エフェソス公会議 – 世界史用語集

エフェソス公会議は、431年に東ローマ帝国の都市エフェソスで開かれたキリスト教の大公会議で、マリアを「神の母(テオトコス)」と呼ぶことの是非、そしてキリストの位格理解をめぐる論争に決着をつけた出来事です。対立の中心は、コンスタンティノープル総主教ネストリオスと、アレクサンドリア総主教キュリロスでした。会議は皇帝テオドシウス2世の招集で行われ、キュリロス派が主導してネストリオスを異端と断じ、テオトコスの称号を公に確定しました。この判定は、後の教義整理と教会世界の地図に深い影響を与え、451年カルケドン公会議への道筋をつけました。理解の要点は、(1)背景にあるアレクサンドリア学派とアンティオキア学派のキリスト論の差、(2)会期中の政治・手続をめぐる綱引き、(3)判決後の和解と分裂(433年の「和解の式」から東方教会の独自発展まで)にあります。

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背景――学派間のキリスト論、皇帝政治、テオトコスをめぐる語の重み

4世紀のアリウス論争を経て、三位一体の枠組みはニカイア信条で整えられましたが、キリストにおける「神性」と「人性」の結びつきをどう説明するかは、なお多様でした。アレクサンドリア学派は、ロゴス(御言葉)が受肉した主体の統一を強調し、「一つの位格における神人の合一」を強く打ち出しました。他方、アンティオキア学派は、歴史の中で行為するイエスの実在性と人間性の完全さを守るために、区別の言語と段階的合一の図式を好みました。

火種になったのは、マリアの称号でした。キュリロスは、受肉したのがロゴスそのものである以上、マリアは「神の母(テオトコス)」と呼ばれるべきだと主張しました。ネストリオスは、神性の源であるロゴスを「生む」ことは不可能で、適切なのは「キリストの母(クリストトコス)」だと論じ、テオトコスを公礼拝で用いることに慎重でした。ここには用語の好みを超えて、主体の統一を強調するか、区別を保持するかというキリスト論の差が凝縮されていました。

政治的背景も重層的でした。首都コンスタンティノープル総主教座の発言力拡大に対し、伝統の重いアレクサンドリア座は警戒心を強めていました。宮廷では、皇帝テオドシウス2世と姉プルケリアの宗教的影響、妃エウドキアの人脈など、派閥関係が絡みます。ローマ教皇ケレスティヌス1世はキュリロスを支持し、ネストリオスに見解撤回を求め、アジア・小アジアの司教たちも動員されました。こうして神学・首位権・宮廷政治が重なり、エフェソスでの決戦が準備されました。

会議の進行――先行開会、欠席派の抗議、ネストリオスの断罪とテオトコスの確定

431年6月、皇帝詔により諸教会の代表がエフェソスに集まりました。議長にはキュリロスが任じられ、ローマ教皇の使節は到着が遅れていました。アンティオキアのヨハネ(ヨアンネス)率いる司教団の到着も遅延し、キュリロス派はこれを待たずに開会します(6月22日)。この先行開会が、後の正統性論争の焦点になります。

初会期でキュリロス派は、ケレスティヌス書簡や自派の教説を朗読・確認し、ネストリオスの陳述を求めましたが、ネストリオスは出席を拒みました。そこで議場はネストリオスを欠席裁判の形で審理し、異端として罷免・破門を宣言します。街では「テオトコスを称えよ」の声があがり、群衆の熱狂が会期の空気を左右しました。数日後に到着したアンティオキア派は、先行開会に抗議して別会合を立ち上げ、逆にキュリロスを罷免すると宣告します。ここに「二つのエフェソス会議」が並立する混乱が生じました。

調停に赴いた皇帝代理や高官たちは、混乱の収拾に苦慮しました。最終的には、ローマ使節の到着と宮廷の意向がキュリロス派を支持する形に傾き、皇帝はネストリオスの退位・修道院蟄居を命じます。公文では、マリアのテオトコス称号が告解・礼拝に正統とされ、キュリロスが提示した十二の破門条項(ネストリオス的命題の逐条否定)が参照点として受け入れられました。ただし、アンティオキア派の全面屈服ではなく、政治的決着の色合いが濃い帰結でした。

余波――433年の和解、教派の再編、東方世界への伝播

会議後も対立は続きました。アンティオキア派の多くは、自派のキリスト論が否定されたとは受け取りませんでした。中道派の重鎮ヨハネとキュリロスは、433年に「和解の式(フォルムラ・レウニオニス)」に合意し、キリストにおける「自然(フィシス)の区別」と「位格(プロソポン)の合一」を併記する文言で妥協を図ります。すなわち、マリアをテオトコスと呼ぶこと、受肉したのがロゴスそのものであることを確認しつつ、キリストの中に神性と人性の区別を認める表現を残しました。

ネストリオス本人はエジプトの修道院に送られ、のちに砂漠の地で没します。しかし、彼の名と関連づけられた神学傾向(厳格な区別を強調する解釈)は、シリアやペルシアの教会に受け継がれ、サーサーン朝のもとで自立的な発展を遂げました。いわゆる「東方教会(後のアッシリア東方教会)」は、エフェソス公会議後に帝国教会から距離をとり、メソポタミアから中央アジア、中国唐代の景教へと広がる宣教の母体になります。ここで注意すべきは、東方教会が単純な「ネストリオス主義」だけを信奉したわけではなく、アンティオキア系伝統の広いスペクトルをもっていたことです。

エフェソスの判決線は、451年のカルケドン公会議で再調整されます。カルケドンは「一つの位格における二性(神性と人性)の混合・変化・分割・分離なしの結合」という古典的定式を提示し、アレクサンドリア・アンティオキアの表現を包摂するバランスを目指しました。しかし、これに異議を唱えるミア・フィシス派(のちのオリエント正統派/非カルケドン派)も現れ、エフェソス—カルケドンの連続は、逆に新たな分岐線を可視化する結果にもなりました。

用語と史料――『語録』と書簡群、手続の政治、後世の記憶

エフェソス公会議を理解する鍵は、神学用語と会議手続を区別して追うことです。テオトコス(神の母)は、マリアの神格化ではなく、受肉の主体がまさにロゴスであることの短い言い換えです。「二性」「位格」「本性」などの語は、哲学的素養を前提に緻密に使い分けられました。キュリロスの十二破門条項、ネストリオスの説教断片、ローマ教皇ケレスティヌスの書簡、皇帝詔、会議議事録は、当時の表現のニュアンスを伝える一次史料です。手続の政治としては、先行開会と欠席裁き、複数会議の並立、群衆の動員、皇帝の裁決という「宗教と政治の結節点」が、判決の行方を左右しました。

後世の記憶では、431年のエフェソスが「テオトコス確定の公会議」として祝祭化される一方、449年の第二次エフェソス会議(通称「強盗会議」)が非難の対象として対置されます。強盗会議は、ディオスコロスらの主導で反対派を暴力的に押し切ったとされ、カルケドンで無効化されました。この二つの「エフェソス」の対比は、正統教義の形成が常に政治と手続を伴い、権威と調停のバランスの上に築かれたことを教えてくれます。

総じて、エフェソス公会議は、言葉の選び方一つが宇宙論・救済論・教会秩序に波及する、古代キリスト教世界の「言語の緊張」を示す事件でした。マリアをテオトコスと呼ぶか否かという問いは、実は「キリストという一者の主体は誰か」を問う神学の核心を突いており、その答えに教会の一致と分裂の命運がかかっていました。431年のエフェソスで結ばれた糸は、帝国教会の地図、東西の交流、さらにはシルクロードの宗教史にまで長い影を落としていきます。出来事の背後にある学派間の思考様式、都市と宮廷の磁力、信徒の声を重ねて読むとき、この公会議の立体像が見えてきます。