エジプト人のためのエジプト – 世界史用語集

エジプト人のためのエジプト(Arabic: Miṣr li‑l‑Miṣriyyīn)は、19世紀末から20世紀前半の英領占領下エジプトで掲げられたナショナリズムの標語で、「この国の主権と政治を外来勢力ではなくエジプト人自身の手に取り戻す」という意味を持ちます。単なる排外的スローガンではなく、近代的な「国民」と「市民」を中心に据えて、立憲主義・世俗的公共圏・教育の普及・言論の自由などを通じて国家を再編しようとする理念を伴っていました。ルートフィー・アッ=サイイドら知識人が理論化し、ワフド党など大衆運動の潮流とも重なり合いながら、エジプト民族主義の輪郭を形づくりました。他方で、汎イスラム主義や汎アラブ主義、王権・在地エリート、英国の利害、農村社会の現実との間に緊張を孕み、20世紀を通じて多様な解釈が交錯していきます。古代文明への誇りと近代市民国家の構想、そして地中海・アラブ・アフリカという三つの同心円的な帰属意識が重なり合うところに、この標語の射程がありました。

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概念の成立と歴史的背景

「エジプト人のためのエジプト」という言い回しが意味を持ち始めるのは、19世紀後半に債務危機とスエズ運河の戦略的価値をめぐって列強の干渉が強まり、1882年にイギリスが事実上の占領を開始した文脈においてでした。近代的官僚制や軍隊、学校制度、印刷・新聞の普及は、都市部で新しい公共圏を生み出しますが、政治は宗主国と王権、在地エリートの間で運営され、農村は租税と徴発に苦しみました。こうした状況下で、都市の知識人・官僚・法律家・教師・記者たちは、民族の自己決定と統治能力を主張し、憲法と議会に基づく「国民の国」を構想しました。

20世紀初頭、ルートフィー・アッ=サイイドは新聞『アル=ジャリーダ』や政党ウンマ党の活動を通じて、「エジプト人」という国民的主体の創出を唱えました。彼の議論は、宗教共同体や部族・地方アイデンティティよりも、共通の市民的権利と義務に基づく政治共同体を優先するというもので、立憲主義・法の支配・教育の普及を軸に据えていました。これは、イスラム共同体の連帯を最優先とする汎イスラム主義や、アラブ語を媒介とする広域的連帯を志向する汎アラブ主義と、範囲と優先順位を異にします。彼らの主張は、英領占領への抵抗と、自国の行政・財政を自力で運営する能力の涵養という二つの課題に同時に応答するものでした。

第一次世界大戦後、パリ講和会議に代表団の派遣を求めて立ち上がったサアド・ザグルールとワフド(「代表団」)運動は、独立の大衆的要求を爆発させました。1919年革命と呼ばれる全国規模の抗議・ストライキ・デモは、都市と農村、ムスリムとコプト、男性と女性を越えた参加を生み、民族主義の裾野を広げました。1922年には形式的独立が宣言され、1923年憲法により議会政治が開始されますが、外交・軍事・運河の統制に英国の影響はなお残され、理念の完全実現はいまだ遠いものでした。

思想の中核:国民・市民・立憲主義

この標語に込められた思想の中核は、民族的誇りの回復だけでなく、「誰が国家を構成し、誰のために政治が行われるのか」を市民の観点から問い直す点にあります。第一に、「国民(ウタゥン)」の定義を、宗教や血統ではなく、エジプトの領域に暮らし法の下で平等な権利と義務を持つ住民からなる政治的共同体と捉える傾向が強まりました。これは、コプト教徒を含む非ムスリムの市民権を確立し、宗教的少数派の保護と公共圏への参加を正当化する理論的土台を提供しました。

第二に、立憲主義と法の支配の重視です。官僚制と裁判制度の整備、言論・結社の自由、新聞・議会・政党といった制度的枠組みは、市民が政府を批判し、政策に関与する回路をつくり出しました。法律家や知識人が中心となり、行政権の恣意を抑える規範や、財産権・契約の安定を保障する法秩序が議論され、大学と学校教育はそれを支える人材を育成しました。

第三に、公共教育と女性の社会参加の拡大です。読み書きの普及は国民の政治的能力を高め、新聞・講演会・カフェ・サロンは討論の空間となりました。女性教育の推進やベール着用をめぐる議論、女性団体の活動は、市民的自由の拡張を象徴し、1919年革命では女性のデモ参加が社会に強い印象を与えました。「エジプト人のためのエジプト」は、近代的市民を育てるプロジェクトでもあったのです。

一方で、理念は常に現実との調整を迫られました。大土地所有に支えられた在地エリートの利害、農村の貧困と識字率の低さ、宗教権威や慣習の重さ、王権と英国の影響、地中海・アラブ・アフリカという多重の地政学的圧力—これらは理念の実装を複雑化させ、運動の内部にも「道徳的近代化」を重んじる穏健派と、急進的な社会改革を志向する潮流の差異を生み出しました。

他のイデオロギーとの関係:汎アラブ・汎イスラム・古代志向

エジプト民族主義は、しばしば汎アラブ主義や汎イスラム主義との緊張関係で理解されます。汎イスラム主義は、宗派を超えてムスリム共同体全体の団結を重視し、宗教法と信仰の規範性を政治秩序の核心に据える傾向がありました。これに対し、「エジプト人のためのエジプト」は、宗教を公共倫理の資源と尊重しつつも、法は世俗的合意と国民の利益に基づくべきだと強調しました。

汎アラブ主義はアラビア語と歴史的経験の共有に基づく広域的連帯を掲げ、エジプトも文学やメディア、軍事・外交で中心的役割を担いました。しかし、国家的利害との調整が常に課題であり、エジプト中心の国家建設を重んじる立場は、広域の統合を目指す立場と現実政治のなかで揺れ動きました。古代エジプトへの誇りを前面に出す「ファラオ主義(ファラオニズム)」の潮流は、アラブ連帯とのバランスを取りつつ、観光・教育・記念祝祭を通じて国民的自尊心の核となりました。

結果として、エジプト民族主義は単一の教義ではなく、広いスペクトラムを持つ「語りの場」として機能しました。都市的・世俗的な立憲主義者、宗教的規範を重んじる改革派、社会正義を重視する労働運動や農民運動、王政と妥協する保守派など、多様な立場が「この国は誰のものか」という問いに各々の答えを用意し、政治的競合を続けたのです。

運動の展開:1919年革命から王制期、そして共和国へ

1919年革命後の王制期(1922–1952)には、議会政治が導入され、ワフド党がたびたび政権を担いました。都市の新聞は活況を呈し、大学や職能団体は公共圏のハブとなりました。他方で、英国の軍事・外交上の留保権、王権の政治介入、政党間の角逐、官僚機構の硬直は、安定的な統治を難しくしました。農地改革や租税、公教育、治安の課題は慢性的に残り、理念と現実のギャップはしばしば失望を生みました。

1952年の自由将校団による革命は、王制を廃し共和国を宣言しました。新体制は反英独立の完遂、社会改革、国有化、農地解放を掲げ、国民的自尊心を回復させました。ガマール・アブドゥン=ナセル期には、アラブ民族主義と反帝国主義が前面に出る一方、国内では教育・医療・インフラが拡充され、市民へのサービス国家が形成されました。これを「エジプト人のためのエジプト」の完成とみるか、国家主導の動員が市民的自由の空間を狭めたと評価するかは、解釈の分かれ目となります。

その後の政権は、対外戦争、和平、経済開放、グローバル化に伴う社会変動を経験しました。20世紀末から21世紀初頭にかけては、市民社会とメディアの環境が変化し、権利・透明性・説明責任を求める言説が再び力を持ちます。こうした動きは、「誰のための国家か」「市民は国家に何を求め、何を担うべきか」という原点的な問いを現在に引き戻し、「エジプト人のためのエジプト」という標語を新しい文脈で再解釈させました。

社会的基盤:都市と農村、教育とメディア、ジェンダー

この標語を支えた具体的な社会的基盤として、都市中間層と教育制度の拡大を挙げることができます。法学校やカイロ大学は行政官・教師・弁護士・ジャーナリストを輩出し、官僚制とメディアは公共圏の骨格を形成しました。印刷技術と新聞配達網、読書会や講演会、劇場や映画館は、ナショナルな情報空間を育み、政策や憲法をめぐる議論を可能にしました。

農村については、地代と租税、灌漑と農業生産の循環に縛られた生活構造が、政治参加と教育機会に制約を与え続けました。識字率の地域差は理念の浸透を不均等にし、都市の言説が農村の現実と乖離する危険も孕みました。農民運動や地方議会の制度化、学校と保健の普及は、この断層を埋めるための長期的課題でした。

ジェンダーの観点では、女性教育の拡大と女性運動の台頭が、市民的権利を拡張する重要な要素となりました。職業女性や作家・記者の登場、家族法や婚姻慣行をめぐる議論は、国家と宗教、伝統と近代の折り合いを探る実験でした。1919年の女性デモは象徴的事件として記憶され、以後の数十年にわたり、公共圏における女性の可視性が増していきます。

記憶と象徴:古代遺産、国旗、祝祭、学校教育

「エジプト人のためのエジプト」は、単に政治的議論にとどまらず、記憶と象徴の体系として社会に根づきました。古代遺跡の修復や博物館展示、教科書の構成、国旗や記念日、公共建築の意匠、映画や歌謡における愛国表現は、国民的時間を演出し、市民の感情を育てました。ツーリズムは古代と現代をつなぐ鏡として機能し、ピラミッドやルクソールのイメージは、国際的にも国内的にも、共同体の誇りと収入源の双方を担いました。

都市空間では、広場と橋、大学と裁判所、議会と新聞社といった場所が市民の記憶を刻む舞台となりました。デモ行進や演説、追悼や祝祭は、公共圏の「儀礼」として制度化され、政治文化を形成します。こうした象徴の実践は、理念が抽象にとどまらず、身体感覚を伴って共有されるための重要な回路でした。

連続性と変容:今日的再解釈

21世紀のエジプト社会は、人口増加、都市化、グローバル市場への接続、情報通信技術の普及、宗教と世俗の相互作用など、多数のベクトルが交差しています。こうした環境のもとで、「エジプト人のためのエジプト」は、対外主権の確立という古典的課題から、ガバナンスの質、公共サービスの公平性、透明性と説明責任、文化的多様性の包摂、若者の雇用と教育、女性の参加、少数派の権利保護といった内政上の課題へと重心を移しています。

ディアスポラの拡大も、国民の定義に新しい次元を加えました。国外に暮らすエジプト人が送金や知識、文化交流を通じて国家に参加し、また国家がそれを制度的に取り込むことは、「領域国家」と「ネットワーク国家」の接続という課題を提起します。デジタル公共圏の形成は、かつて新聞と広場が担った役割を部分的に引き継ぎ、情報の可視性と監視・操作の問題を同時に生み出しています。

結局のところ、「エジプト人のためのエジプト」は固定的な教義ではなく、問いの形式として今日まで連続していると言えます。すなわち、「誰がエジプト人とみなされ、どのような権利と義務を持ち、どの制度を通じて自分たちの生活を統治するのか」という問いです。歴史の各局面で、この問いに対する社会の答えは変化し続け、理念はその都度、現実と交渉しながら姿を変えてきました。

まとめ:標語を超える歴史的コンセプト

「エジプト人のためのエジプト」は、帝国と植民地主義の時代に生まれた抵抗と建設の合言葉であり、立憲主義・市民的平等・教育普及・公共圏の拡充という近代国家の構想を伴っていました。同時に、それは汎アラブ主義や汎イスラム主義、王権や宗主国の利害、都市と農村の断層と緊張し続け、単純な民族主義に閉じない複層的な思想として展開しました。古代への誇りと現代国家の制度、地中海・アラブ・アフリカという多重の帰属意識を統合しようとする試みは、世紀を越えて続く課題です。今日この標語を読み直すことは、主権とガバナンス、自由と秩序、包摂と多様性という普遍的テーマを、エジプトという具体的歴史の中で考えることにほかなりません。