インド国民議会 – 世界史用語集

インド国民議会(Indian National Congress, INC)は、19世紀末に創設され、イギリス植民地支配下のインドにおける国民運動の中核として発展し、最終的に独立を実現へ導いた政治組織です。創設当初はエリート層の請願団体に近い性格でしたが、20世紀に入るとスワデーシー運動やガンディーの非暴力・不服従運動を通じて大衆政党へと変貌しました。1929年の「完全独立(プールナ・スワラージ)」宣言、1930年代の地方自治政府の運営、1942年の「インド退去(クィット・インディア)」運動などを経て、1947年の独立・分割に至る過程で決定的な役割を果たしました。独立後は長く与党としてインド国家の制度設計と政策の方向を主導し、今日までインド政治の基盤に深く関わっています。本稿では、成立と前史、運動の展開と組織変容、独立実現への道筋、独立後の政党としての歩みを、できるだけ平易に整理します。

スポンサーリンク

成立と前史:エリートの請願団体から全国組織へ

インド国民議会は1885年、A・O・ヒューム(イギリス人官僚)やダーダーバーイー・ナオロージー、ウメーシュ・チャンドラ・ボース、ウォメシュ・チャンドラ・ボネルジーらの呼びかけでボンベイにおいて設立されました。背景には、英領統治の下で教育を受けた都市エリート層の間に、行政参加の拡大、司法・財政の透明化、言論の自由の確保といった近代的権利要求が高まっていたことがあります。創設期の議会は年次総会で決議を採択し、ロンドンやカルカッタの官庁に請願・陳情を重ねる穏健なスタイルを取りました。代表的な要求には、立法評議会の拡充、インド文官(ICS)試験の国内実施と差別是正、土地税改革、教育予算の増額などが挙げられます。

しかし、19世紀末から20世紀初頭にかけて、英領当局の抑圧や経済不況、ベンガル分割(1905年)への反発が広がると、議会内部で方針の違いが鮮明になります。ゴーカレーやナオロージーに代表される穏健派に対し、ティラク、ララ・ラジパト・ラーイ、ビピン・チャンドラ・パールらの「急進派(三頭同盟)」は、スワデーシー(国産品愛用)、ボイコット、民族教育、ナショナル・ボランティア(サバ・サマージ)の動員を掲げて、請願中心の路線を批判しました。スラト大会(1907年)では両派の対立が決定的となり、議会は一時分裂的な局面を迎えます。

第一次世界大戦期には、徴兵や戦費負担の増大を背景に、自治要求が加速しました。1916年のラクナウ協定は、国民議会と全インド・ムスリム連盟が選挙区と議席配分の原則で合意し、宗派横断の政治的連帯を図った重要な出来事でした。同時期、ホーム・ルール運動(バラ・ガンガーダル・ティラク、アニー・ベサントら)が自治拡大を求め、議会の外でも自治要求の声が強まります。

ガンディーの登場と大衆化:非協力・不服従・完全独立の宣言

1919年のローラット法(保安法)やアムリトサルの惨殺事件(ジャリアーンワーラー・バーグ事件)は、植民地統治の強権性を白日の下にさらし、運動の質を変える転機となりました。南アフリカでの経験を持つモーハンダース・ガンディーは、非暴力(アヒンサー)と真理把持(サティヤーグラハ)を掲げ、議会の運動に大衆参加の回路を開きます。1920~22年の第一次非協力運動では、官職辞退、政府学校・裁判所のボイコット、スワデーシー布(カーディー)の推進、酒税反対、集会とデモが全国に広がりました。1922年のチャウリ・チャウラ事件(暴徒化と警官隊殺害)を受けてガンディーは運動中止と自己責任を宣言し、非暴力原則の徹底を図ります。

1928年、ネルー委員会案とサイモン委員会の問題が交錯するなかで、議会は自治領(ドミニオン)か完全独立かで議論を重ね、最終的に1929年ラホール大会でジャワーハルラール・ネルーを議長に選び、「プールナ・スワラージ(完全独立)」を正式に採択しました。1930年にはガンディーが塩の行進を率い、法に基づく塩税の不当を示す象徴的行動が全国の市民を動員しました。第二次不服従運動(1930~34年)は、逮捕・弾圧と交渉(円卓会議)を繰り返しながら、英印関係の非対称性を世界に可視化しました。

運動の大衆化は、都市中間層に限らず、農民・労働者・女性・不可触民(のちの指定カースト)に広がりました。サロージニー・ナイドゥー、アニー・ベサント、カマラ・ネルー、アローナ・アスファリらの女性活動家が前面に立ち、グジャラート、ビハール、ユナイテッド・プロヴィンシズなどで農村の非納税・地代拒否、製塩や織布の実践が地域社会を巻き込みました。1931年のカラチ大会では「基本的権利と経済計画綱領」が採択され、表現の自由・信教の自由・男女同権・労働時間・最低賃金・労働者の団結権などが明確に掲げられました。これは、独立後の基本権思想の土台となる重要な宣言でした。

一方で、議会内部の意見は一枚岩ではありませんでした。スバス・チャンドラ・ボースは急進的な対英闘争と計画経済を主張し、1939年のトリプーリ大会で議長に選出されたものの、ガンディー派と対立して離脱し、前線からの武装闘争を模索しました。B・R・アンベードカルは、不可触民の政治的代表権と社会改革を優先し、ガンディーの共同有権制への反対とポーナ協定(1932年)を経て、独自の社会正義路線を歩みました。こうした緊張は、議会が「運動の連合体」であり続けたことを物語ります。

制度運営と独立への道:1935年法、州政権、第二次大戦、クィット・インディア

1935年インド統治法は、州レベルでの責任内閣制を導入し、選挙を通じた自治の拡大を図りました。1937年選挙の結果、議会はベンガルを除く多くの州で政権を獲得し、教育・農村救済・労働保護・言語政策などの改革に着手しました。州閣僚の行政経験は、独立後の統治に不可欠な人材育成の場となり、ネルー、パテール、アザード、ラジゴパラチャーリ、ゴビンド・バラブ・パンティらの指導層が行政の実務を学びました。

1939年に第二次世界大戦が勃発すると、英領政府はインドの意向を問わず参戦を宣言しました。議会は無条件の参戦に抗議して州内閣を総辞職させ、戦時協力の条件として独立の確約を求めました。1942年、クィット・インディア決議が採択され、ガンディーは「インドを去れ」と呼びかけます。指導部は即時に逮捕・拘束され、地方では鉄道・通信の破壊、集会、ストライキが断続的に起こりましたが、強力な弾圧の前に指導なき運動となり、多くの犠牲を出しました。戦時下では、飢饉(ベンガル飢饉1943)と物価高騰が社会を痛め、運動の基盤にも影響を与えました。

戦後、労働者・兵士・学生の動員が再び高まり、インド海軍反乱(1946)などの象徴的事件も起きました。キャビネット・ミッションは制憲手続きと連邦構想を提案し、議会とムスリム連盟の交渉が続きましたが、宗派間暴力が拡大する中で最終的に分割独立に舵が切られます。議会は制憲議会を主導し、ジャワーハルラール・ネルー、S・P・ムカージー、B・R・アンベードカル(法相として憲法起草委員会)らが憲法制定を担いました。1947年8月、インド連邦は英連邦王国として独立し、1950年に共和制へ移行します。

独立後の政党としての議会:国家建設、分裂、長期政権と課題

独立後、インド国民議会は「運動の連合体」から「政権政党」へと性格を変え、国家建設の中心となりました。ネルー政権は計画経済、非同盟外交、世俗主義、科学技術と高等教育の拡充を柱に据え、土地改革と州再編、選挙制度の整備を進めました。1960年代には中印・印パ戦争、食糧危機などの試練を経験し、1969年には党内の路線対立が爆発して分裂(コングレス(O)とコングレス(R))が起こります。インディラ・ガンディーは銀行国有化やプリヴィ・パース廃止などの政策を掲げて大衆動員を再強化し、1971年の選挙で圧勝しましたが、1975~77年の非常事態宣言は、議会の民主主義のあり方に深い影を落としました。

1977年に一度政権を失った後、議会は復帰と後退を繰り返しながらも、長期にわたって全国レベルの与党・有力野党として政治を牽引しました。ラジーヴ・ガンディー期には情報通信政策の近代化が進み、1991年以降は経済自由化の波の中で、州政党との連立や政策調整の技法が求められるようになります。21世紀に入ると、宗教政治の台頭、社会的連立の組み替え、地域政党の伸長に直面し、議会は組織の再生、地方基盤の強化、若年層・女性・周縁コミュニティの取り込みという課題に向き合っています。

組織面では、全インド会議委員会(AICC)と作業委員会(CWC)、州・地区・ブロックの階層組織を持ち、歴史的にはマハトマ・ガンディーによる会費制・ボランティア組織(セヴァダール)・村落単位のセル構築が大衆政党化を支えました。理念面では、世俗主義、社会的公正、民主主義、合意形成を重視し、農村開発・教育・保健・社会保障の拡充を掲げてきました。他方、汚職事件、派閥主義、王朝的継承批判、政策実行力のばらつきなどの弱点も指摘され続けています。

意義と評価:多様性を束ねた「運動—政党」モデルの歴史的役割

インド国民議会の歴史的意義は、三つの軸で理解しやすいです。第一に、請願団体から大衆政党への変容を通じて、植民地社会の多様な集団(宗教・言語・階層・ジェンダー)を参加させる政治の技法を生み出した点です。非暴力・不服従という争議のレパートリーは、道徳的正統性と国際世論の支持を獲得しつつ、組織的訓練と自治の経験を蓄積する仕組みでした。第二に、1930年代の州政権運営や制憲議会での実務を通じ、独立国家の制度設計—基本権、連邦制、選挙と政党、司法の独立—を準備した点です。第三に、独立後の長期政権を通じ、計画経済と社会政策、非同盟外交を軸に国内外の均衡点を探り続けた点です。

もちろん、議会の歩みは常に批判と表裏一体でした。宗派関係の調整失敗と分割独立の痛み、急進派・周辺地域・不可触民運動との緊張、非常事態に代表される権力集中の危険、地方政党や新社会運動との競合など、課題は少なくありません。それでも、インド国民議会が150年近い時間の中で、多様性を束ねるための言語・儀礼・ルールを編み直し続けてきた事実は、現在のインド民主主義の基層に深く刻まれています。

総じて、インド国民議会は、エリートの請願から始まり、庶民の生活世界に根ざす大衆運動へと拡大し、国家建設の担い手へと転じた、希有な「運動—政党」の系譜を体現しています。その歴史を学ぶことは、独立運動史の理解にとどまらず、多元的社会で合意を形成し続けるための政治の作法を考えるうえで、大きな手がかりになります。