英貨排斥とは、イギリスの植民地下にあったインドで、19世紀末から20世紀前半にかけて展開された「イギリス製品(主に綿織物)を買わない・使わない」運動を指す言い方です。とくに1905年のベンガル分割令への反発から始まったスワデーシー(国産品愛用)運動と密接不可分で、街頭での英製布の焚書、商店前での説得・ピケ、国産布(カーディー)や国産製塩の奨励、〈国民〉学校の設立など、経済的不服従を梃子に政治的自治(スワラージ)を求める実践が連鎖しました。英貨排斥は単なる購買行動の選択ではなく、植民地体制が作った貿易構造への抗議であり、地方社会の誇りと同時に新しい「インド人」という想像された共同体意識を育てる装置として働いたのです。第一次大戦後にはガンディーの非協力運動や塩の行進にも受け継がれ、外国布を捨ててカーディーを纏うことが政治的身振りとなりました。一方で、貧困層にとって安価な外来布を拒むことの負担、地方・宗派・階層による温度差、運動の過熱に伴う暴力化などの問題も併走しました。英貨排斥は、帝国の経済網と植民地社会の生活世界が正面から衝突した、その結節点を象徴する用語です。
背景:なぜ「英貨」を排斥したのか
英貨排斥の直接の引き金は1905年のベンガル分割令でした。イギリスは行政効率化を名目にベンガル州を東西に分割しましたが、ベンガル語共同体を分断しムスリムとヒンドゥーを離間させる「分割して統治せよ」の政策と受け止められ、カルカッタ(コルカタ)を中心に激しい反発が生まれました。抗議の手段として、政治演説や請願だけでなく、日々の消費を通じて帝国に圧力をかける「ボイコット」が選ばれました。ここで標的となったのが、インド市場を席巻していたイギリス綿製品です。
その背景には、19世紀を通じて形成された不均衡な交易構造がありました。植民地当局はインドの綿花を原料として輸出させ、関税政策や鉄道建設、商社金融の支配を通じて、完成品の綿布を英国工業地帯から大量に逆輸入させました。結果として、都市と農村の手織業は圧迫され、多くの職人が賃労働や農業の副業に転じざるを得なくなりました。民族派の経済学者ナオロジーらはこの構造を「財富流出(ドレイン・オブ・ウェルス)」と批判し、政治的支配と経済的収奪が不可分であることを論じました。この理屈は、英貨排斥の大義を与えただけでなく、購買の選択を「国家的義務」に昇格させる思想的根拠を提供しました。
さらに、19世紀末から20世紀初頭にかけて世界市場の価格変動や飢饉が相次ぎ、農村の脆弱性が露呈しました。植民地国家の治安・税制・司法は帝国の利益確保に優先して設計され、地方社会には不満が蓄積していました。英貨排斥は、こうした構造的不満を、日常の消費行動という分かりやすい形に翻訳して可視化した点で、参加の敷居が低く、共感を呼びやすかったのです。
展開:スワデーシー運動と結びつく実践
1905年以降の英貨排斥は、スワデーシー(自国のもの)という肯定的スローガンと対になって広がりました。街頭では英国製布や砂糖の焚却集会が行われ、商店前では学生や若者が列を作って買い物客に国産品の購入を勧めました。家庭では輸入布の代わりに手紡ぎ・手織りのカーディーが奨励され、婦人会や学校が紡錘(チャルカ)の普及に力を入れました。宗教行事や祝祭にも国産布が用いられ、衣服が政治宣言を兼ねるようになりました。
運動の知的支柱には、ベンガルのビピン・チャンドラ・パールやアウロビンド・ゴーシュ、パンジャーブのララ・ラジパト・ライー、マハーラーシュトラ州のロークマーニャ・ティラクらがいました。彼らはいわゆる「急進派」として、会議(インド国民会議)の穏健派に比べ直接行動や瑞々しい民族感情の動員を重視し、ボイコットを自治への近道とみなしました。一方、タゴールのように文化的象徴を創出しつつも、暴力化を嫌って距離をとる立場も見られました。現場では学生、職人、商人、低カースト農民など多様な層が関与し、都市を中心に農村へと波及しましたが、地域によって熱度は大きく異なりました。
英貨排斥は、単なる「買わない」に留まらず、〈作る・教える・結ぶ〉を伴って制度化されました。すなわち、国産企業の創業や民族資本の育成(製布・製塩・石鹸・マッチなどの工場)、スワデーシー学校や国民大学の設立、仲裁裁判所の試み、組合や青年会の組織化などです。これらは、帝国の行政と市場に依存しない社会的基盤を作る半独立のネットワークであり、消費の排斥が生産・教育・法に広がることで、運動は生活世界のすみずみに入り込みました。
第一次世界大戦後、ガンディーは非協力運動(1920-22)や塩税不服従(1930)で再びボイコットを前面に押し出しました。裁判所、学校、役所からの離脱に加え、外国布の不買と焼却、カーディーの推進は最重要課題とされ、チャルカは運動の象徴となりました。国民会議は党規約にカーディーの着用を義務づけ、指導者自身が紡ぎ車を回す姿はメディアを通じて広く共有されました。英貨排斥は、非暴力と自治の倫理を視覚化する舞台装置として機能し、巨大な動員効果を発揮しました。
効果と限界:経済・社会への波紋
英貨排斥が短期的に英国経済を致命的に揺るがしたかといえば、答えは慎重であるべきです。インド市場は確かにイギリス綿工業の重要な販路でしたが、帝国は関税・警察権・司法で強固に防御されており、またインド国内にも英国製品に依存せざるを得ない層が厚く存在しました。安価で丈夫な英国布は貧困層の生活必需品であり、国産布は価格と供給量で劣勢でした。したがって、全面的な代替は現実的ではありませんでした。
しかし、運動の波及効果は無視できません。第一に、国産企業や民族資本の育成が促され、繊維・製塩・製紙・化学などの分野でローカルな起業が増えました。こうした企業は当初小規模でしたが、商人ネットワークや寄付・株式の形で資金が集まり、輸入依存の一部を代替しました。第二に、カーディーの普及は手工業の復権というより、政治的記号として「自立」の感覚を浸透させ、都市中産層と農村を象徴的に結びつけました。第三に、ボイコットの技法(ピケ、説得、ラベル表示、消費者教育)は、のちのインド独立運動だけでなく、各地の反帝国・反差別運動にも学ばれるレパートリーとなりました。
限界も明確でした。運動の主導権は都市の教育を受けたエリートと商人層にあり、最貧層・不可触民・遊民労働者の生活課題と必ずしも接続しませんでした。宗派間の緊張も、ときに運動の横断性を損ないました。ベンガル分割令が1911年に撤回されたのち、スワデーシー運動の勢いは一旦沈静化し、企業の経営や学校の運営には継続性の壁が立ちはだかりました。非協力運動期には暴力事件や警察との衝突が増え、ガンディーが運動停止を宣言する場面も生まれました。こうした揺れは、ボイコットが「日常の抵抗」と「政治革命」の両方の性格を帯びるがゆえの緊張だといえます。
それでも、英貨排斥が残した記憶は根強く、独立後の国民的シンボルにも影響しました。ガンディー帽やカーディー布、チャルカの図像は、国家の発祥神話の一部となり、国内産業保護政策(スワデーシー的な関税・ライセンス制度)とも響き合いました。もっとも、独立後の工業化は機械紡績や重工業中心へと転じ、象徴としての手紡ぎと現実の産業政策の距離は広がりました。
世界史用語としての整理と読み取り
「英貨排斥」という日本語の教科書語は、しばしば「スワデーシー運動(国産品愛用)と英貨排斥」という定型で現れます。試験や概説の文脈では、①1905年のベンガル分割令への抗議から始まり、②国産品の奨励と英国製品の不買・焚却・商店ボイコットがセットで行われ、③ガンディー期の非協力・不服従運動に継承された、という三点を押さえると要旨がまとまります。併せて、背後にある「財富流出」批判と、ランカシャー綿工業を頂点とする帝国交易網の構造を理解すると、単なるナショナリズムの昂進ではなく、政治経済の抗争として位置づけられます。
また、英貨排斥は世界規模の「消費の政治化」の早期事例としても読めます。同時期の中国では排日・排米のボイコットが、アイルランドやエジプトでも英貨・英製品のボイコットが試みられました。帝国と植民地のあいだで商品・広告・規格が均質化するほど、消費者が手に取る品は政治の表面に浮上し、買う/買わないが投票行為に似た意味を帯びていきました。この視角から見ると、英貨排斥は20世紀以降の市民的不服従や倫理的消費(フェアトレード、反アパルトヘイトのボイコット、環境ラベル)に連なる長い系譜の源流の一つに数えられます。
最後に、用語の範囲に関して注意しておきます。英貨排斥は狭義にはインドにおける英国製品ボイコットを指しますが、文脈によってはベンガル分割期の都市運動に限定したり、ガンディー期の不買運動までを含めて広く用いたりします。受験や授業では、ベンガル分割(1905)→スワデーシー・英貨排斥→非協力(1920)→塩の行進(1930)という流れのどこを問われているかを確かめ、具体例(布の焚却、チャルカ、カーディー、商店ピケ、国民学校)を1つ以上添えて説明すると、用語の輪郭が明確になります。

