カレー – 世界史用語集

カレー(Calais/仏、英名も同綴)は、フランス北部パ・ド・カレー県にある英仏海峡に面した港湾都市で、ヨーロッパ史において英仏関係・海上交易・戦争の要衝として長く特別な地位を占めてきた都市です。中世には毛織物と羊毛の交易を結ぶ「スタープル(特定取引指定港)」として繁栄し、1347年から1558年まで約2世紀にわたりイングランドの支配下に置かれました。その間、百年戦争の前線・関税と金融の集積地・外交の窓口として重要でした。近世以降はフランスの国境港として発展し、近代戦では英仏間の連絡線の要として砲撃や占領の対象になりました。今日ではドーヴァーと結ぶフェリーや英仏海峡トンネル(ユーロトンネル)の玄関口であると同時に、ロダンの彫像「カレーの市民」で知られる記憶の都市でもあります。以下では、起源から中世の発展、英領期とスタープル港の機能、フランス回復と近世の変化、近現代の戦争・交通・記憶を、わかりやすく整理して解説します。

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起源と中世の発展—海峡の狭さが生んだ港市の条件

カレーは、ドーヴァー海峡の最狭部(約34km)に面し、干潟と砂州が発達する低平な海岸線に築かれた港町です。古代末から中世初期にかけて、周辺のグラヴリーヌやサン=トメールなど内陸水路の港と連携し、ローマ遺構と大陸沿岸の航路網の中に位置づけられました。潮汐差が大きく浅瀬が多いこの海域では、港湾整備と灯台・標識の整備、港口の浚渫が都市の生命線で、領主や都市共同体が費用を負担して維持・改良を重ねます。

12〜13世紀、フランドルの毛織物産業とイングランドの羊毛供給の結びつきが強まると、海峡を横断する物流の結節点としてカレーは重要性を増しました。強い海風と潮流に適応した小型帆走船(コッグや後のキャラック)と、沿岸から内陸へ伸びる運河網・市場の発達が、都市の商業的役割を後押しします。都市は城壁と堀で固められ、港口には防御塔が置かれ、戦争時の防衛も意識された配置でした。

英領期(1347–1558)とスタープル港—百年戦争の前線と金融の結節

カレーを世界史上特に有名にしたのは、百年戦争中の1346–47年の包囲戦と、その後の約211年間に及ぶイングランドの支配です。1346年、エドワード3世はクレシーの勝利ののちカレーを包囲し、翌年に降伏を受け入れました。このときの逸話として、市の首長たちが裸足に縄をかけて降伏した「カレーの市民」が知られます(後世ロダンが彫像に昇華)。イングランド王権は都市に特権を与える一方、守備隊と補給拠点を置いて大陸での橋頭堡としました。

英領カレーの核は、羊毛の「スタープル(Staple)」制度です。これは特定の港に輸出入を集中させ、検査・関税徴収・品質管理を一括管理する制度で、カレーは14世紀後半から15世紀にかけてイングランド羊毛・毛織物の指定港として機能しました。ロンドンの商人やイタリア系・ハンザ系の商人が常駐し、信用取引・両替・先物に近い取引が行われ、都市は実体経済と金融の接点になりました。王権はここから安定した関税収入を得て戦費に充て、都市は関税・倉庫業・運送で利益を上げました。

軍事面では、カレーは「パス・ド・カレー」(カレー辺境区)の一角として周辺の要塞線とともに守られ、内陸のギネやアルドルなどと連絡しつつ、フランス側の度重なる攻囲に耐えました。イングランドの王と廷臣にとって、カレーは大陸外交の舞台でもあり、王同士の会見や条約交渉の場としてもしばしば使われました。都市の人口は英仏・フランドル・イタリア・ドイツ系が混在し、言語と法慣習が交錯する国際都市でした。

しかし、長期の英仏対立のなかで補給線の維持は困難で、16世紀半ばにはイングランドの国力と海上戦略の転換(大陸拠点より海上優位の重視)も重なり、カレーの地位は相対的に低下していきます。

フランスの回復(1558)と近世のカレー—国境港の再編と戦争の影

1558年、フランス王アンリ2世の将ギーズ公フランソワが奇襲的にカレーを奪回すると、都市は二世紀ぶりにフランスへ復帰しました。翌1559年のカトー=カンブレジ条約でこの回復は国際的に確認され、イングランドは大陸最後の領土を失うことになります。イングランドのメアリ1世が「カレーを失い、死ねばその名は心に刻まれているだろう」と嘆いたと伝えられるのは、この象徴性ゆえです。

フランス領となったカレーは、要塞都市として再整備されます。17世紀にはルイ14世の下でヴォーバンが要塞化を進め、星型稜堡と外郭防御、水堀・閘門・土塁の連鎖で都市を取り巻きました。戦争の度に包囲と砲撃に晒されるリスクは残りましたが、整備された防御は国境の安定に寄与します。経済面では、海峡通航の拠点として沿岸航路・漁業・塩業、後にはレース・繊維などの軽工業が育ち、内陸の都市圏と結ぶ道路・運河が改良されました。

近世から近代にかけて、カレーはまた、英仏の外交・戦争の窓でした。英仏の休戦や捕虜交換、密貿易の取り締まり、私掠船の根拠地の監視など、国境港としての実務が積み重ねられます。ナポレオン期には対英侵攻計画の前進基地構想があり、港湾・集結地の整備が進められましたが、制海権の問題から実現しませんでした。

近現代—世界大戦・交通革命・記憶の都市

第一次世界大戦では、カレーとその周辺は連合軍の補給・兵站の主要港の一つとなり、イギリス本土との間で兵員・物資が大量に往復しました。ドイツ軍の爆撃や潜水艦戦の脅威に晒されながらも、港湾は機能を維持し、連合側の戦争遂行を支えます。第二次世界大戦では、1940年のフランス戦に際してカレー守備隊がドイツ軍に包囲され、激しい市街戦の末に陥落しましたが、その抵抗はダンケルク撤退(ダイナモ作戦)を支援する時間を稼いだとも評価されます。占領下では大西洋の壁の一部として砲台が設置され、連合軍の爆撃とV1飛行爆弾・V2ロケットの発射基地に対する攻撃で都市は大きな被害を受けました。

戦後復興により港湾・市街は再建され、フェリー航路と高速道路が整備されます。1994年に英仏海峡トンネル(ユーロトンネル)が開通すると、カレー郊外のコケルルに大規模なターミナルが設けられ、鉄道(ユーロスターの貨物・車両輸送、旅客は主にカレー=フレタン経由)・自動車の往来が飛躍的に増えました。これにより、カレーは「海の関門」から「地中の関門」も兼ねる複合交通拠点へ移行します。貿易・観光は活性化する一方、移動と国境管理をめぐる課題も顕在化し、21世紀には移民・難民の集住地(いわゆる「ジャングル」)問題が国際的関心を集めました。港町の歴史は、常に境界と人の移動の物語でもあるのです。

文化的記憶としては、オーギュスト・ロダンの「カレーの市民」が都市の象徴になっています。百年戦争時の降伏の場面で自らを差し出した6名の市民を等身大で表したこの彫像は、英雄的勝利ではなく、共同体のために苦難を引き受ける倫理を静かに伝えます。市庁舎前の鐘楼(ベフロワ)や煉瓦と石灰岩を用いたネオ・フランドル様式の建築は、北海沿岸の都市文化とフランス行政建築の折衷を示し、観光資源としても重要です。

地名としての「パ・ド・カレー」は歴史地理的にも意味を持ちます。英仏の最短距離を示す「ドーヴァー=カレー」ラインは、古来使節や商隊、軍隊、巡礼、亡命者が往来した道でした。郵便・電信・海底ケーブル、そしてトンネルへと、通信・交通はこのラインに沿って発達し、カレーは繰り返し「大陸と島」をつなぐ象徴になってきました。

カレーをめぐるキーワード—スタープル、境界、記憶

カレーの長い歴史は、いくつかのキーワードに要約できます。第一に「スタープル」です。中世の特定港集中制度は、国家財政・品質管理・国際商人ネットワークの三者をつなぎ、都市の繁栄と王権の財政を支えました。第二に「境界」です。港湾・要塞・関税・検疫・出入国管理という境界装置は、戦争と平和の両局面で都市の機能を規定しました。第三に「記憶」です。ロダンの彫像に体現される市民倫理、世界大戦と占領の記憶、移動の時代のジレンマは、都市の公共空間や博物館、記念碑の配置に刻まれています。

総じて、カレーは単なる「海峡の港」ではありません。英仏関係・交易・戦争・移動の歴史が折り重なる舞台であり、時代ごとに役回りを変えながらも、常にヨーロッパの「最短の線」に位置してきました。城壁と稜堡、灯台とフェリー、トンネルと高速道路—ハードの変化の奥に、境界に生きる都市の知恵と緊張が見えてきます。過去を知ることは、現在の課題(安全・人の移動・文化交流)を考える手がかりになりますし、カレーの歴史はその格好の教材であると言えます。