インド自治の約束 – 世界史用語集

「インド自治の約束」とは、第一次世界大戦期の1917年にイギリス政府が表明した、インドにおける自治(self-government)を段階的に拡大していくという政策方針を指す通称です。これは当時のインド相モンタギュー(Edwin S. Montagu)が声明で示したもので、のちの1919年インド統治法(いわゆるモンフォード改革)へとつながり、植民地統治を「永続的な専制」から「段階的な権限移譲」へと方向づけました。すぐに完全独立が与えられたわけではありませんが、宗主国が公的に自治拡大を約束した点で大きな節目となり、その後のサイモン委員会、円卓会議、1935年インド統治法、第二次大戦期のオーガスト・オファーやクリップス案へと続く交渉の出発点になりました。インド側から見れば、約束はしばしば「遅く、狭く、条件だらけ」でしたが、それでも政治参加を押し広げ、最終的な独立への道筋を現実化させる梃子として機能したのです。

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背景と宣言の中身:なぜ1917年に「約束」されたのか

第一次世界大戦は、英領インドにとって兵士・資金・物資の動員という巨大な負担を意味しました。インドの都市エリートと農村社会は、戦争協力の見返りとして政治的権利の拡大を求めるようになり、同時期に高揚したホーム・ルール運動(ティラク、アニー・ベサントら)も自治要求を可視化しました。こうした状況のもと、1917年8月にインド相に就任したモンタギューは、インド視察ののち11月に声明を発し、「インドにおける自治の実現を最終目標とし、そのため権限と責任を段階的にインド人へ移す」との方針を公的に打ち出しました。

この「モンタギュー宣言」は、曖昧さを残しつつも三つの点で画期的でした。第一に、英政府がはじめて「自治(self-government)」をインド統治の最終目標として明言したことです。第二に、その実現を「段階的(progressive)」「責任の付与(association of Indians in every branch of the administration)」という具体的文言で示し、行政・立法の双方でインド人の役割拡大を予定したことです。第三に、実施設計をインド総督(副王)チェルムスフォードとの共同報告で詰め、近い将来に制度改革(立法評議会の拡大、州政府での責任内閣化)を行う道筋を付けたことです。

もちろん、この宣言はインド側のすべての期待に応えるものではありませんでした。「最終目標」を掲げながら達成時期を定めない、連邦中央は依然として皇帝(王冠)と副王の権限が強い、治安・財政の核心は当面イギリス側が握る、など多くの留保が付いていました。それでも、植民地統治を正当化してきた旧来の論理—「インドは自らを統治できない」—からの転換を公式に記した点で、歴史的意味は小さくありませんでした。

制度化のプロセス:モンフォード改革(1919年)と二元統治

宣言を受け、モンタギューと副王チェルムスフォードは共同報告をまとめ、1919年インド統治法の制定へとつなげました。これが通称「モンフォード改革」で、具体的には州レベルの行政に「二元統治(dyarchy)」を導入し、行政分野を二つに分けました。すなわち、治安・警察・土地収用・通信・税関などの「留保科目(reserved subjects)」は総督(州知事)と官僚が掌握し、教育・保健・農業・地方自治・公共工事などの「移譲科目(transferred subjects)」は選挙で選ばれた州立法会の多数派に基づく「責任大臣」が担当するという仕組みです。これにより、州の一部分野でインド人政治家が実務を担う道が開かれました。

立法面では、中央・州ともに評議会が拡充され、選挙権が段階的に広がりました。中央の立法評議会は二院制に近い構えを整え、予算や法案に対する審議権・質問権が拡大します。とはいえ、中央には依然として副王の拒否権や勅許、行政命令による介入が残り、外交・防衛・財政の大枠はロンドン—デリーの官僚機構が押さえ続けました。選挙制度も、識字・納税などの財産資格によって有権者が限定され、宗派・利益団体ごとの別個選挙区(コミュナル・エレクレトレイト)が維持・拡張されるなど、分割統治のロジックが制度に組み込まれました。

それでも、州の責任大臣制は、政治家に行政経験を与えたという点で重要でした。教育・保健・農村開発などの分野で具体的な政策が動き、官僚と政治の協働や対立の経験が蓄積されます。この経験は、のちの1937年選挙後に本格化する州内閣の運営、さらに独立後の州・連邦レベルの統治を担う人材育成につながりました。「自治の約束」は、いわば政治実務の訓練の場をインド社会の内部に設けたとも言えるのです。

反応と波紋:期待、失望、そして運動の高揚

モンフォード改革に対するインド社会の反応は複雑でした。穏健な立憲派の一部は、権限移譲の第一歩として改革の実施に協力し、評議会の場で教育予算や地方自治の拡充を進めました。他方、国民運動の急進化を主導したガンディーは、1919年のローラット法(戦時特例の恒久化)に強く反対し、非暴力・不服従の全国運動を展開します。同年4月のアムリトサル(ジャリアーンワーラー・バーグ)での惨劇は、改革の「懐柔」と弾圧の「強権」が同時進行する現実を露わにし、自治の約束に対する不信を深めました。

ムスリム側でも、オスマン帝国のスルタン=カリフの地位をめぐるハリーファット運動が燃え上がり、非協力運動と合流して宗派横断の大衆動員が生まれました。都市の中間層、商人、学生、女性、農民が、ボイコット・スワデーシー・税の拒否・自治学校の設置などに参加し、政治の重心は請願から街頭へと大きく移動します。こうした大衆化は、議会制の経験拡大と背中合わせに、植民地国家の正統性を大きく揺るがせました。

モンフォード改革の限界も、短期間で明らかになりました。州の責任大臣は予算や人事で知事の拒否権にしばしば突き当たり、治安・財政の要を握られたままでは改革の実効性に限界があることが露呈します。中央の立法評議会でも、重要法案は最終的に副王が押し切れる構造が残り、自治の実質化は遅々として進みませんでした。その結果、インド側の要求は「自治の拡大」から「支配の根本的転換」へと駒を進め、1920年代後半にはサイモン委員会へのボイコット、ネルー報告書(統一国家・普通選挙の提唱)、そして1929年ラホール大会での「完全独立」宣言へとつながっていきます。

その後の「約束」と連続性:1935年法、戦時の提案、独立への帰結

1917年の「自治の約束」は、その後も形を変えて繰り返されました。1927年に派遣されたサイモン委員会はインド人委員を欠く構成だったため全面的なボイコットに直面し、代案としてネルー報告書が提示されます。1930~32年の円卓会議では、自治の拡大原則は共有されつつも、中央の権限配分や別個選挙区、藩王国の地位をめぐって合意は難航しました。結局、1935年インド統治法が制定され、州レベルでは責任内閣制が(今度は二元統治を超えて)大幅に実現し、1937年選挙で議会が多くの州政府を担当することになります。一方で、連邦中央の責任政府化は条件付きのまま見送られ、主権の核心は依然として王冠—副王の側に残されました。

第二次世界大戦中、イギリスはインドの協力を得るために再び「約束」を提示します。1940年のオーガスト・オファーは、戦後にインド人主体で憲法制定に進むこと、少数者の同意を尊重することなどを掲げましたが、具体性に乏しいと受け止められました。1942年のクリップス使節は、戦後に自治領(ドミニオン)地位を認め、州の離脱権にも言及する大胆な提案を持ち込みますが、戦時内閣参加の条件や防衛権の扱いで合意に至らず、議会はクィット・インディア運動へと踏み切ります。戦後にはキャビネット・ミッションが到来し、制憲議会と連邦構想をめぐる最終交渉が行われ、1947年の分割独立、1950年の共和制移行に至りました。

この長い過程を貫くのは、「自治の約束」と「実施の遅延・限定化」という反復です。イギリス側は帝国防衛と少数者保護、統治の漸進主義を掲げて権限移譲を分割し、インド側はその網目をくぐり抜けて参加領域を拡張しつつ、街頭・法廷・交渉のすべてで圧力を強めました。結果として、「約束」は単なるレトリックではなく、制度と運動の相互作用を誘発する「開かれた扉」として働き、最終的に主権の移譲を不可逆化させたと評価できます。

総じて「インド自治の約束」は、植民地統治のもとで〈約束—改革—抵抗—再約束〉が連鎖する独特の政治力学を示す用語です。1917年のモンタギュー宣言は、その連鎖の第一の節目として、自治の理念を制度へと翻訳する回路を開きました。そこから1935年法、戦時の提案群、独立・制憲へと続く道筋をたどることで、インドがどのように「与えられた改革」を「自らの統治」へ変換していったのかが見えてきます。約束は遅く不完全でしたが、その不完全さゆえにこそ、インド社会は交渉と動員を繰り返し、最終的な主権獲得へと歩みを進めたのです。