エジプト・トルコ戦争は、19世紀前半にオスマン帝国の属州であったエジプトが、宗主国オスマン帝国と戦った一連の紛争を指し、通常は1831〜1833年の第一次戦争と1839〜1841年の第二次戦争を含みます。中心となったのはエジプト総督ムハンマド・アリーとその子イブラーヒーム・パシャで、目的は主としてシリア(レヴァント)やアダナなどの支配権の獲得と、エジプトの自立的地位の拡大でした。戦争はエジプト軍の連勝とオスマン側の劣勢にはじまり、のちにヨーロッパ列強の大規模な外交・軍事介入を招きます。結果として、エジプトは世襲総督としての地位を国際的に承認される一方、領土と海軍・陸軍規模が大きく制限され、地中海の海峡(ボスポラス・ダーダネルス)の体制や「東方問題」と呼ばれる国際政治の焦点にも決着の一部がついた出来事でした。つまり、この戦争は、エジプトの台頭、オスマン帝国の再編と弱体化、そして列強の思惑が交差した19世紀の転換点だったのです。
第一次戦争では、エジプト軍がシリアからアナトリアへ進撃し、1832年のコニヤの戦いでオスマン主力を打ち破るなど圧倒的な戦果をあげました。最終的には1833年のクタヒヤ協定で、シリアやアダナなどの行政権がエジプトに与えられ、エジプト優位でいったん収まります。しかし同年、ロシアがオスマンを保護する形でウンキャル・スケレッシ条約を結び、海峡問題をめぐる列強間の緊張が高まりました。第二次戦争では、1839年のネジブの戦いで再びオスマン軍が大敗し、オスマン艦隊の多くがアレクサンドリアへ逃れてエジプト側に合流する異常事態が生じます。これに英・墺・露・普が介入し、1840年のロンドン条約と地中海沿岸での英墺艦隊の軍事行動(アッコン砲撃など)を通じて、エジプトはシリア放棄と軍備縮小を受け入れ、代わりに総督位の世襲化を認められました。こうして、戦場の勝利と引き換えに外交の場で譲歩を強いられたのが、この戦争の大きな特徴です。
発端と背景――エジプトの改革と「東方問題」
エジプト・トルコ戦争の背景には、エジプト総督ムハンマド・アリーの国家建設と軍事改革があります。彼はナポレオンのエジプト遠征後の混乱を収めて台頭し、ワハーブ派鎮圧やマムルーク勢力の整理、綿花単作を軸にした財政基盤の強化、西洋式常備軍や工業・造船の育成などを進めました。徴兵制の導入と軍学校・兵器工場の整備、官僚制の再編は、オスマン帝国内の他州には見られない規模の近代化でした。これによりエジプトは、名目上はオスマン帝国の一部でありながら、実質的には半独立的な軍事・経済国家へと成長したのです。
一方のオスマン帝国は、長期にわたる軍事的後退と財政難に苦しんでいました。19世紀初頭のマフムト2世はイェニチェリの廃止を含む大胆な軍制改革を進め、行政・教育・服制などにも手を入れますが、全体として軍事力は依然として脆弱でした。さらに、ギリシア独立戦争(1821〜1829年)による打撃と、露土戦争(1828〜1829年)での不利な講和は、帝国の権威と軍備を削ぎました。ムハンマド・アリーはギリシア反乱鎮圧の見返りとしてシリアの統治権を求めていましたが、褒賞交渉のこじれと、エジプトの綿花・木材・兵站の利益を直結させたい思惑が、シリア進出の直接的な動機になっていきます。
国際政治的には、ロシア・イギリス・フランス・オーストリア・プロイセンがオスマン帝国の存続と解体をめぐって利害を競い合っていました。いわゆる「東方問題」です。ロシアは黒海・バルカン方面での影響力拡大と海峡へのアクセスを重視し、イギリスはインド航路と地中海の均衡維持、フランスはレヴァントへの経済・文化的進出を進めていました。エジプトが強大化すれば、これら列強の思惑とも衝突しやすくなります。こうして、地方権力の台頭と帝国の再編、列強の駆け引きが交錯する舞台が整いました。
第一次エジプト・トルコ戦争(1831〜1833)――エジプト軍の快進撃とクタヒヤ協定
1831年、ムハンマド・アリーはシリア遠征を開始し、総司令官イブラーヒーム・パシャのもとで近代化されたエジプト軍が北上しました。アレッポやダマスクスなど主要都市は次々に制圧され、エジプト海軍の支援も受けながら、補給線は紅海・地中海の双方から確保されました。エジプト軍は地元の徴税や治安維持を行い、行政官を派遣して統治の既成事実を積み重ねます。住民にとっては新たな徴税・徴兵の負担増がのしかかる一方で、道路・治安の改善や商人保護の効果もあり、現地の反応は一様ではありませんでした。
1832年末のコニヤの戦いは、この戦争の転機でした。アナトリア高原の要地でオスマン軍主力を撃破したエジプト軍は、首都イスタンブルへの進路を開きます。オスマン側は取りうる戦略的選択肢が狭まり、講和か、列強の軍事的支援に頼るかの瀬戸際に追い込まれました。イギリスとフランスはエジプト優勢を前提に調停に動き、ロシアはオスマン保護を掲げて黒海艦隊を動かし、イスタンブル近郊に上陸する構えを見せます。このロシアの圧力は、オスマンにとっては心強い援軍であると同時に、列強均衡を大きくゆるがす要因でもありました。
結局、1833年のクタヒヤ協定により、シリア(ダマスクス・アレッポ・トリポリ・エルサレム)とクーディド・アダナ(チリキア一帯)の行政権がムハンマド・アリーとイブラーヒームに与えられました。彼らはオスマンへの名目的宗主権を認めつつ、実質的にはレヴァント一帯を直轄的に運営することに成功します。これはエジプトにとって大きな勝利でしたが、同年締結の露土間ウンキャル・スケレッシ条約(1833)は、オスマンがロシアの保護下に入ったことを国際的に示し、海峡(ボスポラスとダーダネルス)の閉鎖・開放をめぐって列強の警戒を強めました。クタヒヤ協定はアラブ・地中海世界の力関係を一変させた反面、ロシア優位の海峡体制を呼び込み、次の危機の種もまいたのです。
列強の思惑とシリア統治――緊張の高まり
クタヒヤ以後、エジプトはシリア統治を本格化し、徴税の合理化、治安維持、農業・商業の振興に努めました。とくにレバノン山地では、宗派共同体の権力関係と地方首長の利害、商業ネットワークが複雑に絡み、エジプトの中央集権化政策は時に反発を招きました。徴兵制の拡大は住民に重い負担であり、地方反乱も散発的に発生します。それでもイブラーヒーム・パシャは軍政官僚を用いて、道路・要塞・港湾の管理を強め、オスマンの影響力を切り離す方針を貫きました。
欧州列強は、エジプトの伸長が海峡と地中海全体の均衡を崩すことを懸念しました。フランスはエジプトに比較的好意的で、商業・文化的な結びつきを強めましたが、イギリスはインド航路と東地中海貿易への影響を危惧し、オーストリア(ハプスブルク)とともに現状維持を優先する姿勢を強めます。ロシアはオスマン保護の立場を取りつつ、黒海から地中海への影響力拡大を狙い、プロイセンは連合の一角として外交的に動きました。この入り組んだ利害は、いずれ再燃するであろう二度目の戦争に向けて、介入の準備を進める方向へ傾いていきます。
ムハンマド・アリーにとっても、シリアとアダナの確保は既定路線ではありませんでした。オスマン朝廷は領土回復をあきらめておらず、軍備再建を急いでいました。エジプトもまた常備軍維持と海軍建艦に膨大な資金を要し、綿花単作経済と国家独占貿易のもとで農村・商人への負担が増していました。したがって、両者のあいだに持続可能な妥協点が少ないまま、1830年代後半の再衝突は避けがたかったのです。
第二次エジプト・トルコ戦争(1839〜1841)――ネジブの衝撃、アッコン砲撃、ロンドン条約
1839年、オスマン帝国はシリア奪回を目指して再び大軍を派遣しました。これに対してイブラーヒーム・パシャは北シリア・ユーフラテス方面で迎撃し、ネジブの戦い(別表記ネジブ/ニジップ)でオスマン軍を大破します。この大敗の直後、スルタン・マフムト2世が崩御し、若年のアブデュルメジト1世が即位するという政変が重なりました。混乱の中、オスマン艦隊の大半が司令官の判断でアレクサンドリアに入り、実質的にエジプト側へ身を寄せるに至ります。これは帝国の威信に深刻な打撃を与え、欧州列強の危機感を一気に高めました。
1840年、イギリス・オーストリア・ロシア・プロイセンの四国とオスマン帝国はロンドン条約を締結し、ムハンマド・アリーに対して厳しい条件を突きつけました。フランスは当初これに加わらず、エジプト寄りの立場をとりましたが、最終的には武力介入に踏み切れず、外交的に孤立します。英墺艦隊はレヴァント沿岸に展開し、封鎖と上陸作戦を実施、なかでも1840年秋のアッコン(アッカ)要塞砲撃は象徴的で、海上砲撃と陸戦の協同でエジプト守備隊は崩壊しました。沿岸都市の喪失と山岳部での反乱再燃は、イブラーヒームの後退を決定づけます。
こうしてムハンマド・アリーは、条約受諾へと追い込まれました。エジプトはシリアとアダナを放棄し、地中海艦隊をオスマンに返還、陸軍の兵力も大幅に縮小することを約束します。その代償として、エジプト総督位の世襲化(以後、彼の家系がエジプトを継承する権利)が国際的に承認されました。さらに翌1841年には「海峡協定」(ロンドン海峡会議の最終文書)が成立し、戦時におけるオスマン宗主の許可なき軍艦通行を封じる原則が確認されます。これはウンキャル・スケレッシ条約に代わる新たな多国間枠組みで、ロシア一国の保護体制を排し、列強均衡の名のもとに海峡を国際管理に近い形で固定化したものでした。
軍事面では、近代化されたエジプト軍の戦術・士気・補給の優位が各会戦で示されましたが、制海権と大国外交がもたらす持久的圧力の前に、その戦果を恒久的な領土に転化することはできませんでした。オスマン帝国は列強の支援を得て、失地の回復に成功しますが、同時に海峡体制など主権の一部を国際枠組みに組み込まれていきます。フランスは外交的に一歩後退し、イギリスは地中海のプレゼンスを強化、オーストリアは東地中海の安定化に寄与し、ロシアは黒海・海峡問題での完全な孤立を避ける妥協を受け入れました。
影響と評価――エジプトの世襲化とオスマン帝国の再編
戦後のエジプトは、ムハンマド・アリー家の世襲統治が確立し、名目上はオスマンの臣下でありながら、財政・行政・軍事の多くを自主管理する独特の体制を続けました。海軍再建と兵力拡大には制限が課されましたが、綿花輸出とナイル改修、官僚機構の整備はその後も進み、カイロとアレクサンドリアは地中海と紅海を結ぶ交易の結節点として重要性を高めます。のちのスエズ運河開削に至る道筋も、こうした19世紀前半の国家形成が前提となっていました。
オスマン帝国にとっては、エジプトの分離的傾向を抑えつつ、タンズィマート(1839年の勅令に始まる一連の改革)を推進する契機となりました。軍制・法制度・教育の改革が段階的に進み、帝国の統合を目指す努力が続けられます。ただし、地方の自立性や列強の干渉は容易に解消されず、バルカンやアラブ州での難題は残存しました。海峡体制の国際化は、帝国の安全保障に一定の安定をもたらす一方で、主権の一部が国際条約によって拘束されることを意味し、以後の外交は均衡術に大きく依存するようになります。
国際関係史の観点からは、エジプト・トルコ戦争は「戦場の勝者が外交の敗者になりうる」典型例としてしばしば言及されます。イブラーヒーム・パシャは戦術的・作戦的には優れていましたが、英国海軍力と多国間外交の圧力は、領土保有の政治的コストを跳ね上げました。これは、同時代のギリシア独立・ベルギー独立などで見られる列強協調の枠組みと響き合い、19世紀の国際秩序が「力の均衡」と「多国間合意」に回収されていく過程を示しています。フランスの相対的孤立と、その後の対外政策修正も、1840年前後の危機体験に負うところが大きかったといえます。
社会・経済面では、シリア統治期の徴税・徴兵政策が地元社会に負担をかけ、宗派・部族・都市商人の力学を再編しました。エジプトは行政近代化を拡張し、治安と通商の安定をもたらした側面もある一方で、農民・職人への課税強化や強制労働は不満を蓄積させました。これらの矛盾は、列強介入の衝撃と重なって、1840年前後の急速な秩序変動を生み出しました。こうした経験は、のちのレバント社会における共同体間関係や欧州経済との結びつきにも長く影を落とします。
最終的に、エジプト・トルコ戦争は、エジプトが「帝国内の例外的存在」として法的地位を固め、オスマン帝国が列強のバランスの中で再建を模索する起点となりました。地中海世界の秩序は、海峡体制の確立と海上交通の安全保障によって再編され、19世紀後半の帝国主義時代へとつながっていきます。戦場、条約、財政、社会の各側面が複合的に交錯したこの戦争をたどることで、地域史と国際政治が互いに影響し合う具体的な仕組みが見えてくるのです。

