維持)を規定し続けています。リヤドのマスマク要塞の壁、ジェッダの古い関税局、ダンマームの油井、ダハランの滑走路は、彼の治世がもたらした四つの柱(領土・行政・石油・安全保障)をいまも物語っています。

