ヴァンデー反乱 – 世界史用語集

ヴァンデー反乱は、フランス革命期の1793年春に西部内陸の「ボカージュ」と呼ばれる茂みと生け垣の小区画農地帯で勃発し、1793年末の大敗とその後の厳しい掃討、さらに1795〜96年・1799年の再燃を経ながら、宗教・地域共同体・王党主義と革命国家の総力動員が激しく衝突した内戦です。徴兵(総動員令)への反発、教会政策(宣誓司祭と非宣誓司祭の分裂)への怒り、穏やかな暮らしを守ろうとする小農・職人・女性らの草の根の動員が結びつき、即席の「カトリックと王の軍(Armée catholique et royale)」が形成されました。他方で、共和政府は祖国防衛を掲げ、革命暦の時間で動く委員会と代表派遣制度、臨時軍の統合、恐怖政治下の非常措置を総動員しました。戦場では、ショレ、ナント、サウミュール、サヴネーなどの地名が、村落動員の勇気と、報復・処刑・焼き払いの惨烈さの双方を刻みます。以下では、反乱の背景、戦争の推移、暴力と住民の経験、収束と記憶の軌跡を、できるだけ具体的に整理します。

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背景:ボカージュの社会、宗教政策、総動員令の衝撃

反乱の舞台となったのは、ロワール下流右岸から内陸に広がる小区画の混合農業地帯で、ヴァンデー県に加え、メーヌ=ロワール・ドゥ=セーヴル・ロワール=アトランティックの一部を含む広域の「ヴァンデー軍事地域(Vendée militaire)」でした。生け垣と細道が入り組む地形は外軍の行軍・展開を阻み、住民の遊撃戦を助けました。社会構成は自作小農・小作農・職人が多数で、大貴族の直轄支配は薄く、地域の司祭と在地の小領主・富農が共同体の結節点を担っていました。

宗教は共同体の中心でした。革命政権が1790年に定めた「聖職者民事基本法」は司祭に国家への忠誠宣誓を求め、これを拒否した多数の非宣誓司祭は追放・潜伏に追い込まれました。ミサの停止、聖像破壊、財産没収、のちの理性崇拝・革命祭礼の強制は、信仰と儀礼の断絶として住民の心に受け止められます。こうして「信仰を守る闘い」という感情が広がり、のちの動員の道徳的根拠になりました。

直接の引き金は1793年3月の総動員令(levée en masse)でした。25〜35歳の男子30万人を全国から徴発する方針に対し、戦争の意味も遠い農村では抵抗が強く、抽選・検査・移送の場で騒擾が頻発しました。徴兵官や国民衛兵との小競り合いが、司祭潜伏支援や王党派の働きかけと結びついて武装蜂起へ転じ、村々の狩猟銃・農具・即席の槍が集められて「カトリックと王の軍」が生まれました。初期指導層は売り子・車夫・商人・職人などの民間人指導者(ジャック・カトリノー)と、地元の若い小貴族(ラ・ロシュジャクラン、ボンシャン、ストフレ、シャレット)でした。

戦争の推移:村の軍から野戦軍へ、勝利と大敗、そして敗走

蜂起は三つの核(アンジュー、ポワトゥー、マレット沿岸)で同時多発的に広がりました。1793年春、反乱軍はトワール、フォンテネ、サウミュールなどで勝利し、砲や弾薬、訓練を獲得して野戦の技術を学びました。カトリノーの下で秩序が保たれ、「聖母の旗」とロザリオが兵の士気を支えました。6月のサウミュール占領でロワールへの出口を押さえた反乱軍は、一気に大都市ナント攻略を試みます。

6月末のナント攻撃は、都市民兵と海軍要塞の抵抗、疫病の発生、指揮の不統一で失敗しました。カトリノーが負傷し、軍の求心力は低下します。夏から秋にかけ、共和軍(西方面軍)はクレベールやマルソーら若い指揮官の下で再編成され、包囲・分断・追撃の戦術で反乱軍を圧迫しました。10月、ショレ会戦で反乱軍は敗北し、ロワール左岸へ逃れて北上する大移動「ヴィレ・ド・ガルヌ(Virée de Galerne)」に出ます。彼らは海岸の王党派基地・イギリス支援を期待してグランヴィル攻略を目指しましたが、11月に港は開かれず、補給は枯渇しました。

退路を失った大軍は寒冷と飢餓に苦しみ、老幼・婦人・負傷者を伴う群集は戦闘力を急速に失いました。12月、ル・マンでの市街戦は凄惨を極め、続くサヴネーの戦いで反乱軍主力は壊滅します。捕虜・避難民に対する処遇は苛烈で、処刑と即決の横行が住民の記憶に深い傷を残しました。指導者の一部は散在し、南岸の森や湿地へ戻って遊撃を続けます。ヴァンデーの戦争は、正規軍の会戦から、村落をめぐる掃討・報復・破壊の段階へと移りました。

同時期、ロワール河口と沿岸では、シャレットが独立した王党派戦線を維持し、海岸の集落と森を拠点に船舶の拿捕や連絡路の妨害を続けました。彼の戦いは1795年の英軍上陸(キベロン湾)や王党派陰謀と響き合いますが、決定的支援には至らず、1796年に逮捕・処刑されました。山野に潜む小部隊(シュアンと呼ばれることも多い)はその後も長く活動を続け、治安は完全には回復しませんでした。

共和国の対応と暴力:委員会、代表派遣、掃討作戦、都市の恐怖

共和政府は、国防と内戦の二正面を戦うため、公安委員会と「派遣議員」に非常権限を集中しました。西部にはカルティエ、カリエ、ビヨらが派遣され、軍と地方行政、司法・警察を横断的に掌握しました。軍事面では、トゥロー将軍の「地獄の縦隊(colonnes infernales)」が1794年初頭に編成され、村落を系統的に包囲・焼却し、食糧と家畜を押収、住民を移送・処刑する「焦土化」に近い作戦が実施されました。これは住民・女性・子供の犠牲を多数生み、近代的住民戦争の暗い典型として議論の的になってきました。

都市でも暴力はエスカレートしました。ナントでは、派遣議員カリエの下で非常法廷と集団処刑が横行し、「ナントの溺死(noyades)」と呼ばれる大量溺死刑が執行されました。反乱への協力・司祭匿匿・武器所持・移動違反などが処罰理由となり、恐怖は広範に浸透しました。他方、公安委員会内部でもやがて行き過ぎが問題視され、テルミドールのクーデタ(1794年7月)以後、カリエら過激派の責任追及と処罰が進み、掃討の苛烈さは徐々に緩和されます。

戦術上、共和派は地勢の劣勢を補うために道路・橋の確保、砲兵の分進合撃、弾薬補給線の防護を重視しました。村落側は生け垣と小道を利用した突然の一斉射撃、境界の教会や市場の日取りを利用した集合・解散の機動力で対抗しました。兵站を断たれやすい正規軍は冬季に苦しみ、逆に反乱側は豊作・凶作の影響を直に受けるという、脆弱性の様式が異なる持久戦になりました。

暴力の責任をめぐる評価は現在も揺れています。住民への苛烈な処置と村落の焼却、集団処刑、司祭・修道者への迫害は、国家暴力として強く記憶されました。対して反乱側でも、共和派村落の襲撃や捕虜殺害、都市への脅しや徴発が記録され、宗派・政治の分断が日常の不信と復讐を再生産しました。ヴァンデーは、正規軍同士の戦争というより、コミュニティの裂断を伴う内戦だったのです。

収束・再燃・記憶:講和、第二次蜂起、歴史叙述の対立

1794年以降、恐怖政治の終焉とともに調停が模索され、1795年2月のラ・ジャネ条約など、反乱指導者と政府の講和が順次成立しました。政治犯の赦免、宗教の部分的自由、徴兵と税の軽減などが交渉の柱で、地域によっては一定の安定が回復しました。しかし、政局の揺れと宗教問題の解決遅延は不満を再燃させ、1799年には総裁政府の徴兵に反発する第二次蜂起が起きました。最終的には、ボナパルト政権の成立と1801年のローマ教皇庁とのコンコルダート(宗教和約)が決定的で、司祭の地位と礼拝の安定が担保され、地域の緊張は大きく緩和されます。

記憶の政治は19世紀を通じて続きました。王党派・カトリック側は殉教と忠誠、英雄的指導者(ラ・ロシュジャクラン、シャレット、ボンシャンなど)を称える叙述を形成し、記念碑・巡礼・物語が地域アイデンティティを固めました。共和派・自由主義の歴史家は、反乱を封建的残滓と宗教的反動の表現とみなし、国家統合の過程での「必要な戦い」と位置づけました。20世紀後半には、虐殺規模をめぐって「ジェノサイド」概念の適用を主張する議論が現れ、これに対して史料批判に基づく反論も提示され、学界の意見は割れています。いずれにせよ、人口損耗と経済破壊、移住と家族の断絶が地域社会に長期の影を落としたことは疑いありません。

生活世界の側から見ると、ヴァンデーの戦争は、宗教儀礼の断絶、共同体の分断、女性と子どもの動員、司祭と在家のネットワーク、密偵と密貿易、避難と飢餓と疫病の連鎖として現れました。女性は負傷者の看護、糧食の調達、物資の隠匿、伝令などで重要な役割を果たし、家の守りの主体でもありました。教会や聖遺物、墓地の保護と再建は、戦後復興の象徴でした。生け垣を再生し、畑を耕し直す作業は、共同体が暴力の時代から日常へ戻るための長い道のりでした。

ヴァンデー反乱は、革命がもたらす自由・平等の理念と、地域社会が守ろうとする宗教・習俗・生存の論理の衝突を、きわめて具体的な生活の単位で顕在化させました。国家総力戦の初期形態としての徴兵と非常措置、政治宗教の再編をめぐる法の力、住民戦争の暴力が、ひとつの地方に凝縮して現れたのです。今日、現地を歩けば、教会の銘板、村の古道、焼却を免れた古い石垣が、あの時代の複雑な記憶を静かに伝えています。ヴァンデーを学ぶことは、革命の光と影を、首都の議会や戦場の天才ではなく、村の祈りと畑の土から見直す試みでもあります。