オランダ独立戦争は、16世紀後半から17世紀前半にかけてネーデルラントの諸州がハプスブルク=スペインの支配に抗し、長い内戦と国際戦争の連鎖の末に「ネーデルラント連邦共和国(オランダ共和国)」として独立を達成するまでの過程を指します。一般に「八十年戦争(1568〜1648年)」と呼ばれ、宗教改革と君主主義・地方自治の衝突、地中海・大西洋・バルト海を結ぶ通商利害、印刷・金融・要塞技術の革新などが重なった、近世ヨーロッパの転換点です。戦争は、スペイン王フェリペ2世の中央集権化と宗教弾圧に対する抵抗として始まり、ウィレム1世(沈黙公)を中心に諸州連合が編成され、都市と商人、難民と傭兵、パンフレットと説教が交錯する“総合戦”へと拡大しました。1579年の南北分裂(アラス同盟とユトレヒト同盟)、1581年の「君主放棄宣言」、1609年の十二年休戦を経て、最終的に1648年ウェストファリア体制の一部であるミュンスター和約で独立が国際承認されます。結果として、共和国は海運・金融・学芸の「黄金時代」を迎え、国際政治ではスペイン・ハプスブルクの覇権が相対化しました。
背景と開戦—宗教改革、地方特権、ハプスブルクの中央集権
16世紀のネーデルラントは、ブルゴーニュ家以来の都市発達と商業で栄え、自治と慣習法(ジョイエウーズ・アンテリーン)を尊重する政治文化を持っていました。カール5世はこの多様な諸州を「十七州」としてまとめ、異端審問の強化と行政再編で統合を進めます。1556年、皇帝の座を退いたカール5世は息子フェリペ2世にネーデルラントを譲り、スペイン王権のもとで中央集権化が加速しました。司教区の再編や税制の整備は、都市と貴族にとって既得の特権侵害と映り、カルヴァン派の拡大とともに緊張が高まります。
1566年、貴族・市民は宗教寛容と弾圧緩和を求めて請願(コンプロミ)を行い、同年夏には「偶像破壊(ベールデンストルム)」が各地で発生しました。フェリペ2世は強硬策に転じ、1567年にアルバ公を総督として送り込み「血の法廷」を設置、反対派の処断と「十分の一税」導入を図ります。これにより都市経済は動揺し、寛容と自治の回復を掲げる抵抗運動が広がりました。ウィレム1世は当初は調停を試みたものの、粛清と重税の継続で武装抵抗へ傾斜し、1568年に蜂起します。これが「八十年戦争」の発端です。
初期の戦局は必ずしも反乱側に有利ではありませんでしたが、海上で「海乞食(ゼー・ベッデン)」が行動の自由を得ると潮目が変わります。1572年4月、海乞食がブリールを奇襲占領すると、ホラントとゼーラントの諸都市が次々と反乱側に転じ、ウィレムはホラント州総督(スタットハウダー)に迎えられました。水門と堤防を操作して平地を浸水させる防衛(のちの「オランダ水防線」の原型)が導入され、都市は包囲戦に耐えて連合の核が形成されます。
戦争の展開—南北分裂、君主放棄、十二年休戦、再開戦
スペイン軍の規律崩壊による「スペインの虐殺(1576年アントウェルペン襲撃)」は諸州に衝撃を与え、同年の「ゲント和約」で南北の州が一時的に結束して外国軍の撤退と旧来の自由の回復を掲げました。しかし宗派と利害の差は大きく、1579年、南部カトリック諸州はアラス同盟を結んでスペイン側へ回帰し、北部諸州(オランダ、ゼーラント、ユトレヒト、フローニンゲン、ヘルダーラント、オーフェルアイセル、フリースラント)は「ユトレヒト同盟」を締結して連邦の枠を固めます。この分裂によって、のちのベルギーとオランダの地域的分化の輪郭が定まりました。
1581年、北部連邦は「君主放棄宣言(プラハティエ宣言)」を採択し、フェリペ2世の暴政を理由に忠誠を破棄します。これは統治契約論の先駆として評価され、主権が諸州・国民にあることを論理づけました。ウィレム1世は政治の象徴として連邦の顔となりますが、1584年デルフトで過激派に暗殺されます。後継の指導はナッサウ家のモーリッツ(オラニエ公)とホラント州大書記オルデンバルネフェルトが担い、軍事と財政の二本柱で共和国を安定化させました。
モーリッツは連隊のドリル、射撃訓練、方陣と射撃線の組み合わせ、稜堡要塞の科学的攻防など「軍事革命」の実践で知られます。ネイメーヘン、デヴェンテル、フローニンゲンなど河川沿いの都市を次々と奪回し、1600年のニューポールト会戦では野戦でスペイン軍(アルブレヒト)を撃退、軍の自信を高めました。他方で、長期化する包囲戦は財政を食い、1601〜04年のオステンド包囲は両陣営に甚大な人的・財政的損耗を与えます。こうした疲弊のなか、1609年に「十二年休戦」が成立し、共和国は事実上の国際的承認と平時の呼吸を得ました。
休戦期、共和国は海外進出で躍進します。1602年オランダ東インド会社(VOC)、1609年アムステルダム銀行、1612年交換所、1621年には西インド会社(WIC)が設立され、バルト海穀物、北海鰊、地中海ワイン、香辛料・砂糖・奴隷貿易が結び付けられました。印刷・学芸・科学も繁栄し、宗教論争(アルミニウス派とゴマルス派)や政治闘争(モーリッツとオルデンバルネフェルトの確執、後者は1619年に処刑)が、共和国の権力均衡と自由の限界を露呈させます。
1621年に休戦が切れると戦争は再開し、スペイン側の名将スピノラが再び優勢を示す局面もありました。大西洋・カリブ海・ブラジル・アフリカ西岸では私掠戦と植民地戦争が展開し、WICはレイスボーアの銀艦隊拿捕(1628)などで財政を下支えします。北海ではダンケルク私掠船への対策が焦点となり、共和国の海軍・商船・保険の連動が試されました。三十年戦争の大枠の中で、フランスと共和国の利害は収斂し、対スペイン包囲が形成されていきます。
国家形成と社会—合議共和政、財政・金融、宗教と寛容
共和国の政治制度は、諸州の連邦制と合議が骨格でした。各州議会と都市レジームが課税・軍費・外交を担い、諸州代表会議(スターテン・ヘネラール)が共同政策を決定します。ホラント州の発言力は大きく、州の「大書記(ラート・ペンシオナリス)」が政府の頭脳として機能しました。総督(スタットハウダー)は軍事指揮と象徴の役割を持ち、とくに戦時には求心力を発揮しますが、権限は制度的に制約され、共和派(州党)との綱引きが常態化していました。
財政面では、アムステルダムを中心とする公債市場と銀行・保険・取引所が戦費を支えました。都市が担保する課税(酒税・塩税・関税)と年金(ライフアニュイティ、パーペチュイティ)への信認は、徴税の予見可能性と利回りの安定で裏打ちされ、これが「財政軍事国家」としての共和国の基盤となります。物資動員では、バルト海からの穀物・木材、北欧のタール・マスト、ライン川の運上、国内の水運が、海軍と要塞・陸軍の生命線でした。
宗教と社会では、カルヴァン派が公教会として位置づけられる一方、カトリックやメノ派、ユダヤ人、難民受け入れへの一定の寛容が都市社会で広がりました。完全な信教自由ではないものの、地下教会や私的な礼拝が黙認され、出版・学問・取引の自由度は欧州で最も高い水準に達します。亡命学者・職人・商人が流入し、技術と資本の蓄積が進みました。印刷と版画はプロパガンダの武器となり、パンフレット戦・説教・風刺画が世論を形づくり、国債消化や募兵にも影響を与えました。
国際秩序と講和—ミュンスター和約とウェストファリア体制
1640年代に入ると、スペインはポルトガルの反乱(1640)やカタルーニャ動乱で多正面に疲弊し、フランスとの戦争も長期化していました。こうした中で進められたのが、ウェストファリア講和会議の一環としてのオランダ=スペイン交渉です。1648年のミュンスター和約により、スペインはネーデルラント連邦共和国の主権を正式に承認し、スヘルデ川航行の制限、交易特権、境界線の確定などが取り決められました。南部(スペイン領ネーデルラント、のちのベルギー)はスペインのもとに残り、北部共和国は国際法上の主体として列国の一員に加わります。
講和は、単なる戦争終結ではなく、主権国家の相互承認と条約による秩序形成というウェストファリア体制の一角を固める出来事でした。共和国は外交常駐使節と国際法の実務で先駆的役割を果たし、海上法や中立権の議論にも影響を与えます。以後、英蘭・仏蘭の競合・協調が17世紀後半の欧州政治を動かし、オランダは通商と金融の「小国大国」戦略でプレゼンスを保ちました。
影響と意義—黄金時代、軍事革命、契約と寛容の政治文化
独立戦争は、軍事・財政・社会・思想の面で長期的影響を残しました。軍事では、モーリッツらによる訓練・隊列・砲兵・要塞運用がプロフェッショナルな常備軍モデルを確立し、ヨーロッパ全域の軍隊が参照する標準を生みました。財政では、公債と銀行・保険・取引所の連鎖が「金融革命」の先駆をなして、英蘭金融の結合(のちのイングランド銀行、国債市場)へと橋渡しします。社会では、宗教寛容と都市自治の伝統が、学問・芸術・出版の自由度を高め、レンブラントやフェルメール、スピノザ、フーゴー・グロティウスらの活動を支えました。
政治思想においては、君主放棄宣言に体現される統治契約論、主権の所在をめぐる議論、合議と地方分権の重視、言論と信仰の実践的寛容が、近代政治文化の要素として広がりました。対外的には、共和国の台頭がスペイン・ハプスブルクの覇権を相対化し、フランス・イングランド・オランダの三角関係が新たな均衡を形づくります。海上帝国としてのVOC・WICの活動は、アジア・アフリカ・新大陸の社会に深い足跡を残し、交易と暴力、知の交流と搾取という二面性を孕みました。
総じて、オランダ独立戦争は、地方自治と宗教、通商と軍事、印刷と金融が交差する「近世革命」でした。敗戦と勝利の単純な序列ではなく、都市と農村、港と内陸、南と北の複雑な利害調整が、合議共和政という独自の国家を産み出しました。講和後に訪れる黄金時代は、戦争がもたらした制度と技術、ネットワークの上に築かれたものであり、同時にその限界—寛容の境界、植民地支配の暴力、対外競争の激化—も抱え込んでいました。オランダ独立戦争を学ぶことは、近代を準備した「契約と寛容の政治」、そして財政と世論に支えられた長期戦の統治技術を理解する最短の入口なのです。

