西域 – 世界史用語集

「西域(せいいき)」とは、主に中国史の文脈で、古代から中世にかけて河西回廊の西(玉門関・陽関の外側)に広がるオアシスと山岳・草原地帯を指す用語です。今日の地理でいえば、新疆ウイグル自治区のタリム盆地やトルファン・哈密(ハミ)を中心に、天山・パミールを越えてフェルガナ・ソグディアナ・バクトリアなど中央アジアの一部までを含むことが多いです。時代や文献により範囲は伸縮し、仏教史ではガンダーラやインド北西部をも視野に入れて語られることもあります。西域は、砂漠(タクラマカン)に点在するオアシス都市の連鎖によってシルクロードの要衝となり、東西の物資・人・宗教・言語が行き交う交差点でした。以下では、地理的特徴と呼称の射程、古代から唐代にかけての政治史、宗教と文化交流、文書・遺跡と近代以降の位置づけの四つの観点から、用語の中身を分かりやすく整理します。

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地理と呼称—砂漠・山脈・オアシス、そして用語の射程

西域の中心はタリム盆地です。北を天山、南をクンルン山脈、西をパミール・天山西端に囲まれ、内部に広がるタクラマカン砂漠は降水が極端に少ない不毛地帯です。生存と往来を可能にしたのは、山麓から流れ出る氷雪融水がつくる扇状地のオアシスでした。クチャ(龜茲)・ホータン(于闐)・ヤルカンド(莎車)・カシュガル(疏勒)・トルファン(高昌)・ハミ(伊吾)・楼蘭(クロライナ)・ニヤなどの都市は、カレーズ(地下水路)や灌漑網を整えて農耕・果樹栽培・牧畜・手工業を営み、隊商の宿駅として繁栄しました。

シルクロードの本体は一筋の道ではなく、河西回廊から敦煌を経て、天山の北麓(北道)と南麓(南道)に分かれてオアシスをつなぎ、クチャからイシク・クル方面へ抜ける支路、ホータンからカラコルム・カラコラムを越える南方路など、多層のネットワークでした。西域という呼称は中国中心の相対的地理概念で、漢—唐の正史では「西域諸国」と総称されますが、今日の学術では中央ユーラシアオアシス・ステップ複合といった用語も用いて、地域の自立性を強調する傾向があります。日本の仏教史・美術史では、ガンダーラやインド北西部を含む広義の「西域」(例:『西域記』)も一般的で、文脈に応じた射程の確認が必要です。

古代〜唐代の政治史—漢の西域経営から唐とテュルク・吐蕃の角逐へ

前漢は、張騫の西域使節(前2世紀)で情報ルートを開き、匈奴勢力に対抗するため河西四郡を整備して敦煌から玉門関へ至る補給線を確保しました。武帝期には烏孫・大宛(フェルガナ)・康居・安息(パルティア)などとの通交が始まり、やがて前1世紀には都護を置いて西域都護府(初置は前60年頃)を設置し、オアシス諸国と朝貢・冊封・駐屯を通じた関係を築きます。後漢では班超・班勇らの活躍で一時的に漢の影響力が回復し、敦煌・楼蘭・高昌などに漢人移民や屯田が進みましたが、匈奴や羌族の動揺、後漢末の内乱で統制は後退しました。

魏晋南北朝期、西域は高昌・亀茲・焉耆・于闐などのオアシス王国と、北方の遊牧政権(柔然、突厥=テュルク)との狭間で再編が続きました。5〜6世紀にはテュルク可汗国が台頭し、東西にまたがる草原帝国がオアシスから貢納を受け、その交易保護を担います。隋唐の中国統一は再び西域を政治視野に入れ、唐の太宗・高宗は高昌国討伐(640)や龜茲遠征(648)を通じて影響圏を拡大、安西都護府(当初は龜茲、のち亀茲・クチャ近隣に移動)と北庭都護府(庭州=ウルムチ近傍)を設置して軍政体制をととのえました。

しかし、8世紀には情勢が一変します。東西テュルクの再興、吐蕃(チベット帝国)の強勢化、ソグド人商人のネットワーク拡大、さらには安史の乱による唐の内乱が重なり、唐は西域統治を維持できなくなります。吐蕃は一時、敦煌・河西回廊にまで進出しました。これに対し、9世紀初頭にはウイグル可汗国の西遷(回鶻の一部がガンスーからトルファン・高昌方面へ移動)によって高昌回鶻(西州ウイグル王国、いわゆる高昌ウイグル)が成立し、仏教・マニ教・後にはイスラームの交錯する新たな秩序が生まれます。10〜11世紀にはカラハン朝のイスラーム化が南北天山に浸透し、ホータン仏教王国は11世紀半ばに滅亡、宗教地図も大きく書き換わりました。

モンゴル帝国期には、西域はチャガタイ・ウルスやオゴデイ系諸王の分地に組み込まれ、トランス=ユーラシアな交通の大動脈として再編されます。明代にはハミ・トルファンをめぐる朝貢・封号関係が続き、清代に入るとジュンガル(オイラト)征服と18世紀の新疆(新たに平定した領域)の編入を通じて、清朝の直接統治が進みました。19世紀後半のヤークーブ・ベク政権と清の左宗棠による再征服、1884年の「新疆省」設置を経て、近代国家の行政区画に回収されることになります。

宗教・文化・言語の交差点—仏教・マニ教・ゾロアスター教・景教、文書と美術

西域は宗教の十字路でした。インド—ガンダーラ方面から伝来した仏教は、紀元前後からクチャ・カシュガル・ホータンなどのオアシスで受容され、僧院・石窟寺院が建立されます。クチャ出身の仏僧クマーラージーヴァ(鳩摩羅什)は長安で名訳を次々と生み、法顕・玄奘・義浄らの求法僧が往来しました。トルファン・ベゼクリク、キジル・クムトゥラなどの石窟壁画は、インド的図像とイラン・ソグドの色彩、唐風の衣装が混淆する独特の美を示します。ホータン王国はサンスクリット・仏典の翻訳中心地で、コータン語(ホータン・サカ語)などイラン系言語の仏典断簡が出土しています。

ソグド商人が携えたゾロアスター教(拝火教)やマニ教は、ウイグル可汗国の国教化(8〜9世紀)や高昌ウイグルでの信仰に痕跡を残し、景教(東方キリスト教、ネストリウス派)も唐代の長安・敦煌から西域の諸都市へ広がりました。これらの宗教は互いに共存・対立しながら、儀礼・画題・文字文化に影響を与えました。

言語面では、ソグド語バクトリア語吐火羅語(トカラ語A/B)コータン語漢語ウイグル語(古ウイグル)チベット語サンスクリットプラークリットなど、多言語が同時に使われ、文字もブラーフミー、カローシュティー、ソグド文字、ウイグル文字、漢字、チベット文字などが併存しました。敦煌文書・トルファン文書・ニヤ・楼蘭の木簡には、契約・裁判・租税・軍務・私信などの日常の記録が多言語で残り、オアシス社会の実像を具体的に伝えます。とりわけ敦煌莫高窟の経巻庫(いわゆる「蔵経洞」)から出た大量の文書は、宗教と行政・経済が結びついた都市運営の仕組みを解明する鍵です。

物質文化では、絹・毛織・玉・ガラス・金銀器・香料・紙などの商品と技術が双方向に流れました。ガラス器と金銀器の金工技術、ブドウ栽培・ワイン醸造、胡旋舞・楽器(琵琶・横笛)などは、唐代の宮廷文化に「胡風」として受容され、日本にも正倉院宝物などを通じて影響を与えました。服飾・意匠にみえるペルシア系のモチーフ、絨毯やテキスタイルの文様は、オアシス工房の国際性を物語ります。

遺跡・史料と近代以降の位置づけ—探検・学術・現代の語法

19〜20世紀初頭、各国探検隊が西域で考古・文献調査を行い、キジル・ベゼクリクの壁画、ニヤ・楼蘭の遺跡、トルファン・ヤルホト(交河故城)などから膨大な遺物と文書が持ち出されました。スタイン、ヘディン、ル・コック、大谷探検隊などの活動は、学術的には西域研究を飛躍させましたが、文化財流出の問題と不可分です。現在は、現地機関と国際研究機関の協力による保存・修復、デジタルアーカイブ化が進み、公開と保全の両立が模索されています。

史料の種類は多様です。漢文の正史(『漢書・西域伝』『後漢書・西域伝』『魏書・高昌伝』『旧唐書・西域伝』『新唐書・西域伝』など)は中国王朝の視点から西域諸国を叙述し、仏典の旅行記(法顕『仏国記』、玄奘『大唐西域記』、義浄『南海寄帰内法伝』など)は宗教と地理の実見を伝えます。さらに、ソグド語・吐火羅語・コータン語・ウイグル語の文書、サンスクリット断簡、チベット史料、アラビア語・ペルシア語の地理書は、オアシス側の視点を補完します。多言語史料を突き合わせる作業こそが、「西域」というラベルの下で多様な主体が絡み合う歴史を立体化する鍵です。

用語法についても留意が必要です。「西域」は中国中心の相対概念であり、近代以降は国家境界や民族・宗教の感情とも結びつくため、学術的には具体的地名(タリム盆地、トルファン盆地、フェルガナ、ソグディアナ等)を併用し、歴史主体の呼称(クチャ人、ソグド人、ウイグル人、吐蕃人など)を尊重することが推奨されます。また、日本語史料では仏教文脈の「西域」がインド・スリランカ・東南アジアを含む広域を指す場合があり、『西域記』と『大唐西域記』の射程差にも注意が必要です。

現代の視点から見ると、西域は国境をまたぐ文化遺産圏でもあります。オアシス都市の景観保全、石窟壁画の保存、遊牧と定住の関係、言語・音楽・工芸の継承など、地域社会と国際社会が協働すべき課題が山積しています。気候変動や水資源管理、沙漠化対策は、古代のオアシス技術(カレーズや灌漑)の知恵を現代に活かす研究テーマでもあります。交易と移動が生み出した多元性は、今日の多文化理解に資する歴史的資源だといえるでしょう。

総じて、「西域」は、地理的には砂漠の縁に連なるオアシス世界、歴史的には帝国と遊牧・都市が交差する接合面、文化的には宗教・言語・芸術の混淆の場でした。玉門関の西に広がるこの空間をたどることは、東西交流の歴史を「道」ではなく「結節の網」として理解することにほかなりません。張騫から玄奘、敦煌文書から石窟壁画、ソグド商人からウイグル王国へ—多様な物語が重なり合う西域を、具体的な地名・遺跡・史料とともに立体的に捉えることが大切です。