「イリ事件」とは、1944年に中国新疆北西部のイリ地方(伊犁、中心都市はクルジャ/イーニン)で起きた武装蜂起と、その後に成立した「東トルキスタン共和国(第二次)」をめぐる一連の出来事を指す呼称です。現地のウイグル、カザフ、キルギス、タタールなどの人びとが中心となり、国民政府(中華民国)の新疆省政府と対立しながら、イリ・塔城・阿勒泰の「三区」を実効支配しました。背後にはソ連の軍事・政治的な支援があり、地元勢力と外部勢力の思惑が重なって複雑な展開をたどりました。最終的には1949年の中華人民共和国成立と人民解放軍の新疆進駐にともない、東トルキスタン共和国は解体され、地域は新体制に組み込まれました。
この出来事の要点は三つあります。第一に、蜂起は突然の暴発ではなく、1930年代から積み重なった政治的不安と民族間の緊張、経済的困窮、統治の混乱が背景にありました。第二に、イリ地方の運動は純粋な分離独立だけでなく、自治と権利の拡大、旧来の権力への不満の解消を求める要素が交錯していました。第三に、ソ連と国民政府、のちには中国共産党という外部・中央の力が、交渉と武力のバランスを左右し、地域の将来を決定づけました。物語はトロイの木馬のような一発の奇策ではなく、局地戦・停戦・共同政府・再戦という段階を繰り返す「せめぎ合いの連続」でした。
なお、日本語の文献では、19世紀末にロシア帝国が「イリ地方(伊犁)」を一時占領した事件(いわゆるイリ危機、1881年のサンクトペテルブルク条約で返還)をも、慣習的に「イリ事件」と呼ぶことがあります。本稿では混同を避けるため、1944年の蜂起と「第二次東トルキスタン共和国」を中心に解説します。
背景――新疆の政治構造、列強の影、民族と統治のずれ
20世紀前半の新疆は、中央政権との距離が遠く、軍閥的な統治と外部勢力の影響が色濃い地域でした。1930年代には盛世才(シェン・シーツァイ)が権勢をふるい、当初はソ連と緊密に結びつきつつ、治安維持や近代化を掲げて統治を進めました。ソ連からの借款、軍事顧問、技術支援が新疆の政治と経済を支え、対外依存と引き換えに安定を得る構図ができあがりました。
ところが、第二次世界大戦の拡大と独ソ戦の勃発により、情勢は一変します。盛世才は1942年ごろから反ソ的な態度を強め、国民政府への接近を図りました。同時に強権的な統治、摘発と粛清が相次ぎ、政治犯の増加や民族間の不信が深まります。とりわけイリや阿勒泰など北西部では、課税や徴発、役人の不正、言語・宗教をめぐる圧迫感が蓄積し、行政への不満が臨界に達していました。
民族構成の多様さも、火種と緩衝の両面を持ちました。オアシス都市のウイグル、草原のカザフやキルギス、都市の回族・漢人・タタール・ウズベクなどが混在し、それぞれの生活基盤と慣習、宗教教育の仕組みが異なりました。言語や学校、司法や徴税の運用で一方に偏りが出ると、すぐに不満が噴出しました。1930年代の反乱の記憶(第一次東トルキスタン共和国[1933-34]の短命な成立と崩壊)も、期待と警戒を同時に残していました。
1944年、盛世才は中央からの召還に応じて新疆を離れ、新疆省政府の指導権は国民政府の任命する人物へ移ります。しかし、官僚と治安機構の硬直、物資不足とインフレ、戦時下の輸送網の脆弱さは改善せず、イリの不満は鎮まるどころか拡大しました。北の国境を接するソ連は、軍事顧問や物資の供与を通じてイリ地方の有力者と連絡を取り、情勢を注視していました。
こうした中で、「自治」「権利の回復」「不正の是正」を掲げる運動が次第に武装化し、地方の指導者や宗教人士、知識人、牧畜民の戦士集団が蜂起の準備を進めることになります。外部の支援が火薬に、長年の不満が火種に、政治の空白が酸素に相当し、爆発は時間の問題となっていました。
蜂起と「東トルキスタン共和国(第二次)」の成立
1944年11月、イリ地方の中心都市クルジャ(現・イーニン/伊寧)で武装蜂起が発生しました。蜂起軍は素早く行政の要点を掌握し、周辺の町村を押さえながら、イリ谷地に独自の統治機構を整えていきます。まもなくイリ・塔城(タルバガタイ)・阿勒泰(アルタイ)の三地域を実効支配する体制が固まり、ここから「三区革命(三区運動)」という呼称が生まれました。
蜂起勢力は、のちに「東トルキスタン共和国(第二次)」と呼ばれる政権を組織します。初期の象徴的な指導者としてはアリー・ハーン・トゥーラ(アリハン・トゥーラ)が知られますが、まもなく政権中枢は集団指導体制に移り、エヘメトジャン・カスィミ、アブドゥルケリム・アッバース、イスハク・ベグ(イサク・ベク)、ダリルカン(ダレルハン)らが政治・軍事の要に就きました。軍事面では「イリ民族軍」が編成され、ソ連側からの装備供与や顧問の助言、訓練の支援を受けたと広く認識されています。
新政権は、言語・教育・司法の改革を掲げ、現地語の使用拡大や徴税の見直し、役人の腐敗追及などを進めました。新聞や学校を通じて住民の支持を固め、徴兵と民兵組織化で軍の基盤を広げます。他方で、急速な体制整備は内部の対立も生みました。部族や地域ごとの利害、宗教権威と近代行政の調整、ソ連への依存をめぐる評価の違いが表面化し、方針の一本化は容易ではありませんでした。
国民政府側は、ウルムチ(迪化)を拠点に反撃体制を整えますが、当初は戦力の分散と士気の不統一に苦しみました。戦線は局地的に激しく動き、交通の要衝や牧地・鉱山の掌握をめぐって小競り合いが続きます。冬季の厳しい寒さと長距離の補給線は、どちらの側にも重い負担となりました。
停戦・共同政府・再緊張――「三区」と省政府のせめぎ合い
1945年、対日戦争の終結と並行して、中国国内でも新疆情勢の安定化が求められるようになりました。国民政府は交渉による沈静化を図り、新疆省政府の長として張治中を送り込みます。張は協議の場を設け、「三区」側の政治参加と自治的権限を一定程度認める代わりに、全体としては省の枠組みに復帰させることを目指しました。
この結果、名目的には省の共同政府が成立し、「三区」の指導者が要職に就く体制が一時的に実現します。行政文書に現地語が併記される、教育現場での現地語使用が進む、徴税や治安の運用で「三区」の裁量が広がるなど、目に見える変化もありました。国民政府は同時に、軍の再編と補給改善を急ぎ、ウルムチ周辺の掌握を固めていきます。
しかし、停戦と共同政府は長続きしませんでした。前線では小規模な衝突がくすぶり続け、双方の宣伝合戦は納まらず、特に草原部のカザフ首長の一部は独自の路線を歩み、同盟と離反を繰り返しました。オスパン・バトゥルのように、時に「三区」と協調し、時に国民政府に接近する指導者も現れ、地域ごとの駆け引きは複雑化しました。
加えて、ソ連と国民政府の関係、中国内戦の帰趨など、大国・本土側の事情が新疆の現場に波及しました。燃料・弾薬・食糧の流れ、通信線の維持、関係者の往来に少しでも変動が生じると、たちまち前線の勢力均衡が崩れます。和平の枠を残しつつも、実態は「不安定な共存」といった方が近い状況が続きました。
1949年の転機と収束――飛行機事故、進駐、体制の移行
1949年、中国本土では中国共産党が国共内戦で優勢となり、政権交代が視野に入りました。新疆でも情勢は急転し、国民政府系の要人の一部は内地へ退き、他方で地方の武装勢力は新体制との関係構築を模索します。こうした中、「三区」を代表する指導者団が新政権樹立に向けた政治会議へ向かう途中、ソ連領内で航空機事故に遭い、エヘメトジャン・カスィミらが死亡したと発表されました。この出来事は後の記憶に大きな影を落としますが、詳細は諸説があり、当時から真相をめぐる憶測が絶えませんでした。
同年秋、人民解放軍は新疆へ進駐し、ウルムチをはじめ主要都市は大きな抵抗なく新体制に移行しました。「三区」系の部隊や行政は段階的に編入・再編され、東トルキスタン共和国(第二次)は名実ともに終幕を迎えます。1950年代初頭にかけて、土地と牧地の管理、税制、教育、軍の組織などが新体制の制度に合わせられ、1955年には新疆ウイグル自治区が設置されました。
この一連の過程で、「イリ事件」は単発の蜂起ではなく、地方自治の要求、民族的権利の主張、行政改革の必要、列強の地政学的利益が絡み合った長い駆け引きであったことがはっきりしました。現地社会から見れば、学校と言語、法廷と税、牧地の移動と交易の自由、宗教実践の余地といった日常的な課題が、本土政治と国際政治の大きな波の中で左右された時期だったのです。
また、用語の面でも注意が要ります。「東トルキスタン共和国」といっても、1933-34年の第一次政権と、1944年に始まる第二次政権は性格と規模が異なり、どちらも新疆全域を一括支配したわけではありません。「三区革命」は地理的にも限定され、ウルムチや南疆のオアシス地帯は別の勢力の管理下にありました。したがって、「イリ事件」を理解するには、地域差と時期差を見分ける視点が欠かせません。
総じて、「イリ事件」は、戦時と内戦の狭間で揺れる辺境において、地方の主体と外部勢力、中央政府が互いに譲歩と圧力を重ねた結果として生まれた政治的現実でした。蜂起の発端から共同政府の模索、1949年の政変と編入までの道のりは、単純な勝敗では表せない複層的なプロセスで構成されていました。今日に伝わる資料や回想には立場ごとの見え方の違いがあり、イリの谷に生きた人びとの経験の厚みを読み取ることができます。ここでは価値判断を離れ、出来事の筋道と語彙を整理しました。名称の混同に注意しつつ、いつ・どこで・だれが・なにを・どのように行ったのかという手がかりを押さえておけば、「イリ事件」という用語は、20世紀ユーラシアの周縁で生じた重要な政治過程を示す具体的な言葉として理解できるはずです。

