「エチオピア侵攻(1935〜36)」は、ムッソリーニ政権下のイタリアが、独立国であったエチオピア帝国(アビシニア)に対して行った侵略戦争を指します。1935年10月に北部・南部から同時侵攻が始まり、1936年5月に首都アディスアベバが占領されてエチオピアは一時的にイタリア領東アフリカ(AOI)へ編入されました。国際連盟は侵略行為と認定して経済制裁を科しましたが、石油禁輸やスエズ運河封鎖といった決定打を欠き、抑止に失敗しました。イタリア軍は毒ガス(マスタードガス)などの化学兵器を多用し、多数の軍民が犠牲となりました。エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は亡命ののち国際連盟で演説し、集団安全保障の原則を訴えましたが、国際秩序の無力さは広く露呈し、欧州外交の均衡(ストレーザ戦線)の崩壊、ローマ=ベルリン枢軸の形成、スペイン内戦や第二次世界大戦への道を速める結果となりました。要するに、この侵攻は、帝国主義の延命とファシズムの外征、そして集団安全保障の試金石が同じ場で試された事件だったのです。
イタリアは戦術・兵站・航空力で優位に立ちながら、山岳と高原・乏しい道路網・長大補給線に悩まされました。エチオピア側は近代化途中の装備ながら、地形を活かした防衛と民族動員で抵抗しました。決定局面は北部戦線の連続会戦(アンバ・アラダム、テンビエン、マイチュー)で、指揮官バドリオの下、航空・砲兵・毒ガスを投入したイタリア軍が突破に成功しました。以後、首都が陥落しても各地で「パトリオッツ(抵抗勢力)」の戦いは続き、英連邦軍の援助を得て1941年の東アフリカ戦役でエチオピアは解放されます。本稿では、発端と国際環境、作戦の推移、国際連盟と各国の対応、そして侵攻の結果と影響を整理します。
発端と国際環境――ワルワル事件、帝国構想、連盟体制の揺らぎ
直接の発火点は1934年末の「ワルワル事件」です。イタリア領ソマリランドとエチオピアの国境未画定地域ワルワル・オアシス周辺で衝突が起こり、双方に死傷者が出ました。イタリアは国境侵犯と主張して軍を増派し、エチオピアは国際連盟への提訴に踏み切ります。調停は長引き、ムッソリーニはこの機会を利用して長年の宿願である「アフリカ帝国」拡張と国家威信の高揚を図りました。第一次世界大戦での戦勝国でありながら得るものが少ないという「未回収の勝利」感情、国内の経済停滞や社会不満を外征で糊塗する政治計算が働いていました。
戦前のイタリアは、リビアやエリトリア、ソマリランドをすでに植民地化しており、エチオピアをこれらの間に挟まれた“空白”として統合し、紅海とインド洋にまたがる広域植民地(イタリア領東アフリカ)を築く構想を温めていました。さらに、ファシズムの軍事的デモンストレーションは国内外への威嚇効果をもつと期待されました。他方、エチオピア側は20世紀初頭のアドワの戦い(1896)でイタリアの侵略を撃退した歴史的記憶を誇りとして持ち、ハイレ・セラシエは行政・軍制・教育の近代化を進めていましたが、装備・訓練・通信では欧州列強に及びませんでした。
国際環境もイタリアにとって追い風でした。英仏はドイツの再軍備とヒトラーの台頭を前に、イタリアを対独牽制の一角として引き留めたい思惑がありました。1935年4月に英仏伊がナチス牽制で一致したストレーザ戦線は、エチオピア問題で試されます。ところが英仏は経済制裁は支持しても、石油禁輸やスエズ運河封鎖など軍事的対抗措置には踏み込みませんでした。ここに、連盟体制の「決め手の欠如」という致命傷が現れます。
戦争の推移――北部・南部からの同時侵攻、航空・化学兵器と山岳戦
1935年10月3日、イタリア軍はエリトリア(北部戦線、司令官デ・ボーノ)とソマリランド(南部戦線、司令官グラツィアーニ)から同時侵攻を開始しました。当初は道路建設と補給基地の整備を重視し、装甲車・砲兵・航空機を揃えた近代軍がじわじわと進撃しました。北部では高原と峡谷が続く難地形のため、エチオピア軍は部族単位の動員ながら健闘し、正面決戦を避けつつ地形を利用した防衛を展開します。イタリア側は補給の遅滞と戦果の鈍さから指揮官交代に踏み切り、11月に総司令官に就いたバドリオは航空優越と重砲集中、そして毒ガス投下という三点を軸に攻勢計画を練り直しました。
1936年初頭、北部戦線で連続会戦が始まります。まず「アンバ・アラダムの戦い」で高地陣地を空爆と砲撃で圧迫し、歩兵突撃で占領しました。続く「第一次・第二次テンビエンの戦い」では、谷筋に誘導して包囲殲滅を図り、退路に対して航空機からマスタードガスを散布して被害を拡大させました。これらの戦いでエチオピア軍の中核が損耗すると、決定局面の「マイチューの戦い」(3月末)でハイレ・セラシエ自らが前線に赴き総反撃を試みましたが、イタリア軍の火力と航空優勢、化学兵器の併用の前に崩れ、北方の戦線は瓦解しました。
南部では、グラツィアーニが機動戦と航空支援でオガデン方面から圧力を強め、乾燥地帯での補給劣勢にもかかわらず、村落・井戸・道路結節点を押さえる戦術で前進しました。抵抗拠点の掃討では毒ガス使用が体系的に行われ、避難民や家畜にも甚大な被害が出ました。3月以降、北部が崩れると南北の進撃が収斂し、アディスアベバへと落下傘的に圧力が集中していきます。
4月末から5月初頭にかけ、エチオピア政府は首都防衛の困難を悟り、皇帝は家族とともに一時退避します。1936年5月5日、イタリア軍はアディスアベバに無血入城しました。ムッソリーニは数日後にエチオピアの併合と「皇帝廃位」を一方的に宣言し、イタリア国王を「エチオピア皇帝」と称させ、既存のエリトリア・ソマリランドを含めて「イタリア領東アフリカ(AOI)」を発足させました。しかし、これは名目上の制度整備であり、実地では広大な高原と山地を掌握し続けるため、過酷な治安戦がその後も続きます。
国際連盟と各国の対応――制裁の限界、ホーア=ラヴァル協定、連盟体制の失墜
国際連盟はエチオピアの提訴を受けて侵略行為を認定し、加盟国に対し武器・一部原材料の禁輸など経済制裁を勧告しました。しかし、石油禁輸とスエズ運河閉鎖という二つの決定的措置は、英仏の慎重姿勢により実現しませんでした。石油が遮断されればイタリアの機械化部隊と空軍は致命的打撃を受け、スエズ封鎖は補給線を一挙に窒息させうるものでしたが、英仏はイタリアのドイツ接近を恐れて躊躇しました。これにより、制裁は象徴的効力に留まり、ムッソリーニの強硬姿勢をむしろ助長する結果となりました。
さらに、1935年末には英仏外相による秘密交渉(ホーア=ラヴァル協定)が進められ、エチオピア領の大部分をイタリアの勢力圏として事実上認める妥協案が浮上しました。これは世論の強い反発に遭って頓挫したものの、連盟の「集団安全」の理念が加盟国の権益政治に譲られる現実を露呈しました。こうした経緯は、エチオピアにとって国際法の庇護が空手形であることを示し、のちにハイレ・セラシエがジュネーヴで演説した「今日われわれに、明日は諸君に」という警句に結晶します。
ドイツと日本は当初から制裁に加わらず、イタリアとの関係改善に動きました。英仏の迷走はムッソリーニを枢軸側へ傾け、1936年秋のローマ=ベルリン枢軸の成立へとつながります。これは、対独包囲網としてのストレーザ戦線の実質的な瓦解を意味しました。スペイン内戦(1936〜)がすぐ後に続き、イタリアとドイツの干渉はますます露骨になっていきます。
占領・抵抗・その後――AOI体制、テロル、抵抗運動、そして解放
占領後のイタリア統治は、道路と行政区画の再編、衛生・教育施設の建設などの「開発」を謳いながら、実際には厳しい軍政と人種差別的秩序を敷きました。高原部やオロミア、ティグライでは抵抗運動(パトリオッツ)が続き、ゲリラ戦と懲罰作戦が繰り返されます。1937年2月、アディスアベバでイタリア総督グラツィアーニに対する爆弾攻撃が発生すると、報復として数日間にわたる無差別的な虐殺・大量逮捕が行われ、多数の市民・聖職者が犠牲になりました。修道院や村落の焼き討ち、化学兵器の再使用など、占領統治は暴力と恐怖に支えられました。
一方、亡命したハイレ・セラシエは国際的支持の獲得に努め、連盟演説での訴えは道義的影響を残しました。第二次世界大戦が勃発すると、英連邦軍は東アフリカ戦域で攻勢に出て、1941年にエリトリア・ソマリランド・エチオピア各地でイタリア軍を撃破し、エチオピアは解放されます。ハイレ・セラシエは帰国して王政を復位し、戦後の国際秩序で独立国の地位を再確認しました。イタリア領東アフリカの構想は短命に終わり、エリトリアの帰属問題はその後の地域政治に新たな課題を残しました。
影響と評価――集団安全保障の挫折、枢軸形成、植民地主義の末期像
エチオピア侵攻の衝撃は三重に評価されます。第一に、国際連盟の集団安全保障の失敗です。加盟国の利害得失が先行し、致命的制裁を避けた結果、侵略抑止に失敗しました。これは小国・非西欧諸国に対し、国際法の庇護が条件付きであることを痛感させ、アジア・アフリカの反植民地主義運動の警鐘ともなりました。第二に、欧州外交構造の変化です。英仏はイタリアを引き留める計算で妥協しましたが、逆にイタリアをドイツ側へ押しやり、枢軸形成を促しました。これは対独抑止に致命的で、スペイン内戦やオーストリア併合、チェコスロヴァキア危機へと続く一連の展開に影を落としました。
第三に、植民地主義の末期像としての意味です。航空機・毒ガス・機械化部隊・道路建設など、近代軍事と「開発」が同じ口で語られ、住民統治は人種主義と暴力に支えられました。イタリアは戦間期の「遅れた帝国主義」の典型を示し、短期の軍事的成功が長期統治の正統性と持続性を欠くことを証明しました。エチオピア側の抵抗は、国家主権と民族自決の理念を世界に訴え、戦後アフリカの独立運動の記憶の一部となります。
また、化学兵器の大規模使用は、第一次大戦の経験を持ちながらも「文明国」を自認する欧州列強が、非欧州の戦場で国際規範を踏みにじる二重基準を示しました。これは戦後のジュネーヴ体制の強化や、化学兵器禁止の国際的な議論に間接的な影響を与えました。人道法の適用範囲と戦時責任の問題は、今日に至るまで歴史認識と国際司法の対象であり続けています。
総じて、エチオピア侵攻は一国の領土征服に留まらず、戦間期の国際秩序の弱点、植民地主義の暴力性、そして小国の主権と国際世論の力の限界を浮き彫りにしました。勝者の側に立ったはずのイタリアは、短期的な領土獲得と威信の増大を得る一方、長期的には国際的孤立と枢軸への依存を深め、敗戦によってすべてを失います。エチオピアの抵抗と亡命外交は、法と正義の言葉がすぐに力を持たない現実を示しながらも、後の時代に長く響くモラルな遺産となりました。侵攻の全体像を辿ることは、戦争と法、安全保障と正義の関係を考えるための、今なお有効な手がかりを与えてくれるのです。

