衛所制 – 世界史用語集

衛所制(えいしょせい)とは、明代中国で全国的に敷かれた世襲軍戸(軍籍)と屯田(軍屯)を基礎にした軍事・行政の統合的仕組みを指す用語です。洪武帝(朱元璋)が元末の戦乱を収束させる過程で整備し、全国に「衛」「所」という軍事単位を配置して軍人の戸籍(軍戸)を固定し、当番制で警備・出征にあたらせました。軍人は平時に屯田で自給自足し、戦時に動員されるのが原則で、これにより常備軍の兵糧・給与を国家財政から切り離しながら、広域の防衛と治安を維持しようとしたのが特徴です。制度は15世紀を通じて明朝の軍事的背骨として機能しましたが、16世紀以降は財政・社会構造の変化や国防需要の高度化に直面して硬直化し、募兵の常態化・銀納化の拡大・辺境軍の弱体化を招きました。最終的に衛所制は清代の八旗・緑営体制に取って代わられますが、明代国家の性格を理解するうえで不可欠なキーワードです。

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制度の骨格:衛・所・軍戸・屯田

衛所制の最小の理解単位は、その名称どおり「衛」と「所」です。おおまかにいえば、衛は上位の軍事組織で、若干数の所(千戸所・百戸所)を束ね、城・関門・港湾・要衝に駐屯しました。衛の長は「指揮使(しきし)」と呼ばれ、副官に指揮僉事・指揮同知などが置かれます。所は中下位の駐屯単位で、千戸所は「千戸」、百戸所は「百戸」が指揮しました。名目上の定員は時期や地域で差がありますが、衛は数千名規模、千戸所は数百から千名前後、百戸所は百数十名規模と理解して差し支えありません。これらの単位が地方の都司(とし)や行都司、さらに中央の五軍都督府の指揮系統に連結し、軍政と人事のネットワークを形成しました。

人的基盤は軍戸(ぐんこ)です。洪武期の大規模な籍帳整備で、軍役に服する家を固定的に登録し、世襲で軍籍を継承させました。軍戸は「更番(こうはん)」と呼ばれる当番制で衛所に出仕し、非番の期間は屯田に従事して家族の生計と軍糧の一部をまかないました。軍戸は民戸(納税主体としての一般戸)と法的に区別され、居住と移動の自由が制限されるかわりに、一定の租税・差役の免除や軍地の使用権が与えられました。この「戸籍=職分」の固定は、元末の流民化に歯止めをかけ、軍の恒常的維持を可能にする狙いがありました。

物的基盤は屯田(とんでん)です。衛所の周辺や交通の要地に軍屯が開かれ、軍戸とその家族が耕作して軍糧を供給しました。制度上は軍屯(軍人自耕)、民屯(民間の請負耕作)、商屯(商人資本による開発)などの形態があり、地域の生態や市場条件に応じて運用されました。屯田は兵站を地方分散的に確保する手段であると同時に、辺境や荒廃地の再開発政策でもあり、国家は測量・灌漑・倉廩の整備を通じて軍・農の複合体をつくり出しました。

地理的配置も重要です。衛所は首都防衛・皇城の親軍のみならず、辺境防衛線(いわゆる「九辺」や長城沿い)、海防(沿岸の寨・台・衛所)、河川・運河の要衝(漕運の節点)、鉱山・塩場などの専売地、また大都市・交通の岬(みさき)にまで張り巡らされました。これにより、軍事・治安・税収の集配が一体化し、地方統治の骨組みをなしました。

成立と展開:洪武の設計から中期の変容へ

衛所制は、元朝の行省軍制や色目軍人の動員方式を継承・修正しつつ、洪武帝が統一戦争の最中に試行し、統一後に全国へ拡張したものです。洪武初年、彼は軍功による将士の編制を衛・所という定型に整理し、同時に黄冊・魚鱗図冊に象徴される土地・戸籍台帳を整備して、軍戸とその耕地を法的に固定しました。これにより、給金を大量に必要とする常備傭兵制ではなく、農兵的な常備戦力を形成する道が選ばれました。彼は中央に五軍都督府を置き、地方には大都督府・都司・衛所を階層化して、人事は兵部・五軍都督府が管理し、財政は戸部・倉廩が支えました。

永楽帝期には、北伐やモンゴル諸部への遠征、遼東・漠北・西域方面の軍事行動、さらに海上遠征(鄭和)など、大規模運用が続きました。衛所制は遠征軍の母体を提供し、各方面に衛所が増設されます。遼東・宣府・大同など北辺の重鎮には城塞線と烽燧が整えられ、軍屯が帯状に展開しました。南では雲南・貴州の征服と土司統治の再編にともない、漢地軍の衛所と現地の土司勢力が並立・連結する複合統治が進みました。沿海では倭寇対策として衛所・千戸所・水寨が列島状に配置され、港の出入り・海禁政策の執行・密貿易の監視が行われました。

15世紀後半から16世紀にかけて、衛所制は転機を迎えます。第一に、軍戸の世襲が数世代を経て疲弊化し、戸口流出や逃散、代役の雇用(人を雇って番役に充てる)といった歪みが広がりました。屯田は開発初期の収益性が薄れ、灌漑・治安の維持費がかさみ、軍糧の自給率が低下します。第二に、貨幣経済の浸透と税制の銀納化が進むなかで、軍役の負担も銀で代替(折納)される比率が増え、軍籍の名目だけ残って実働が伴わない「空名」の問題が深刻化しました。第三に、北辺ではダヤン・ハーン系蒙古の再編、女直(後金につながる勢力)の台頭で戦術・兵站の高度化が必要になり、旧来の屯田型・更番型の兵制は機動力と訓練で劣勢になりました。

こうした条件の下で、地方の実務家や武将は募兵・練兵を試みます。代表例が東南の対倭戦で活躍した戚継光(せきけいこう)で、彼は里甲を基盤に精選兵を募り、兵器・陣法・操練を近代化して「戚家軍」を編成しました。これらは衛所の枠外(または枠内の名目を借りつつ実態は募兵)で動く弾力的戦力で、沿海防衛や北辺の辺軍再建に投入されました。中央でも張居正の一条鞭法など財政・軍政改革が進み、兵餉(兵の給与)は銀で手当する比重が増します。結果として、16世紀末には衛所制の「農兵的常備+屯田自給」という原型は大きく掘り崩され、名目上の衛所に、募兵・家丁・客兵が付け替わる混成状態が一般化しました。

統治の現場:法と運用、軍政と社会

衛所制の特徴は、軍制が社会制度として深く日常に入り込んでいる点にあります。軍戸は耕地の保有・婚姻・移転・訴訟に至るまで特別規定に縛られ、軍籍の離脱は厳しく制限されました。軍戸の戸主が死亡すれば、子や同族が軍役を継承し、欠員が出ると同村・同所から補充が命じられることもありました。軍の指揮官職も多くが世襲化し、名門の指揮・千戸・百戸家が地域の名望家として振る舞うことが常態化します。これにより、衛所は軍営であると同時に自治的共同体の色彩を帯び、地域社会の秩序形成(治安・災害救援・水利)に参与しました。

屯田の運用では、軍地の測量・割当・出作の規則が整備され、倉廩(軍糧倉)と輸送(漕運・馬政)が組み合わさりました。辺境の衛所では、牧畜・狩猟・交易が収入源として併用され、周辺の遊牧・山地民との共存・衝突が日常化しました。土司地域では、衛所兵と土兵が共同で道・橋・城寨を維持し、朝貢・互市・軍事援助の実務を担いました。沿海の水軍衛所は船団運用・造船・塩場管理に関与し、海禁の抜け道としての密航や「走私」との攻防も絶えませんでした。

軍法と懲罰も重要です。衛所兵は操練・点検・番更を怠ると杖罰・流罪などの制裁を受け、逃散は重罪とされました。とはいえ、実務では地方官・衛所長官・里甲の合意と妥協で運用され、罰金や代役、労役で調整される例も多く見られます。衛所の帳簿と名籍は膨大で、点軍・清冊といった監査が繰り返されましたが、次第に文書と実態の乖離が広がりました。これが「虚糧(帳簿上の軍糧)」「空餉(帳面上の兵士への支給)」の温床となり、軍政腐敗の象徴として批判されました。

都市と衛所の関係も見逃せません。多くの都市に衛所が隣接・内包され、兵士と商工業者が相互依存の関係を築きました。軍の需要(衣食・武具・馬具・塩・紙・竹木)が市場を活性化し、反対に物価高騰は兵士の生活を圧迫しました。軍戸の副業や手工業は都市経済の重要な担い手となり、衛所の繁閑は都市の景気に直結しました。衛所制は、単なる軍事制度にとどまらず、都市と農村、辺境と内地をつなぐ経済のハブでもあったのです。

衰退と転換:募兵常態化から王朝交替へ

16世紀後半から17世紀にかけて、衛所制の形骸化は決定的になります。北辺では女直勢力の統合が進み、火器・騎射・機動の複合運用に対応するため、訓練と即応力を備えた常戦部隊が必要になりました。これに対し衛所は、耕作と番役の二重負担、指揮官の世襲的保守、兵士の貧困化と逃散に苦しみ、戦場での競争力を失っていきます。中央は兵餉の銀支払いを増やし、地方は練兵のために郷勇や家丁を募り、装備を自前調達する「募兵制」が実質的に核となりました。いわゆる「辺餉」の膨張は財政を圧迫し、税制・銀流通の歪み(銀荒)や内地の社会矛盾と結びついて反乱の温床となります。

明末清初の戦乱で衛所は各地で崩壊し、清は八旗と緑営を柱に新たな軍政を構築しました。もっとも、清の緑営の多くは旧衛所の駐屯地・城塞・交通網を継承し、衛所期に形成された軍事地理の遺産は長く生き続けました。沿海・長城・大河の要衝、雲貴高原の通路、遼東の城郭群などは、軍事遺構として現在にも痕跡を留めます。衛所制は、唐宋の募兵・厳密官僚軍制と、清代の旗兵・緑営のあいだに位置する、明王朝固有の「軍民一体化」モデルとして総括できます。

用語の注意として、「衛」「所」は他時代にも登場する一般名詞ですが、世界史用語としての「衛所制」は明代のこの軍制を指します。また、衛所の定員や階梯、屯田の収穫割当などの細目は時期・地域で差が大きく、一律の数値で覚えるより、①軍戸の世襲固定、②屯田の自給原理、③衛・所の分権的配置、④15~16世紀の募兵化という4点を軸に理解するのが有効です。あわせて、北辺(長城線)・南西(雲貴土司圏)・沿海(海防)の三つの地帯で、衛所がどのように地域社会と結びついたかを具体例で押さえると、抽象的な制度が立体的に見えてきます。