「カボット(父子)」は、15~16世紀の大航海時代に北大西洋の探検を推し進めた航海者ジョン・カボット(伊名ジョヴァンニ・カボート/英名ジョン・カボット)と、その子セバスチャン・カボットを指す通称です。父のジョンはイングランド王ヘンリ7世の後援で1497年に北西航路を求めて航海し、現在のカナダ東岸(ニューファンドランド周辺とされる)に到達した人物として知られます。これはヴァイキング期以来のヨーロッパ人による北米大陸接近の「再発見」となり、のちのイングランドの北米進出に象徴的な起点を与えました。子のセバスチャンは地図作成と航海計画の才で諸宮廷に仕え、スペイン王権のもとでラプラタ川方面の探検(1526–1530)を指揮したのち、イングランドで北東航路(ロシア経由のアジア到達)を構想し、1550年代のモスクワ会社(ロシア会社)創設に深く関与しました。父子の活動は、アジアへの新航路探索・漁場開発・帝国競争・地図学の進歩が絡み合う北大西洋世界の形成をよく映し出しています。以下では、父ジョンの背景と1497年航海、翌年の遠征とその行方、セバスチャンの転職と南米探検、北東航路構想と地図・組織づくり、最後に史料上の論争点と歴史的意義を整理して解説します。
ジョン・カボット――ヴェネツィアの都市技術とブリストルの野心
ジョン・カボット(c.1450–1498?)はイタリア北部生まれ(ジェノヴァともガエータともされる)で、若くして商業都市ヴェネツィアの市民権を獲得した人物です。地中海の商人・船乗りとして築いた経験は、測深・天文航法・港湾実務・信用と契約に通じる「都市の技術」に支えられていました。15世紀末、コロンブスのニュースがヨーロッパを駆け巡るなか、彼はアジアへの到達を西まわりのより北寄りの航路で試みる構想を抱きます。スペインでは十分な後援を得られず、ジョンはブリストルの商人たちと結びつき、ヘンリ7世から探索航行の特許状を獲得しました。ブリストルは北海・バルト・ビスケー湾を結ぶ毛織物交易で栄え、すでに北大西洋(アイスランド周辺)への航海経験と船員ネットワークを持っていたことが、彼の跳躍台となりました。
1497年5月、50トン級の小型船マシュー号(と推定)を中心にした艤装で、ジョンはブリストルを出帆します。北緯を高める針路で偏西風帯に苦闘しつつ6~7週間を航行し、6月末~7月初旬にかけて陸影を視認、荒磯と森林の海岸線に接近しました。上陸地点は今日なお確定しませんが、ニューファンドランド島の東岸またはケープ・ブレトン島周辺が有力視されています。彼は王の名において領有を宣言し、簡単な記念柱を立てて短期の探索を行ったのち、補給拠点の確保を急いでブリストルに帰港しました。
この航海は、アジア到達という本来の目標を果たせなかったものの、北大西洋の新漁場(特にタラの豊漁)と航路可能性の示唆をもたらし、イングランド宮廷と商人に強い印象を残します。ヘンリ7世は褒賞金を与え、翌年の大規模遠征を許可しました。ジョンは1498年、数隻の船と数百名規模で再出発し、補給・植民の可能性を視野に入れた長期行の計画を立てますが、この遠征の詳細は不明で、途中で消息を絶ったとされます(北大西洋の荒天・氷、食糧欠乏、船体損傷などのリスクが挙げられる)。彼の死没年・場所は確定せず、以後のブリストル勢による断続的な渡航(漁場利用・交易)にその成果が継承されました。
セバスチャン・カボット(活動の前半)――地図と計画、スペインでの登用
セバスチャン・カボット(c.1474–1557)は、父の航海直後から地図作成者・航海顧問として頭角を現します。若年期の具体は不明点も残りますが、1500年代初頭にはすでに英西両宮廷で「北西/北東航路」の議論に携わる存在でした。とりわけスペイン王権は、マゼラン=エルカーノの世界周航(1519–22)によって西回りのアジア到達を実証したのち、南米の大河水系や香料諸島への接近ルートをめぐる新情報を渇望していました。セバスチャンは1524年頃、一時フランス王フランソワ1世のために北西航路探索を助言したと伝えられますが、最終的にスペインに戻り、ラ・プラタ川流域の探索を託されます。
1526年、彼は数百名の乗員と複数の船を率いてセビリャを出航し、アフリカ西岸—大西洋を横断してブラジル海岸を南下、ラ・プラタ川河口に進入しました。当初の目標は香料諸島方面への航路確認でしたが、噂された金銀資源と大河の内陸ルートに引き寄せられ、彼は計画を転換して河川探検に注力します。上流のパラナ川・パラグアイ川の探索、要塞(サン・エスピリトゥ)の築造、先住民との交渉・対立、補給と疫病の苦難……遠征は長期化しました。最終的に目覚ましい金銀発見には至らず、艦隊の損耗・指揮をめぐる不満から帰国時に審問(residencia)を受けるなど、セバスチャンの指揮は必ずしも高い評価を得ませんでした。
それでも、この遠征はラ・プラタ川水系の地理情報をスペイン王権にもたらし、のちのリオ・デ・ラ・プラタ副王領やパラグアイ方面の植民展開の予備知識となりました。セバスチャン自身はスペインでの地位が揺らぐと、ふたたびイングランドとの関係を強め、地図制作・航海助言の「知の職能」を武器に、王権と商人を結びつける仲介者へと軸足を移していきます。
セバスチャン(後半)――北東航路構想とモスクワ会社、地図学の遺産
16世紀半ば、セバスチャンはロンドンに呼び戻され、アジアへの新たな到達法として北東航路(北極海経由)を提案します。西回り(コロンブス路)・南回り(喜望峰)に続く第三の選択肢として、バレンツ海—白海—ロシアを経由する経路を構想し、金融・船主・職人を糾合する共同出資会社の設立を促しました。こうして1551~1555年にかけて創設されたのが、いわゆるモスクワ会社(ロシア会社)です。同社の初期遠征(ヒュー・ウィロビー、リチャード・チャンセラーら)は白海に到達してモスクワ大公国(ロマノフ以前)との通商関係を開き、毛皮・木材・金属といった北方産品の交易路を切り開きました。これにより、イングランドはハンザに依存しない北方貿易の選択肢を得、バルト・北極圏・ロシアを結ぶ新たな経済地理を形成します。
セバスチャンはまた、地図と航海器具の改良に熱心でした。地図学では、北米東岸の輪郭とラブラドル—ハドソン湾方面の海岸線、南米南端の描写、アジア北岸の想像的表現など、当時の知識と推測が混成する世界図を編集・普及させました。彼の名で伝わる地図や地球儀は、しばしば工房・弟子・同時代の地図師との共同成果であり、単独の「作者」として確定しがたい面がありますが、宮廷—商人—学知をつなぐハブとしての役割は明瞭です。航海器具では、nocturnal(夜時計)や改良型の航程推定、磁針偏差への知見などが伝承され、北方航海のリスク管理に知的支柱を与えました。
1557年、セバスチャンはロンドンで没したとされます。波乱の宮廷人事に翻弄されつつも、彼は半世紀以上にわたりヨーロッパの複数の王権と商人社会を結び、航海計画・通商・地図という「海の知識」の政治経済化に貢献しました。世代的にはマゼランやダ・ガマのような「決定的な突破者」ではありませんが、情報を束ね、組織をつくり、航路を持続可能な経済ルートへ転じる実務において、独自の価値を示した人物です。
史料・論争点と歴史的意義――誰がどこまで到達したのか/何を残したのか
カボット父子に関する史料は、王室会計の支払い記録、航海特許状、外交書簡、年代記、同時代人の覚え書き、のちの地図・刊本に散在しており、必ずしも一枚岩ではありません。とりわけ論争的なのは「1497年にジョンが実際にどこに上陸したか」「1498年の遠征でジョンは生還したのか」「北米北岸の沿岸線の初期描写にセバスチャンはどれほど関与したか」といった点です。古地図に記された地名(Prima Vista など)や航程日数の推定、潮流・偏針・氷況の復元、同時代の証言の信頼性評価が交錯し、学説は時に修正されてきました。
それでも、いくつかの合意点は固まっています。第一に、1497年のジョンの航海がイングランドの北米関与の象徴的出発点であったこと。第二に、ニューファンドランド—グランドバンクの漁場情報が16世紀のブリストル勢を中心とする渡洋漁業を活性化させ、ヨーロッパの魚食文化と大西洋経済に恒常的な影響を与えたこと。第三に、セバスチャンのラ・プラタ探検が直接の黄金郷に結びつかずとも、スペインの南米内陸進出の地理情報を厚くしたこと。第四に、北東航路構想とモスクワ会社の組成が、イングランドの会社方式(特許会社)による海外進出の先駆けとなり、のちの東インド会社・レヴァント会社など一連の企業体制の雛形を提示したこと、です。
父子の意義は、単なる「発見」の物語に留まりません。ジョンは北緯高い海域での小型船運用・補給・帰港という現場の技術を、セバスチャンは宮廷と都市を横断する制度設計と情報編集を、それぞれの時代に応じて体現しました。新航路の探索は常に、技術(船・航法・測量)、制度(特許・関税・会社)、文化(地図・叙述・名誉)の三層で進みます。カボット父子は、その三層を北大西洋という「寒い海」で結び直した人物たちでした。
最後に、カボット父子の記憶は、国家的ナラティブの中で何度も再解釈されてきました。イングランド(のちイギリス)では北米植民の正統化に、スペインでは競争相手・協力者としての文脈に、カナダでは「最初のヨーロッパ人の到来」を語る導入として、それぞれの歴史教育や記念碑に刻まれています。史料批判を踏まえつつ、多声的な記憶のあり方を読むことが、父子の実像に近づくための鍵となります。航路・漁場・地図・会社—これらのキーワードでカボットを整理すると、彼らがどのように北大西洋と世界経済の地図を塗り替えたかが、立体的に浮かび上がってくるのです。

