ウマイヤ家は、7世紀後半から8世紀半ばにかけてイスラーム帝国をダマスクスから統治した家系で、イスラーム共同体(ウンマ)を部族連合から官僚的な領域国家へと大きく転換させた存在です。ムアーウィヤ1世のカリフ就任(661年)からアッバース革命(750年)までの約90年間に、帝国は北アフリカからイベリア、コーカサス、中央アジア、インド河口に至るまで拡張しました。一方で、シーア派・ハワーリジュ派との教義・政治対立、アラブ部族間の競合、改宗民(マワーリー)への処遇など、内部の緊張を抱え、最終的にアッバース家に政権を奪われます。しかしウマイヤ家の一族はイベリアで復活し、後にコルドバでカリフ位を称して西方の文化黄金期をもたらしました。本稿では、家系の由来と登場、統治の実像と政策、拡張と文化事業、崩壊とアル=アンダルスでの継承という観点から、ウマイヤ家を分かりやすく解説します。
出自と登場――ムアーウィヤの台頭と「王朝」化の始動
ウマイヤ家は、クライシュ族の名門バヌ・ウマイヤの支族で、預言者ムハンマドの一族(ハーシム家)と同じくメッカの名望家層に属しました。預言者時代には対立の歴史もありましたが、イスラーム受容後は行政・軍事で重要な役割を担います。とくにムアーウィヤは、第二代正統カリフ・ウマルの時代からシリア総督に任じられ、ビザンツ帝国との国境戦争を統括して軍団を整備し、海軍力の増強と沿岸都市の防衛・再建を進めました。
第三代カリフ・ウスマーン(同じウマイヤ系)が暗殺されると、共同体は内乱(第一次内乱=フィトナ)に陥ります。ムアーウィヤは「復讐と秩序回復」を掲げて勢力を伸ばし、アリーとの対立の末、661年にダマスクスでカリフを名乗りました。ここで初めて、血縁に基づく事実上の世襲原理が導入され、帝国は「共同体の長老合議による選出」から「家門に根ざす王朝」へと性格を変えます。この転換は後世の正統性論争(スンナ派・シーア派の相違)の出発点の一つになりました。
ムアーウィヤは妥協と実利に富む政治家で、地方有力者・部族長・キリスト教徒の官僚・ギリシア語行政の人材を巧みに取り込み、シリアを基盤に帝国の安定を図りました。彼はまた、和平と停戦、税制の柔軟運用で収入を安定させ、ビザンツ境に沿う「テュマール型」の軍事植民制や駐屯地(アムサール)を整えました。こうしてウマイヤ体制は、部族カリスマと都市行政を結ぶ「実務国家」として出発します。
統治と制度――アブドゥルマリクの改革、アラビア語化、貨幣と官僚制
ウマイヤ家の統治を制度として完成させたのは、第5代カリフのアブドゥルマリク(在位685–705年)でした。第二次内乱を収束させた彼は、行政・財政・軍事の全面的な再編に着手します。第一に、官庁・台帳・裁判の言語を地域語(ギリシア語・ペルシア語)からアラビア語に切り替える「アラビア語化」を断行し、帝国の統治言語を一本化しました。第二に、ディーナール(金貨)・ディルハム(銀貨)にコーラン文句と抽象図像を施した独自貨幣を鋳造し、ビザンツ風の聖像貨幣から決別します。これは財政の独立と宗教的アイデンティティの明確化を同時に達成した政策でした。
軍事面では、ジズヤ(人頭税)とハラージュ(土地税)を再編し、軍団の俸給(アター)を台帳管理して常備的な駐屯システムを整えました。シリア軍団が中核を占めたことは、地方間バランスに影響し、のちの部族抗争(北アラブ系=カイスと南アラブ系=イエメンの対立)の火種にもなります。司法ではカーディー(裁判官)の任命と法学者層の制度的位置づけが進み、都市の合意と法解釈の枠組みが整備されました。こうして、ウマイヤ国家は宗教共同体の規範(シャリーア)と領域国家の行政を接続する「二重構造」を築きます。
宗教・政治関係で敏感だったのは、シーア派とハワーリジュ派への対応です。カリフ位を預言者家系(アフル・アル=バイト)に限定するべきだとするシーア派は、カリフ選定の正統性に異議を唱え続け、カーバラ(680年)でのフサイン殉教は、共同体の痛点として記憶されました。ウマイヤ政権は一方で反乱に対して強硬、他方で巡礼の保護や免罪、宗教施設の整備で共同体の統合を図りました。教義統制に走りすぎず、秩序維持を優先した実務性が特徴です。
拡張と文化――西はイベリア、東はインダス、そして建築の記憶
ウマイヤ朝の軍事的拡張は、世界史の地図を塗り替えました。西方では北アフリカでベルベル諸部族を糾合し、711年にはターリク・イブン・ズィヤードがジブラルタル海峡を渡ってイベリアに上陸、イスパーニア王国を破って短期間で半島の大半を制圧しました。東方では、ホラーサーンを拠点にオクサス(アム川)を越え、トランスオクシアナ(マーワラーアンナフル)とシルクロードのオアシス都市へ進出、さらにシンド(インダス下流域)へも遠征が行われました。コーカサス方面ではハザールとの抗争が続き、国境戦争は長期化します。
拡張の過程で重要だったのは、改宗民(マワーリー)の位置づけです。ウマイヤ期、マワーリーは軍務・税制でアラブ部族出身者と同等に扱われない場面があり、不満が蓄積しました。とはいえ現場では、イラン系・トランスオクシアナの人材が行政・学問に参加し、アラブ=イランの文化融合が進みます。文学では初期アラビア詩の洗練、歴史記述とハディース収集の胎動が見られ、商業・金融では地中海とインド洋の交易が結びつき、都市の多層化が進みました。
建築・芸術はウマイヤ期の象徴です。エルサレムの岩のドーム(691年完成)は、モスクであり聖地記念建築でもある独創的な形態で、初期イスラーム建築の到達点とされます。ダマスクスのウマイヤ・モスクも、ビザンツのバシリカ空間をイスラーム礼拝に転用・再編した傑作で、モザイク装飾に楽園的自然が描かれ、イスラーム美術の図像語彙を切り開きました。砂漠の離宮群(カスル)は、行政・狩猟・休養の複合施設として、支配者文化と周辺遊牧世界の交流を映し出します。貨幣図像の転換とともに、視覚文化の独自化が一気に進んだ時期でした。
崩壊と継承――アッバース革命からコルドバの復活へ
8世紀半ば、ウマイヤ体制は複合的危機に直面します。部族対立(カイス対イエメン)の激化、マワーリー不満の政治化、財政の硬直化、国境戦の消耗――これらが重なり、ホラーサーンでアッバース家とその将軍アブー・ムスリムが大規模な反乱を起こしました。750年、ザーブ河畔の戦いでウマイヤ軍は敗れ、最後のカリフ・マルワーン2世は戦死、ダマスクスは陥落します。多くの一族が掃討されましたが、若き王族アブド・アッラフマーン1世が北アフリカを経てイベリアに逃れ、756年にコルドバでウマイヤ朝を再興、のちに自らカリフ位を称しました(コルドバ・カリフ国)。
西方ウマイヤは、東方のアッバースと並立しながら、地中海西域の文化・学術・都市経済を牽引しました。灌漑・果樹園・書物交易・翻訳運動・音楽と詩のサロン文化は、イスラームとローマ・ゴシック・ユダヤ文化の接合領域を創造し、後世の「アンダルスの輝き」として記憶されます。こうしてウマイヤ家は、敗北ののちも地理的再配置によって王朝としての生命を延ばし、イスラーム文明の多中心性を体現しました。
総じて、ウマイヤ家は、帝国の領域化・制度化・視覚文化の確立に決定的な役割を果たした一方、選挙制から世襲制への転換、少数支配の緊張、宗派・部族の亀裂という「帝国統治の代償」も引き受けました。彼らの時代を学ぶことは、宗教共同体の理想と領域国家の現実、その間で制度と文化がいかに作り替えられていくかを理解する格好の入口になります。ウマイヤの遺産は、貨幣に刻まれた言葉、石に刻まれたアーチ、都市に刻まれた区画、そして何よりも、共同体を束ねる統治の技術として、今も歴史の地層に深く残されています。

