ウマイヤ朝 – 世界史用語集

ウマイヤ朝(661–750年)は、イスラーム共同体(ウンマ)をダマスクスから統治した王朝で、部族連合のカリスマ的統合から、官僚制と財政・軍制を備えた広域国家へと大きく舵を切らせた体制です。ムアーウィヤ1世の即位により、選出制に近い「正統カリフ」時代から事実上の世襲原理へと移行し、北アフリカからイベリア、コーカサス、中央アジア、シンド(インダス下流)に至る急拡張を達成しました。同時に、シーア派やハワーリジュ派との対立、アラブ部族内の競合(カイス/イエメン)、改宗民(マワーリー)の処遇をめぐる緊張を抱え、最終的にはアッバース革命で政権を失いました。それでも、行政のアラビア語化、貨幣改革、郵驛制度、都市と駐屯軍の配置、建築と視覚文化の確立など、多くの制度・文化的遺産を後世に残し、イベリアでは一族が復活してコルドバの文化黄金期を切り開きました。本稿では、成立と拡張、統治と社会経済、宗教と政治の緊張、崩壊と遺産の四点から、ウマイヤ朝の全体像をわかりやすく整理します。

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成立と拡張――ムアーウィヤの即位から大帝国の地図まで

出発点は、第三代カリフ・ウスマーン暗殺後の内乱(第一次内乱=フィトナ)です。シリア総督として軍事・財政基盤を固めていたムアーウィヤは、秩序回復と血族の復讐を掲げ、アリー陣営との長い対立ののち、661年にダマスクスでカリフ位に就きました。ここで初めて、カリフ位に家門継承の原理が持ちこまれ、州総督・軍司令官・官僚の人事を家門と同盟部族のネットワークで固める「王朝政治」が始動します。ムアーウィヤは海軍を増強し、ビザンツとの停戦と国境防衛を両立させ、シリアの都市経済を立て直しました。

後継のヤズィード1世の時代、預言者一族フサインがカーバラ(680年)で殉教し、共同体の亀裂は深まりました。メッカではズバイル家のアブドゥッラーが反カリフとして立ち、ヒジャーズ・イラクを中心に並立政権を形成します。内乱は続きますが、マルワーン1世・アブドゥルマリクの代に形勢はウマイヤ側に傾き、692年にイブン・アッ=ズバイルを討って帝国を再統一しました。

統一後のアブドゥルマリクとワリード1世は、東西で前例のない拡張を進めました。西では北アフリカでベルベル諸部族との同盟と征服を重ね、711年、ターリク・イブン・ズィヤードがジブラルタルを越えてイベリアに上陸し、西ゴート王国の中枢を破って短期間で半島の大半を制圧します。東では、ホラーサーンの駐屯軍を梃子にトランスオクシアナへ進出し、ソグドの諸都市を編入、さらにムハンマド・イブン・カーシムがシンドへ遠征してインダス下流域を押さえました。コーカサス方面ではハザールと長期にわたる攻防が展開され、国境の軍政(トゥグール/アワーシム)整備が進みました。

この拡張は、征服=移住=駐屯の連鎖で支えられました。クーファ、バスラ、フスタート、ワーシト、カイラワーンなどの「駐屯都市(アムサール)」は、軍団の俸給支給と兵站の拠点、裁判・徴税・宗教教育のセンターとして機能し、新たな都市社会の核になりました。征服地では当初、在来の行政・税制を一定程度維持しつつ、上にウマイヤの管理を被せる二重構造が採られました。

統治と社会経済――アラビア語化、貨幣・税制、法と官僚、都市の日常

ウマイヤ朝の統治改革の白眉は、アブドゥルマリク期の一連の制度化です。第一に、行政・台帳・裁判の言語を各地の慣用語(ギリシア語・ペルシア語・コプト語など)からアラビア語へと段階的に切り替え、帝国を貫く統治言語を確立しました。これにより、官僚層はアラビア語文書術に通じたカーティブ(書記)が核となり、同時に非ムスリム官僚の登用も継続される柔軟さが保たれました。第二に、貨幣改革です。ディーナール(金貨)とディルハム(銀貨)に聖句と抽象図像を刻み、ビザンツやサーサーン朝の肖像貨幣と明確に一線を画しました。貨幣の統一は、税の納付、軍の俸給、長距離取引を円滑にし、国家のシンボル政治としても力を持ちました。

財政は、土壌や占有に課されるハラージュ(土地税)と、非ムスリム成年男子に課されるジズヤ(人頭税)、さらに関税・マーケット税などの複合で成り立ちました。征服初期においては、改宗しても在来税制がすぐに変わらない地域があり、マワーリー(非アラブ改宗者)が不利を訴える余地が生まれました。統治は必ずしも一律ではなく、州ごとに総督の裁量と地元勢力の交渉が反映され、税負担の実態は地域差が大きかったのです。

軍制では、兵籍台帳(ディーワーン)に基づく俸給(アター)と配当、駐屯都市の軍団(ジュンド)が柱でした。シリア軍団は王朝の屋台骨であり、イラク軍団やホラーサーン軍団とバランスがとられましたが、このバランスが崩れると、地方の不満や部族対立が政治化しました。通信と監察を担う郵驛制度(バリード)は、道路網・驛所・騎馬郵便・情報報告を通じて中央の眼と耳を地方に延ばし、クーデターの兆候や州官吏の不正を監視する重要な装置でした。

法と裁判では、各地に任命されたカーディー(裁判官)が家族法・商取引・遺産・刑罰などを扱い、法学者(フカハー)の見解(ラʼイ)や伝承の蓄積が進みました。のちのスンナ法学の整備はアッバース期に本格化しますが、都市社会の紛争処理、寄進(ワクフ)、市場監督(ムフタシブ)といった制度的な「実務法」はウマイヤ期に土台が築かれます。宗教政策は実務的で、巡礼路や聖地の保護、モスク・道路・灌漑施設の整備が重視されました。

都市と日常生活に目を向けると、ウマイヤ朝期は地中海とインド洋をつなぐ広域交易の再編期でもありました。ダマスクス、フスタート、バスラ、クーファ、カイラワーン、イフリーキヤの港湾は、穀物・織物・香料・金属・紙・奴隷の流通で繁栄し、ユダヤ教徒・キリスト教徒・ゾロアスター教徒などのディンミー(保護民)が商業と手工業を支えました。宗教少数者は契約上の制限(ジズヤ納付、特定の法的地位)を負いながらも、都市経済の不可欠な担い手でした。建築では、岩のドーム(691)、ダマスクスのウマイヤ・モスク、砂漠離宮(カスル群、たとえばクサイル・アムラ)の造営が、イスラームの視覚文化に決定的な影響を与え、モザイクやフレスコ、書の意匠が洗練されました。

宗教と政治の緊張――シーア派・ハワーリジュ、部族対立、改宗民の問題

ウマイヤ朝を理解する上で避けて通れないのが、宗教的正統性と社会統合をめぐる緊張です。シーア派は、預言者家(アフル・アル=バイト)への忠誠を基礎に、カリフ位の継承に異議を唱え続けました。680年のカーバラで、アリーの子フサインが討たれた出来事は、殉教の記憶として共同体に深く刻まれ、以後の反体制運動の精神的資源となります。ウマイヤ政権は反乱には強硬でしたが、巡礼の保護や恩赦の付与、学者層への配慮を通じて、秩序維持を優先する現実主義を貫きました。

ハワーリジュ派は、信仰と行為の純粋性を重んじ、「大罪人は共同体から排除されるべきだ」とする急進的倫理で、アラビア・イラク・オマーンの辺境で蜂起を繰り返しました。彼らは部族的結束と宗教的厳格を背景に、正統とされた権威の逸脱を痛烈に糾弾し、治安コストを増大させました。これに対する鎮圧は、地方の不満、税制の硬直、軍事負担の増加と結びつき、王朝の疲労を早めます。

部族対立も、内政の火薬庫でした。北アラブ(カイス)と南アラブ(イエメン)の競合は、人事・軍団・州統治に影を落とし、州総督の交代やクーデターの引き金となりました。イラクとシリア、ホラーサーンの軍団間バランスは常に細心の配慮を要し、一度崩れると広域の反乱へと連鎖しました。西方では740年代のベルベル反乱が象徴的で、イスラーム受容後も社会的差別を被ると感じたベルベル兵士・農民が、税と軍役をめぐって蜂起し、マグリブとイベリアの統治に長期の不安定をもたらしました。

とりわけ議論を呼ぶのがマワーリーの問題です。改宗者が税制面でアラブと同等に扱われない場合が続くと、都市の職人・商人・学者層の不満が政治化し、宗教の普遍主義と社会実務の齟齬が批判されました。敬虔で知られるウマル2世(在位717–720)は、改宗者のジズヤ免除などの緩和策を試み、統治の正統性を高めようとしましたが、財政と軍務の現実は厳しく、改革は大きな抵抗を受けました。イラン高原やトランスオクシアナでは、イスラーム学習と都市ネットワークを媒介に新しい共同体意識が芽生え、のちのアッバース革命の人的資源となります。

崩壊と遺産――アッバース革命、アル=アンダルス、制度と文化の長い影

8世紀半ば、アッバース家がホラーサーンで蜂起し、アブー・ムスリムが諸勢力を糾合すると、ウマイヤ体制は急速に崩れました。財政の逼迫、部族対立の激化、マワーリー不満の組織化、国境戦の消耗が重なり、750年、ザーブ河畔の戦いでウマイヤ軍は敗北、最後のカリフ・マルワーン2世が戦死してダマスクスは陥落しました。多くの王族が粛清されますが、若い王族アブド・アッラフマーン1世が奇跡的に脱出し、北アフリカを経てイベリアで権力を掌握、コルドバのウマイヤ政権(当初は大アミール、のちにカリフ)を樹立しました。こうして王朝は地理的再配置によって生命を延ばし、西イスラーム世界に独自の文化圏(アル=アンダルス)を根づかせます。

遺産を総括すると、第一に「国家術」の確立です。アラビア語を統治言語に据えたこと、貨幣をシンボル政治の媒体としたこと、郵驛・軍団・裁判の三位を地域ごとに組み合わせ、柔軟と統一を両立させたことは、アッバース朝やその後の王朝に引き継がれました。第二に、都市と社会の多層化です。駐屯都市を核に商業・学芸・宗教教育が発展し、ユダヤ教徒・キリスト教徒・ゾロアスター教徒などのディンミーが都市の不可欠な担い手として組み込まれるモデルが確立しました。第三に、視覚文化の革新です。岩のドームやウマイヤ・モスク、砂漠離宮群は、イスラーム建築・装飾芸術の語彙を整え、のちのアンダルスやファーティマ朝、セルジューク朝の美学につながります。

批判的側面も明瞭です。選出制から世襲制への転換は、共同体の政治文化に長い論争を残し、宗派対立の種をまきました。部族間の優越競争とマワーリー差別は、イスラームの普遍主義との緊張を露わにし、体制の脆弱性を増しました。強権的な州統治(ハッジャージュ・イブン・ユースフのイラク統治に象徴される)と、地方社会の自律要求のせめぎ合いは、広域帝国統治の難題を浮かび上がらせます。とはいえ、その矛盾を含みこんだ制度運用の蓄積自体が、後世のイスラーム国家が参照する「実務の知恵」となりました。

アル=アンダルスのウマイヤは、東方の遺産を西地中海で再解釈し、灌漑・果樹園・紙と書物文化・翻訳運動・音楽や詩の洗練を推し進めました。キリスト教・イスラーム・ユダヤの接触帯としての都市文化は、後世のラテン西欧への知の移植(アラビア語からラテン語への翻訳)にも寄与します。こうしてウマイヤ朝の歴史は、崩壊で途切れるのではなく、地理を変えて連続し、イスラーム文明の多中心性を体現していきました。

総じて、ウマイヤ朝は、宗教共同体の理想と領域国家の現実を結び合わせようとした最初の大規模試みでした。成功と失敗、包摂と排除、革新と反発が渦巻くなかで、制度・都市・言語・美術のレベルで後世に長い影を落としています。ウマイヤ朝を学ぶことは、宗教と政治、普遍主義と現実政治、中心と周縁の関係を具体的に捉えるうえで不可欠であり、イスラーム世界を超えて、広域帝国の統治史に普遍的な示唆を与えてくれます。