エチオピア革命 – 世界史用語集

エチオピア革命とは、1974年を起点にエチオピア帝政が崩壊し、軍部主導の社会主義体制(通称デェルグ:軍事評議会)が成立、やがて内戦と恐怖政治、経済社会の大転換を経て1991年に体制が崩れるまでの一連の変革を指します。皇帝ハイレ・セラシエ1世の長期統治が、飢饉や格差、植民地時代の遺制に似た土地制度、学生運動の高揚、エリトリア独立運動や軍の不満を背景に揺らぎ、1974年の軍反乱が王政を終わらせました。以後、デェルグは急進的な土地改革と国有化、ソ連圏との接近、反体制派への苛烈な弾圧(「赤いテロ」)を行い、隣国ソマリアとのオガデン戦争、各地の反乱鎮圧に追われました。革命は旧体制の矛盾を是正する意図を掲げつつ、長期にわたり暴力と統制を伴い、国家と社会に深い傷跡と新たな政治秩序を残した出来事でした。

この語は狭義には1974年の王政打倒を指しますが、歴史的な文脈では1970年代初頭の危機から1991年の旧体制崩壊までを連続過程として扱うのが一般的です。革命のスローガンは「土地は耕す者に」「民族の平等」「反封建・反帝国主義」でした。実際に行われた改革は大胆で、農村の小作制度を解体し、銀行・保険・大企業の国有化、都市住宅の国有化、農村協同化などが進められますが、戦時体制と結びついた強圧的な運用が反発を招き、反政府勢力の伸長と内戦の長期化を生みました。以下では、背景と勃発、権力掌握と体制形成、戦争と恐怖政治、経済・社会政策と国際関係、そして終局と影響という観点から整理します。

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背景と勃発――王政の矛盾、飢饉、学生運動と軍の反乱

20世紀後半のエチオピアは、アフリカで数少ない旧来の王政国家として知られていました。ハイレ・セラシエ1世は1930年に戴冠し、イタリアの侵略を経て戦後に復位すると、国際連合の創設期からアフリカ政治で存在感を示しました。首都アディスアベバはアフリカ統一機構(OAU、のちのAU)の本部を置き、対外的には近代国家の面目を保った一方、国内の社会経済には深刻な課題が積み残されていました。特に、北部高地を中心に地主が広大な土地を所有し、小作人が地代と労役に縛られる「準封建」的な構造が残っていたことが、農民の貧困と政治不満の温床でした。

1973年前後には、ワッロ州などで大規模な飢饉が発生し、地方行政の怠慢と情報隠しが被害を拡大させました。飢餓と疫病は数十万人規模の犠牲を出し、国際社会の報道を通じて王政の統治能力への疑念が高まります。都市では、大学を中心に学生運動と労働運動が急進化し、「土地は耕す者に」をはじめとする革命的スローガンが力を持ちました。皇帝の周辺では汚職や派閥争いが目立ち、政治改革は後手に回りました。

こうした中で、給与遅配や待遇への不満を抱く下級将兵の抗議が連鎖し、地方駐屯地から反乱が広がりました。1974年6月、将校・下士官らは「武装部隊調整委員会」を名乗り、まもなく「軍事評議会(アムハラ語の頭字から通称デェルグ)」へと再編されます。彼らは治安と改革を名目に政治の主導権を握り、9月には皇帝を拘束・廃位して王政を終焉させました。暫定政府の段階では、文民政治家と軍の二重権力の様相がありましたが、軍内部の粛清と権力集中が進むにつれ、革命の舵取りはデェルグの手に収斂していきます。

権力掌握と体制形成――土地改革、国有化、社会主義化の宣言

王政崩壊後の初期、デェルグは大衆の期待を背に、矢継ぎ早に制度改革を打ち出しました。1975年の土地改革宣言はその中心で、「全土は国家に属する」として地主制を廃止し、農民に耕作権を分配しました。小作と小作料の取り立ては禁止され、農村には行政・治安・徴発の単位として農村協会(ペーザント・アソシエーション)が設けられます。都市では、賃貸住宅の国有化、家賃の引下げ、地代・不動産取引の統制が実施され、金融と大企業の国有化が進みました。

政治面では、デェルグ内部での路線対立を、メンギスツ・ハイレ・マリアム中佐ら急進派が制し、権力集中が進みます。ソ連・キューバ・東独など社会主義諸国との関係を強化し、イデオロギー的にも「科学的社会主義」を掲げました。民間政党や学生組織の一部は、より急進的な人民民主主義を求めて軍を批判し、都市ゲリラや地下活動に移行します。デェルグはこれらを「反革命」とみなし、1976年以降、首都を中心に徹底的な弾圧に乗り出しました。

制度設計の面では、革命委員会や特別裁判所が乱立し、法の支配は非常時体制に置き換えられました。地方行政は軍人出身の革命委員に握られ、農村協会や都市住民協会が行政・監視・動員の装置として機能します。教育やメディアでは識字キャンペーンと革命宣伝が並行し、旧来の社会階層やエスニシティに基づく権威構造を塗り替える試みが進みました。ただし、急速な再編は専門人材の離反や行政能力の断絶を招き、現場では混乱と摩擦が絶えませんでした。

戦争と恐怖政治――赤いテロ、エリトリア、ティグライ、オガデン戦争

革命の帰結として最も暗い影を落としたのが、都市部での「赤いテロ」です。これは、デェルグが都市の左派反対勢力(たとえばエチオピア人民革命党など)を根絶する目的で展開した大量逮捕・処刑・拉致の波で、少年を含む多数の市民が犠牲になりました。遺体が街路に晒され、家族が身代金を支払わねば遺体の引き取りも許されないといった非人道的な手口が報じられ、恐怖は社会を深く蝕みました。メンギスツ個人の権力基盤は強化されましたが、政権の正当性は国内外で著しく傷つきます。

同時に、民族・地域運動との武力対立が激化しました。北部のエリトリアでは、旧イタリア領の植民地支配と戦後の連邦から併合への過程で蓄積した不満が独立運動として結晶し、エリトリア人民解放戦線(EPLF)が長期ゲリラ戦を展開していました。ティグライ州でもティグライ人民解放戦線(TPLF)が蜂起し、農村を基盤に広がります。これらは単なる地方反乱ではなく、独自の行政・税制・軍組織を持つ「解放区」を形成し、中央政府との全面戦争に発展しました。

外部との戦争では、1977〜78年のオガデン戦争が象徴的です。隣国ソマリアのバーレ政権は、ソマリ人居住地域の編入を目指してオガデンへ侵攻し、当初はエチオピア軍を圧倒しました。ところが、ソ連は支援の軸足をソマリアからエチオピアへ移し、キューバ軍・南イエメンなどの支援を含む大規模な軍事援助を実施しました。その結果、エチオピア軍は反攻に転じ、オガデンからソマリア軍を押し返します。この勝利は政権の延命に寄与した一方、軍事化とソ連依存を決定的にし、国内の反乱鎮圧にいっそう強硬な手段を用いる口実にもなりました。

1980年代に入ると、干ばつと戦禍が重なり、農村経済は大打撃を受けます。1984〜85年の大飢饉は世界的な救援活動(「ライヴ・エイド」など)を呼びましたが、政府の強制移住(リセットルメント)や集村化(ヴィラジャイゼーション)は、治安と徴発を容易にする目的と結びついて実施され、国際的な批判を浴びました。援助の軍事流用疑惑や、救援の政治利用をめぐる論争も起こり、政府への不信はさらに高まりました。

経済・社会政策と国際関係、終局と影響――社会主義国家の試行と崩壊、そして残された課題

経済政策は、国家主導の再配分と統制に重心がありました。土地の国有化により地主制は解体し、農民に耕作権が与えられたこと自体は歴史的意義を持ちましたが、同時に価格統制・集荷割当・協同化の圧力が農民のインセンティブを損ない、生産と流通の停滞を招きました。都市でも国有化と管理貿易が供給不足を加速させ、闇市場と官僚腐敗が拡大します。一方で、識字教育や基礎医療、公衆衛生のいくつかの指標は改善し、初等教育や基礎的インフラの整備には一定の成果も見られました。しかし、戦争経済と治安優先の配分が構造的に足を引っ張り、持続的成長にはつながりませんでした。

対外関係では、冷戦構図の中でエチオピアはソ連の軍事・経済援助に依存し、社会主義陣営との関係を強化しました。1987年には新憲法を制定し、国名を「エチオピア人民民主共和国」と改め、一党制に近い体制を制度化します。しかし、ソ連のペレストロイカと東欧革命が波及すると、支援は細り、武器・資金面での脆弱さが露呈しました。1991年、各地の反政府勢力が「エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)」として結集して首都を制圧し、メンギスツは国外へ逃亡、デェルグ体制は崩壊します。北部ではEPLFがアスマラを掌握し、エリトリアは1993年に住民投票で独立を達成しました。

革命の長期的影響としては、第一に土地制度の根本的転換が挙げられます。地主制の解体は既得権を破り、農村の社会関係を再編しましたが、国家所有の下での利用権制度は、21世紀に至るまで農地市場や投資のあり方をめぐる議論を残しました。第二に、民族・言語の多様性をめぐる統治の枠組みです。1995年憲法は「民族自決」の原則を取り込み、民族地域州に大きな自治権を付与しました。これは中央集権的なデェルグ体制への反省から生まれたものですが、同時に地域間関係を複雑化させ、新たな政治交渉と緊張も生みました。

第三に、国家と暴力の関係をめぐる記憶です。赤いテロや強制移住、戦時の人権侵害は、加害・被害の多層的な記憶を残し、和解と責任追及の課題を現在まで引き継ぎました。体制崩壊後には特別法廷や証言の公開、記念館の設置などが進められ、歴史の可視化が試みられています。第四に、国際援助と主権の関係です。飢饉対応と戦時動員が絡み合った1980年代の経験は、人道支援の政治的中立性、政府と援助機関の関係、救援物資の配分の透明性と説明責任をめぐる国際的議論の一里塚になりました。

総括的に見ると、エチオピア革命は、旧来の王政と土地制度を終わらせ、国家の近代化を強権的に進めようとした試みでした。しかし、戦時動員と恐怖政治、外部戦争と内戦が重なり、改革の実を食い潰しました。冷戦の終結とソ連の後退が直接の終幕をもたらしましたが、その背後には、社会的同意を欠いた急進改革の脆さ、民族多様性の繊細な管理、農村経済の自立性と国家の再配分の均衡という、より構造的な問題がありました。革命はエチオピアを一変させたと同時に、長い再建の道を残したのです。