イブン・アブドゥル・ワッハーブ(Muhammad ibn ʿAbd al-Wahhāb, 1703/4–1792)は、18世紀のアラビア半島中部ナジュド地方で活動したイスラーム学者で、のちに「ワッハーブ派」と呼ばれる宗教運動の原点とされる人物です。彼はイスラームの中心教義である唯一神信仰(タウヒード)を徹底し、神以外への祈願や聖者崇拝、墓廟参拝、護符・呪術などを「多神崇拝(シルク)」や「異端(ビドア)」として厳しく退けました。この教説は、同時代のムスリム社会に広がっていた慣習宗教化への批判として支持を集め、地方支配者ムハンマド・ブン・サウードとの同盟(1744年頃)によって政治的後ろ盾を得ます。結果として、宗教改革運動は国家建設と結びつき、第一次サウード国家の拡張、そしてオスマン帝国・エジプト軍との対立という軍事的局面を招きました。彼の思想は、後世のサウジアラビア国家の宗教的基盤となり、サラフィー主義の一潮流として現代に影響を及ぼしていますが、同時に他宗派への不寛容や文化破壊の評価、過激主義との関係をめぐり激しい論争を呼んできました。本項では、生涯と歴史的背景、教説の核、同盟と国家形成、反発と論争、現代までの影響を、できるだけ分かりやすく整理します。
生涯と歴史的背景――ナジュドの宗教学者から改革運動の指導者へ
イブン・アブドゥル・ワッハーブは、アラビア半島の内陸ナジュドの町ウヤイナやフライヤで宗教教育を受け、青年期にヒジャーズ(メッカ・メディナ)やイラク方面へ遊学したと伝えられます。彼が学んだ法学学派はハンバル学派で、啓典とスンナに直接立ち帰る実証主義、そして信仰実践における厳格さに特色がありました。中世の大思想家イブン・タイミーヤ(1263–1328)や弟子イブン・カイイムの教説に強く影響を受け、聖者崇敬・墓廟参詣・願掛け・護符といった民間信仰を、唯一神信仰の純粋性を汚すものとして批判する姿勢を固めていきます。
18世紀のアラビアは、オスマン帝国の名目的宗主権の下で地方支配者が割拠し、商隊交易・巡礼経済に依存する地域も多かった一方、内陸部では部族社会が自律的に動いていました。宗教的には、スーフィーヤ(イスラーム神秘主義)の教団や聖者廟崇敬が広く浸透し、地域の社交と結びついていました。こうした環境の中で、イブン・アブドゥル・ワッハーブの「原理に回帰する改革」は、都市の法学者だけでなく、部族社会の首長層にも一定の吸引力を持ちました。彼は説教と書簡、短編論考を通じて、タウヒードの純化と慣習の改変を粘り強く説き、地域の支配者との協力関係を模索します。
運動の転機は1744年頃、ナジュドのディルイーヤを拠点とするムハンマド・ブン・サウードとの同盟にありました。イブン・アブドゥル・ワッハーブは宗教指導と法学判断(ファトワー)を担い、サウード家は軍事と行政を担う「剣とペン」の分業を約して、布教と統合を進めます。宗教改革が政治権力と結合するこの構図は、のちのサウード国家に受け継がれる持続的な特徴となりました。
教説の中核――タウヒードの徹底、シルクとビドアの排除、信仰と法の関係
彼の著作は長大な体系書ではなく、講話をまとめた小冊子や書簡、注釈が中心です。もっとも知られる『タウヒードの書(Kitāb al-Tawḥīd)』は、神の唯一性をあらゆる生活行為に貫くことを説き、祈願・誓願・恐れ・愛といった宗教的諸行為を神のみに向けるべきだと論じます。神以外の仲介者(預言者・聖者・天使・ジン)に祈り求めること、墓廟に祭壇を設けて願いをかけること、護符や呪文に救済を期待することなどは、程度に応じて「小さな多神崇拝」から「大きな多神崇拝」に分類され、悔い改めと廃棄が求められます。
『疑念の解明(Kashf al-Shubuhāt)』や『四つの原則(al-Qawāʿid al-Arbaʿ)』『三つの根本(al-Uṣūl al-Thalātha)』は、一般信徒が具体的に何を避け、何を信じるべきかを箇条書き的に示す実践書です。形式は素朴ですが、霊廟崇敬の正当化論法(「我々は偶像を崇拝していない、取り次ぎを頼むだけだ」等)を一つずつ検討し、啓典の文言に照らして退ける構造になっています。ここでは、信仰(イーマーン)の定義が厳しく、心の承認だけでなく言葉と行いの一致が重視されます。
批判の矛先はスーフィー教団やシーア派の聖者崇敬に向かうことが多く、墓廟の撤去、聖樹・聖石の破壊といった実践を伴いました。これにより、地域の宗教文化や巡礼経済に大きな変化が生じ、周辺勢力との緊張を生みました。他方、彼の法学判断は、ハンバル学派の伝統に沿いつつ日常生活を律する規範(酒・賭博・高利貸しの禁止、礼拝の厳守、徴税の簡素化など)を明確化し、部族社会の統合にも役立った面があります。
重要な論点に「タクフィール(不信の宣言)」の扱いがあります。イブン・アブドゥル・ワッハーブは、明白な多神崇拝や宗教義務の否認に対しては厳しく臨む一方、誤解や無知に基づく行為には教育と説得を優先し、個々の状況判断を重んじる旨をしばしば書簡に記しています。後世の一部過激派が容易にタクフィールを乱発したのに比べ、彼自身は原理主義的でありながら、法学的手続きと段階を意識した慎重な側面も持っていました。
同盟と国家形成――ディルイーヤの台頭、第一次サウード国家の拡張と挫折
宗教と政治の同盟は、ナジュドの部族社会を横断する新しい統合原理をもたらしました。説教と裁き(シャリーア裁判)で信仰の一体性を強めつつ、サウード家の軍事行動が近隣の町とオアシスを取り込み、徴税と保護の関係を張り巡らせます。礼拝と課税の単純で明快な枠組み、治安の回復、隊商路の安全は、商人層や農耕民にも一定の利益をもたらしました。
18世紀末から19世紀初頭にかけて、第一次サウード国家はナジュドを越えて東西へ拡張し、ヒジャーズの聖地メッカ・メディナを一時掌握するまでになります。聖地での墓廟撤去や儀礼簡素化は、オスマン帝国側にとって看過できない挑戦であり、宗教的正統性と政治的威信の問題に直結しました。結果として、オスマンの属臣であるエジプト総督ムハンマド・アリーの軍勢が派遣され、1818年にディルイーヤは陥落、第一次国家は崩壊します(この時点でイブン・アブドゥル・ワッハーブはすでに没しています)。
それでも、宗教—王権同盟のモデルは消えず、のちに第二次・第三次(現サウジアラビア王国)へと再興されます。宗教学者(ウラマー)の家系とサウード家が相互に正統性を補完する構図は、20世紀の石油国家の形成にも貫かれました。王国は近代的官僚制と教育制度、宗教指導機関を整備し、ウラマーは司法・教育・勧善懲悪委員会などで公的役割を果たします。
反発と論争――他宗派からの批判、文化破壊と不寛容の問題、学術的再評価
イブン・アブドゥル・ワッハーブの運動は、発足当初から激しい反発に直面しました。シーア派の聖地やスーフィーの霊廟が破壊の対象となったことで、宗派間の緊張は高まり、詩や年代記には「ナジュドの新奇の徒」への批判が記録されます。ハンナービル法学の内部からも、「ビドアの線引きが過度に広い」「伝統的慣習の中に許容すべき余地がある」といった異論が呈されました。聖者崇敬や仲介観念を「純粋な多神崇拝」と直結させる論法は、宗教学的には単純化に過ぎるという批判もあります。
一方で、近年の研究は、18世紀の彼のテキストを文脈に置いて読むことの重要性を強調します。イブン・タイミーヤ以来の「純化の思考」は彼固有の発明ではなく、イスラーム史の内部で繰り返し現れた改革の一形態でした。また、墓廟破壊などの過激な実践は、すべてが初期から一貫していたわけではなく、政治的軍事的環境の変化や現地の事情に反応してエスカレートした側面があります。彼をめぐる評価は、単なる「狂信的破壊者」から「啓典主義的改革者」まで広いスペクトルを持ち、史料の読み方によって輪郭が揺れます。
過激主義との連関をめぐる議論も厄介です。20世紀末以降のジハード主義は、しばしば「ワッハーブ主義」と混同されますが、国家権威を否定し世界規模の武装闘争を鼓舞する思想は、イブン・アブドゥル・ワッハーブ自身の枠組みからは外れる点が少なくありません。彼の運動はむしろ、特定の政治権力(サウード家)と結びついて地域秩序を再編するプロジェクトであり、タクフィールや武力行使の条件も法学的に制約されていました。ただし、タウヒード純化の厳格さやビドア批判の鋭さが、後世において排他主義や暴力正当化の資源として利用され得たことも否定できず、この「距離と連続」の見極めが研究と社会論争の焦点になっています。
近現代への影響――サウジ国家、サラフィー主義、教育と外交の交差
現代サウジアラビアでは、イブン・アブドゥル・ワッハーブの教説は教科書・説教・司法の基礎に位置づけられてきました。20世紀の石油収入は、モスク・学校・大学・福祉の拡充と海外への宗教教育支援を可能にし、サラフィー的教説が世界各地のムスリム社会へ広がる一因となりました。礼拝・斎戒・衣装・性別分業・娯楽規制など、社会規範の厳格化は、都市化・若年化・グローバル化の進行とともに調整を迫られ、21世紀にかけては法制度や生活慣習の一部で緩和・再編が試みられています。
思想史の文脈では、「サラフィー主義」という広い傘の下で、法学的純化・慣習批判・初代共同体の模倣という三要素が共有され、イブン・アブドゥル・ワッハーブはその近世の代表例とみなされます。19世紀のインドやエジプト、北アフリカでも、聖者崇敬や霊廟を批判し、啓典へ立ち返る運動が同時多発的に起きており、近代化・帝国主義の衝撃の中でイスラームの規範を再定義しようとした潮流の一角を占めます。彼の簡潔な小冊子群は、初学者の教材として今も読まれ続け、タウヒード論の定型を提供しています。
国際政治の場面では、サウジ王国の外交・資金援助と宗教影響力が結びつくことで、「ワッハーブ主義の輸出」という評価と批判が生まれました。ある国では教育・慈善の名で宗教施設や奨学金が提供され、別の国では既存の宗派勢力との摩擦を呼ぶこともありました。宗派間対話や多様性の尊重と、規範の純化という理念の折り合いは、21世紀の課題として続いています。
まとめに代えて――人物像を立体的にとらえる視角
イブン・アブドゥル・ワッハーブを理解するには、三つの層を同時に見ることが役立ちます。第一に、啓典中心・初期イスラーム回帰という学説の筋で、タウヒードを生活の隅々まで徹底しようとした宗教改革者としての顔です。第二に、ナジュドの社会統合と国家建設に寄与した実務家としての顔で、書簡・説教・裁判を通じて規範と秩序を作り直した点です。第三に、他宗派や文化実践を容赦なく切断した排除の矛先という、負の遺産です。この三層を歴史の文脈の中で組み合わせるとき、彼の運動がなぜ支持を集め、なぜ激しい反発を招き、なぜ今も論争の火種であり続けるのかが見えてきます。人物像を単純化せず、テキストと実践、宗教と政治、地域史と世界史の交差点として読むことが重要です。

